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杏々の異世界さんぽ~召喚されたのに勇者ではありませんでした。なので冒険者になって、ご飯を食べます~  作者: わかめ
王都と下積み冒険者

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数日くらい


 緑ランクへの昇格審査が始まったからといって、杏々の生活が急に変わるわけではなかった。


 翌日も朝になれば起きて、顔を洗い、簡単に身体を整えてからギルドへ向かう。受付嬢からは普段通り仕事をしていていいと言われているので、杏々も普段通り掲示板を眺めるつもりだった。


 ただ、その日は依頼を選ぶ前に訓練場へ寄った。


 完成した川鎧魚の腕当てを、まだまともに動かして試していなかったからだ。


 訓練場の端を借り、身体の圧縮を解く。


 本来の姿へ戻った杏々は左腕へ腕当てを巻き付け、革帯の締め具合を確認してから手首を回した。肘を曲げ、前腕を内外へ返し、肩から指先までの動きに引っ掛かりがないかを順番に見ていく。


 仮組みの時に気になった手首側の縁は、もう掌を大きく返しても触れなかった。内側の革も薄くなっているので、腕へ何かを巻いている感覚こそ残るものの、力を通す時に邪魔になるほどではない。


「これなら大丈夫そうですね」


 まずは型だけを通す。


 攻撃を受け流す時、杏々は相手の力を正面から止めない。触れた瞬間に方向をずらし、自分の身体の外へ逃がす。そのために動くのは前腕だけではなく、足の位置、腰の向き、肩の角度まで全部つながっている。


 何度か同じ動きを繰り返しながら少しずつ速度を上げると、左腕が前へ出て、身体の前を横切り、そのまま腰の回転と一緒に外へ抜けていった。


 腕当ての分だけ、左腕はごくわずかに重い。


 けれど動きの始まりを邪魔するほどではなかった。むしろ表面を革が覆っている分、相手の爪や刃へ前腕を触れさせた時、皮膚を直接擦る心配は減る。


 次に、訓練場へ置かれている木製の練習棒を一本借りた。


 近くにいた職員へ頼み、軽く打ち込んでもらう。


「本当に軽くでいいんですか?」


「最初はそれでお願いします。受け止めるためではなく、接触した時の感触を確認したいので」


「分かりました」


 棒が斜め上から下りてくる。


 杏々は左腕を差し込み、腕当ての外側へ軽く触れさせた。


 そこで止めず、身体を半歩ずらしながら棒の軌道を外へ流す。


 乾いた音が一つ鳴った。


「もう一度お願いします」


 二回目。


 三回目。


 角度を変え、少しだけ速くする。次は横から。


 何度か繰り返したところで、杏々は一度動きを止めた。


「今の角度だと、ちょうど鱗が入っている辺りへ当たっていますね」


「何かまずいですか?」


「いえ。衝撃が腕の一点に残っていないので、使い方としては問題なさそうです。外側の革も滑りすぎませんし、この程度なら動きを邪魔しません」


「……俺には、今のでそこまで分かるのがよく分かりません」


「触った時に分かりますよ」


「たぶん杏々さんだからですよ、それ」


 職員は苦笑した。


 杏々はもう数回だけ確かめてから、礼を言って練習棒を返した。


 重い一撃を受け止めるための防具ではない。


 そこは最初から変わらない。


 避けられるなら避ける。流せるなら流す。それでも爪や浅い刃が一瞬触れることはある。その時だけ、自分の皮膚と相手の攻撃の間へ一枚入ってくれれば十分だった。


「実戦でも使うんですよね?」


「使うと思います。でも、当てないで済むならその方がいいです」


「防具なのに?」


「防具だからですよ」


 装備したから攻撃を受けていいわけではない。


 杏々にとっては、それが普通だった。


 確認を終えると身体を圧縮し、いつもの小さな姿へ戻る。腕当ては本来の身体に合わせて作られているため、外して鞄へしまった。


「終わり」


 そのまま受付へ向かう。


「腕当て、どうでした?」


「使えそう」


「壊してません?」


「壊してない」


「ならよかったです」


 杏々は掲示板を見る。


「今日、何ある?」


「審査中でも本当に普段通りですね」


「普通に仕事していいって言った」


「言いましたけど」


「じゃあやる」


「はいはい」


 その日は、王都南側の小さな村まで薬箱を届ける依頼を選んだ。


 往復しても日暮れ前には戻れる。道も知っていて、途中で魔物が出ることもなく、特に変わったことは起きなかった。


 審査中だからといって、何か特別なことをする必要はない。


 いつも通り依頼を受け、いつも通り終わらせる。


 それで一日目が過ぎた。


 二日目は、街道沿いに残る古い標識を確認する仕事を受けた。傾いているもの、文字が読みにくくなっているもの、草に隠れかけているものを記録して戻るだけの地味な依頼だったが、それも問題なく終わった。


 三日目は仕事を入れなかった。


 昇格審査がどうなっているのか、杏々から受付嬢へ聞くこともしなかった。


 数日と言われたのなら、数日待てばいい。


 待っている間にも食べるものはあるし、家へ戻ればもっと長く待っているものもある。


 午後、杏々は仕込んである壺の様子を久しぶりに確認した。


 必要以上に開けないようにしているので、蓋を外して表面を見るのも久しぶりだった。仕込んだばかりの頃とは色が少し変わり、匂いにも深さが出ている。


 けれど、まだ食べる段階ではない。


「まだ」


 杏々は蓋を戻した。


 こちらは数日どころではない。


 味噌になる予定のものも、醤油になる予定のものも、完成するまでにはまだ長くかかる。そもそも元の世界で聞いたことを思い出しながら、それらしい材料と手順で試しているだけなので、本当に思った通りのものになるかも分からない。


 それでも、待つしかない。


 畑もそうだった。


 川鎧魚がまた市場へ入るのもそう。


 保存食の試験だって、一日で結果が出たわけではない。


 こちらの世界へ来たばかりの頃、杏々にとって食べ物は「見つける」「買う」「食べる」でほとんど終わっていた。


 最近はそこへ、「待つ」が増えた。


 育つまで待つ。


 漬かるまで待つ。


 結果が出るまで待つ。


 魚が入るまで待つ。


 ランクが上がるまで待つ。


 杏々は元々、何もせずじっとしているのが好きなわけではない。


 ただ、待つというのは何もしないこととは少し違うらしい。その間に別の仕事をして、別のものを食べていれば、気づいた頃には少し先へ進んでいる。


 そう思えば、数日くらいは短かった。


 夕方、市場へ出た杏々は肉屋の前で足を止めた。


「赤角牛ある?」


「それはうちじゃ滅多に入らんぞ」


「知ってる」


「じゃあ毎回聞くなよ」


「聞いたらあるかもしれない」


「今日はない」


「そっか」


 代わりに岩鳥の腿肉を買った。


 皮付きだったので、家へ戻ると弱めの火で中まで温め、最後に皮側を強く焼く。脂が落ち、表面がぱりぱりになったところへ塩を振った。


 一口食べる。


「おいしい」


 赤角牛ではなくても、美味しいものは美味しい。


 待っている間に、他のものまで不味くなるわけではない。


     ◆


 四日目の朝。


 ギルドへ入った杏々は、いつものように掲示板へ向かおうとして受付嬢に止められた。


「杏々さん」


「何?」


「今日は依頼を見る前に、こちらへお願いします」


「また相談室?」


「今日はそこまで大げさじゃありません」


「怒られる?」


「なんで毎回そこを確認するんですか」


「念のため」


「怒られません」


「なら行く」


 受付の端へ移動すると、ガルドも待っていた。


 机の上には一枚の紙と、見慣れた資格証が置かれている。


 杏々は紙より先に資格証を見た。


「何これ?」


「まず話を聞け」


「うん」


 ガルドは苦笑しながら紙を持ち上げる。


「昇格審査が終わった」


「早い」


「言っただろ。数日だ」


「うん」


「結果から言うぞ」


 ガルドは一度だけ間を置いた。


「杏々。お前の緑ランクへの昇格が承認された」


「お」


 受付嬢が少し拍子抜けしたように杏々を見る。


「もう少し何かないんですか?」


「緑なった?」


「なりました」


「今日から?」


「今日からです」


 杏々の目が少しだけ開く。


「じゃあ赤角牛の依頼見ていい?」


「最初に聞くのがそれですか!」


「ずっと待ってた」


「知っていますけど!」


 ガルドが声を上げて笑った。


「まあ、いいだろ。お前らしい」


 杏々は資格証を手に取った。


 形そのものはこれまでと変わらない。


 登録されている情報が更新され、表示されるランクの色だけが赤から緑へ変わっていた。


「緑」


「ああ」


「中級?」


「今日からな」


 杏々はしばらく資格証を見つめた。


 白。


 黄。


 赤。


 そして緑。


 この世界へ来たばかりの頃は、冒険者になること自体に大きな意味を感じていたわけではない。


 知らない場所へ突然放り出され、文字も読めず、こちらの金の価値もよく分からなかった。とりあえず食費を稼がなければならないから、紹介された仕事を始めただけだった。


 最初は、依頼書すら一人では読めなかった。


 市場で値段を見るために数字を覚えた。


 仕事の報告をするために文字を少しずつ覚えた。


 街の外へ出るようになり、森や川や村へ行った。


 依頼の途中で見つけたものを勝手に追わないことも覚えた。


 自分ができるからといって、同行者の仕事まで取らなくていいことも覚えた。


 強い相手を倒せることと、仕事をきちんと終わらせられることは別だと、今なら分かる。


 そういうものが一つずつ積み重なって、資格証の色がまた一つ変わった。


「緑」


 杏々が言った。


「どうだ?」


 ガルドが聞く。


「仕事増える」


「増える」


「遠く行ける」


「そうだな」


「大きい魔物もある」


「ある」


「食べられるのも」


「……依頼による」


「楽しみ」


 大げさに喜ぶことはなかった。


 けれど、小さな口元はほんの少しだけ上がっていた。


「それと、ここから先は少し扱いが変わる」


 ガルドが続けた。


「昨日までの説明と重なるが、緑は中級だ。依頼によっては現場で下位ランクへ指示を出す立場になる。危険な場所で自分だけ動ければいい、では済まん」


「うん」


「撤退を決めることもある。依頼を途中で切り上げることだってある」


「危なかったら帰る」


「それでいい」


「食べたいのいても?」


「特にそこだ」


「分かった」


「今、少し間があったな」


「考えた」


「考えた上で守れ」


「守る」


 受付嬢からも、緑ランク向け依頼について改めて説明を受けた。


 赤以下と共通する依頼もあるが、中級以上にだけ公開される仕事も増える。報酬が大きくなる代わりに、指定された装備や薬品を用意しなければならないもの、複数日を前提にしたもの、素材の状態そのものが達成条件へ含まれるものもある。


「指定された薬は持つ」


「はい」


「縄も?」


「必要と書いてあれば」


「自分で登れても?」


「持ってください」


「分かった」


「下のランクの人が一緒なら?」


「勝手に先行しない」


「魔物がいたら?」


「依頼見る。必要なければ追わない」


「食べられそうでも?」


 杏々は少し考えた。


「……依頼見る」


「よろしいです」


 ガルドが笑う。


「そこまで分かってりゃ十分だ」


 説明が終わり、杏々はようやく中級向けの掲示板の前へ立った。


 赤までのものより依頼書の枚数は少ない。


 その代わり、一枚ごとの内容が長かった。


 まだ長文を一人で完全に読むのは難しいので、受付嬢にも一緒に見てもらう。


「これ何?」


「岩壁草の採取です」


「どこ?」


「王都北東の岩場です。崖の途中に生えています」


「食べられる?」


「薬草です」


「そっか」


 次を見る。


「これ?」


「灰爪鬼の討伐ですね」


「食べられる?」


「おすすめはしません」


「じゃあいい」


「判断基準が早いですね……」


 さらに一枚。


「これは?」


 受付嬢が依頼書を確認した。


「岩鳥の群れから成鳥を二羽。ただし繁殖地なので、巣と雛を荒らさないこと。依頼人は食堂です」


 杏々の目が変わった。


「食べるやつ?」


「食材用ですね」


「これ受ける」


「早い!」


「岩鳥おいしい」


「まだ説明があります」


「聞く」


 食べ物が絡んでいても、そこは以前より待てる。


 受付嬢が続きを読む。


「緑ランクなら単独でも受注できます。条件は成鳥二羽のみ。繁殖地で大きな騒ぎを起こさないこと。巣や雛を傷つけないこと。不要な個体を追わないこと。それから食材用なので、肉を傷めすぎると買い取り額が下がります」


「肉傷めたらだめ?」


「食材用ですから」


 杏々は依頼書をじっと見た。


「じゃあ今日行かない」


「え?」


「準備する」


 受付嬢が今度は別の意味で驚いた。


「すぐ受けないんですか?」


「場所ちゃんと聞く。岩鳥のどこ傷つけたら困るかも聞く」


「それはこちらでも確認できますよ」


「食堂にも聞きたい」


「何をです?」


「どこ残したら一番おいしいか」


 受付嬢が黙った。


 ガルドが少し離れたところで笑っている。


「緑ランク最初の依頼が、それでいいんですか?」


「いい」


「一応、中級冒険者になったんですよ?」


「うん」


「もっとこう、いかにも危険そうな討伐とか……」


「岩鳥も仕事」


「そうですけど」


「食べられるし」


「結局そこなんですね」


 杏々は満足そうに依頼書を見た。


 緑ランクになった。


 中級冒険者になった。


 けれど、杏々がやることそのものは、たぶんこれからもそれほど変わらない。


 依頼を選び、必要なことを聞き、準備をして、ちゃんと終わらせる。


 終わったら報告をする。


 報酬をもらう。


 そして、美味しいものがあれば食べる。


 ただ、これから行ける場所は昨日までより遠くなる。


 採りに行くものは、もっと見つけにくくなる。


 出会う魔物も、きっと強くなる。


 赤ランクまでが王都の周りで仕事を覚える時間だったのなら、緑になったここからは、その外へ少しずつ足を伸ばしていくことになるのだろう。


 杏々本人は、そんなふうには考えていなかったけれど。


「明日これ」


 手にした岩鳥の依頼書を指して、杏々は言った。


「はい。では明日の受注で準備しておきます」


「うん」


 その日の夜。


 杏々は家で日記を開いた。


『緑になった』

『中級』


 まず二行書く。


 それから少し考えて、


『白から始めた』

『黄』

『赤』

『緑』


 と並べた。


 こうして書いてみると、意外と増えている。


 その下には、明日のことを書く。


『岩鳥二羽』

『巣と雛だめ』

『肉傷めない』

『きれいに倒す』


 さらに最後へ、


『赤角牛は今日なかった』


 と付け足した。


 緑になったからといって、欲しいものがすぐ目の前へ出てくるわけではない。


 それくらいは、もう分かっている。


 杏々は日記を閉じ、いつもの部屋を見回した。


 剣がある。


 作りかけだったぬいぐるみがある。


 時間のかかる壺がある。


 今日買ってきた食材がある。


 明日になれば、また仕事へ行く。


 召喚された直後には、この世界でこんなふうに暮らしている自分など想像もしていなかった。


 けれど今は、この部屋へ帰ってくることも、市場で明日の食べ物を探すことも、ギルドへ行って仕事を選ぶことも、もう特別な出来事ではない。


 杏々はこの世界で、ちゃんと生活をしていた。


 そして明日から、その生活の範囲が少しだけ広がる。


 王都での下積みは、これで終わり。


 次は中級冒険者として、もう少し遠くまで歩いていく。


 もちろん杏々が考えているのは、そんな大げさなことではない。


「岩鳥、どうしよう」


 明日持ち帰る肉をどう食べるか。


 今はそれが一番大事だった。


ここで2章は完結となります

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます

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