緑になる前
翌朝、杏々はいつもより少し遅い時間に冒険者ギルドへ向かった。
受付嬢から「仕事を入れないでほしい」と言われているので、朝一番で掲示板を見る必要がない。せっかく時間が空いているならと、約束の前にギルドの訓練場を借りて身体を整えることにした。
端の方へ移動し、周囲に十分な空間があることを確認してから身体の圧縮を解く。
本来の姿へ戻った杏々は、しばらくその場に立ったまま呼吸を整えた。
最近は長い遠征が続いていないこともあって、身体の状態は安定している。圧縮状態から本来の身体へ戻した直後に感じていた細かなずれも、以前に比べればかなり小さい。
肩から腕へ。
背中から腰へ。
腰から脚へ。
呼吸に合わせて順番に意識を通し、関節の位置と筋肉の張り、血の巡りを確認する。それからゆっくりと型へ入り、動きを少しずつ大きくしていった。
途中から剣も取った。
腕だけで振るのではなく、足から腰、背中、肩、肘を通り、最後に刃へ力が抜けていくように動かす。余計な力を残さず、最初はゆっくり、次は少し速く、歩法も重ねながら身体全体のつながりを確かめていく。
以前なら、本来の身体へ戻した直後は何度か動かなければ噛み合わなかった部分が、今は最初からかなり近いところまで揃っていた。
「以前より、だいぶ楽になっていますね」
杏々は一度剣を下ろし、呼吸を確認する。
出力そのものが大きくなったわけではない。
同じ動きをするために使う力が減っている。
呼吸も乱れにくく、身体の各所へ余計な力が残らない。本来の身体を維持している時の消耗も、異世界へ来たばかりの頃に比べれば明らかに小さくなっていた。
圧縮した身体で歩き、戦い、採取をし、必要な時だけ出力を上げる。その状態を長く維持しながら細かな身体操作を繰り返してきたことが、本来の身体にも影響しているらしい。
杏々はしばらく考えてから、もう一度剣を構えた。
「新しく何かできるようになったというより、無駄なところへ力を使わなくなった感じですね。圧縮した状態での身体操作が、本来の身体にも馴染んできたのかもしれません」
それなら悪いことではない。
維持に使う力が減れば、その分だけ長く本来の身体でいられる。食事量そのものを減らすつもりはなかったが、身体を維持するためだけに消えていく分が少なくなるなら都合がいい。
もう何度か型を通し、最後に剣の軌道を確かめる。
十分だった。
杏々は身体を落ち着かせてから圧縮し、いつもの小さな姿へ戻った。
視線が下がる。
身体にかかる負担も一気に小さくなる。
「終わり」
ちょうど約束の時間だった。
◆
いつもの受付へ行くと、受付嬢は杏々を見るなり奥を指した。
「今日はこっちです」
「受付じゃない?」
「相談室を使います」
「怒られるやつ?」
「昨日も違うと言いましたよね」
「確認」
「怒られません」
「ならいい」
案内されたのは、依頼人との打ち合わせなどにも使われる小さな部屋だった。
中には机が一つと椅子が三つあり、受付嬢のほかにもう一人、ガルドが待っていた。
「お」
「来たか」
「ガルドさんもいる」
「今日は俺も話す」
杏々は椅子へ座った。
小さい身体なので、深く腰掛けると足が床へ届かない。
ガルドが机の上へ何枚か紙を置く。
「まず先に言っておくが、問題を起こしたから呼んだわけじゃない」
「うん」
「むしろ逆だ」
杏々が紙を見る。
「褒める?」
「まだ数えるな」
「分かった」
受付嬢が少し笑った。
ガルドは一番上の紙を指で叩く。
「赤ランクへ上がってから、お前が受けた仕事の記録だ」
「いっぱい」
「結構やったな」
杏々にも数字と簡単な見出しくらいは読める。長い文章は難しいが、記録の枚数が増えていることは分かった。
「護衛。採取同行。長距離。調査。街道確認。下のランクを連れた仕事。複数人での仕事」
ガルドが順番に挙げていく。
「昨日の薬師護衛も入った」
「森猪倒してないやつ」
「それだ」
「倒した方がよかった?」
「逆だ」
ガルドは即答した。
「倒さなかったから評価が上がった」
杏々が少し考える。
「倒したら下がった?」
「必ず下がるとは言わん。ただ、昨日の状況で理由もなく三匹追いかけてたら、少なくとも俺は評価しない」
「依頼じゃないから?」
「それもある」
ガルドは椅子へ深く座り直した。
「緑からは中級だ。赤までと何が一番違うと思う?」
「受けられる仕事増える」
「まあ、それも正しい」
「赤角牛」
「それはいったん置け」
「大事なのに」
「あとで聞く」
杏々は少し不満そうだったが黙った。
「緑からは危ない場所へ行く仕事が増える。強い魔物も出る。採るのが難しい素材も増えるし、長い依頼や複数人で動く仕事も増えてくる」
「うん」
「だから、本人が強いだけじゃ足りない」
昨日の仕事なら、森猪三匹を倒せることより、薬師二人と黄ランク二人を無事に帰すことの方が重要だった。
必要のない戦闘を始めれば、勝ったとしても荷物が壊れるかもしれない。同行者が怪我をするかもしれないし、時間を失って依頼そのものへ支障が出る可能性もある。
「中級になると、下のランクと一緒に仕事する機会ももっと増える」
「前にもやった」
「ああ。だからその記録も見てる」
薬草採取で黄ランク二人を連れた時。
旧街道調査で黄ランクと同行した時。
今回の薬師護衛。
杏々は必要以上に仕事を奪わず、危険な時だけ止めている。
「お前、自分がやった方が早い仕事でも、最近は他の奴にやらせられるようになったな」
「その人の仕事なら」
「それができない奴も結構いる」
「なんで?」
「自分の方が上手いからだ」
杏々には少し分からなかった。
「でも、それやったらその人やることなくなる」
「そういうことだ」
ガルドが笑う。
「強い奴ほど、自分で全部やった方が早い。だが集団で動く時、それをやる奴は扱いにくい」
杏々は前に新人二人を連れて林へ行った時のことを思い出した。
道を探すのも、薬草を見つけるのも、角兎を倒すのも、杏々がやれば全部早かった。
でも、それでは二人の依頼ではなくなる。
「そういうのも緑見る?」
「かなり見る」
「戦う強さより?」
「緑へ上げる段階なら、お前の場合はな」
杏々が首を傾げる。
「私の場合?」
「お前の戦闘能力を今さら疑ってる奴はいない」
受付嬢も頷く。
「森爪熊の件もありますし、それ以前から記録は十分です。少なくとも緑ランクに必要な戦闘能力があるか、という確認試験を杏々さんへやっても、ほとんど意味がありません」
「戦う試験ない?」
「ありません」
「よかった」
「そんなに嫌でした?」
「お腹減るかもしれない」
「そっちですか」
杏々にとって、勝てるかどうかより食費の方が問題だった。
ガルドが咳払いして話を戻す。
「それでだ」
紙をもう一枚出した。
「赤ランクになってから必要な期間も、そろそろ条件を満たす」
杏々が顔を上げる。
「期間?」
「赤に上がってすぐ緑にはできない。どれだけ強くてもな」
「前聞いた」
「覚えてたか」
「赤角牛関係あるから」
「やっぱりそこなんだな」
受付嬢が笑いを堪える。
ガルドは紙へ目を落とした。
「依頼の種類も足りてる。大きな規則違反もなし。依頼主との揉め事もなし。下位ランクとの同行記録も問題なし。昨日ので、判断面も十分だと見てる」
杏々は少し待った。
「じゃあ緑?」
「まだ」
「まだか」
「最後まで聞け」
少し肩を落とした杏々を見て、受付嬢が笑った。
「昇格候補として正式に審査へ回す、という話です」
「審査?」
「ここから記録をまとめて、ギルド側で確認します」
「私何する?」
「基本的には何もしなくていいです」
「お」
「普通に仕事してください」
「いつまで?」
「数日程度です」
「長くない」
「はい。審査そのものには、それほど時間はかかりません」
杏々は頷いた。
数日なら短い。
味噌も醤油も、結果が出るまでにはもっとかかる。畑のことだって、少し変化が見えたからといってすぐ結論を出せるものではない。
最近の杏々にとって、数日待つ程度はもう「長い」のうちに入らなかった。
「ただし、一つ確認したいことがある」
ガルドが言う。
「緑になれば、本当に仕事の幅が広がる。今までより危険な採取地へ入ることもある。中型以上の魔物を討伐する依頼も増える。場合によっては大型も相手にする」
杏々の目が少しだけ変わる。
「大型」
「嬉しそうな顔するな」
「してない」
「してるぞ」
大型の魔物。
ということは、肉も大きい可能性が高い。
杏々は一応、まだ口には出さなかった。
「それに、魔物を倒すことだけが目的じゃない依頼も増える」
高価な素材を傷つけずに持ち帰る。
危険な場所で採取をする。
傷つけてはいけない植物を見分ける。
他の冒険者と役割を分ける。
依頼によっては、討伐対象そのものより周囲の環境や同行者の方が厄介なこともある。
「今までより、何でも自分一人で片付けりゃいいって仕事じゃなくなる」
「それは分かる」
「だから確認する」
ガルドが杏々を見る。
「緑になりたいか?」
杏々はすぐに答えようとして、一度だけ止まった。
「赤角牛ある?」
「そこからかよ」
「大事」
ガルドが額を押さえる。
受付嬢が代わりに答えた。
「緑になると、赤角牛の討伐や素材採取に関係する依頼を受けられる可能性はかなり増えます」
「じゃあなる」
「決断が軽い!」
「でも仕事増えるのもいい」
杏々は続ける。
「遠いところも行ける?」
「増えるな」
「食べ物も?」
「それは場所による」
「珍しい素材も?」
「増える」
「ならなる」
ガルドはしばらく杏々を見ていた。
「……まあ、理由が食い物でも、やること分かってるならいいか」
「ちゃんと仕事する」
「そこはもう信用してる」
その一言に、杏々が少しだけ反応した。
「褒めた?」
「今のは……まあ、褒めた」
「一個」
「今日最初の一個な」
杏々は満足した。
◆
話はそこで終わらなかった。
緑ランクで増える仕事について、もう少し具体的な説明を受ける。
まず、採集。
赤までなら街道や村から比較的近い場所で取れるものが多かったが、緑になると魔物の縄張りや崖地、深い森林、洞窟などにある素材も対象になる。
「崖?」
「崖」
「登る?」
「場合によっては」
「できる」
「杏々さん基準で考えないでくださいね」
受付嬢がすぐに止めた。
「できても、依頼書に必要な装備が書いてあれば持っていってください。命綱が必要なら使う。同行者がいるなら自分だけ先に登らない」
「うん」
「本当にお願いしますね」
「分かった」
次に討伐。
緑では、赤までより一回り危険な魔物を扱う。
身体が大きいだけではない。硬い甲殻を持つもの、毒や麻痺を使うもの、火や冷気に近い特殊な性質を持つもの、群れをまとめる個体など、単純に殴れば終わるとは限らない相手が増える。
「毒もある?」
「あります」
「薬持つ?」
「もちろんです」
「ならいい」
受付嬢が少し驚く。
「そこはちゃんとしてるんですね」
「毒だから」
「前にも似たことを聞いた気がします」
杏々にとって、毒を受けた時に身体の中で広がる速度を調整することと、毒そのものを治すことは別だった。
血の巡りや呼吸を調整して広がりを遅らせることはできる。
症状の出る範囲をある程度抑えることもできる。
けれど、それで毒そのものが消えるわけではない。
「動ける時間作って、薬使う」
「……何を作るんです?」
「時間」
「どうやって?」
「血の回り遅くしたり」
受付嬢が黙った。
ガルドも黙った。
「何?」
「いや」
ガルドが杏々を見る。
「それ、お前には普通なのか?」
「できるよ?」
「そうか」
ガルドは一度天井を見た。
「緑へ上げていいのか不安になってきた」
「なんで?」
「違う意味でだ」
受付嬢がため息をつく。
「とにかく、できるからといって治療を省かないでくださいね」
「省かないよ。残るし」
「ならいいです」
「知らない毒ならもっとちゃんと薬使う」
「それもお願いします」
気で広がりを遅らせるのは、あくまで時間を稼ぐためだ。
安全なところまで移動する。
必要なら依頼を中断する。
その後で解毒薬や治療を使う。
杏々自身はそのつもりだったが、受付嬢の反応を見る限り、その前提まできちんと説明しておいた方がよさそうだった。
最後は素材の扱いだった。
「討伐依頼でも、素材の状態が報酬に関わるものが増えます」
「肉?」
「肉だけじゃありません」
「皮?」
「皮も。角、牙、甲殻、腺、内臓、魔法素材になる器官。種類によります」
杏々の目が少しずつ開く。
「食べられるのは?」
「……今はその話じゃないです」
「ある?」
「ありますけど」
「あるんだ」
「杏々さん?」
受付嬢が少し警戒する。
「何?」
「まだ緑じゃありませんからね」
「聞くだけ」
「具体的な生息地は教えませんよ」
「なんで?」
「念のためです」
杏々が不思議そうにする。
ガルドは何かを察した顔で受付嬢を見る。
受付嬢は軽く首を振った。
今はまだ言わない。
杏々はそのやり取りの意味を知らない。
「緑なったら教えて?」
「仕事に必要な範囲なら」
「分かった」
それで納得した。
この時の杏々はまだ知らなかった。
ギルドが、彼女へ意図的に伏せている魔物の食用情報が意外と多いことを。
◆
相談室を出た時には、昼までまだ少し余裕があった。
「終わった」
「予定通りでしょう?」
「うん」
「今日は依頼を入れなくてもいいですよ」
「何する?」
「自由です。昇格審査へ入ったからといって、ギルドに拘束されるわけではありません」
杏々は少し考えた。
「市場行く」
「でしょうね」
そのまま歩き出そうとして、杏々は一度戻る。
「緑、数日?」
「審査が問題なく終われば」
「赤角牛も数日?」
「緑になった瞬間に都合よく依頼が出るわけではありません」
「そっか」
「そこも待ってください」
「待つ」
最近の杏々は本当に待てる。
ただし忘れてはいない。
市場へ向かう途中も、中級になったら増えるらしい依頼について少し考えていた。
崖や洞窟、深い森。
大きな魔物。
難しい素材。
毒や麻痺を使うもの。
そして、食べられる魔物。
「いっぱいある」
どれも少し楽しみだった。
本人にとって何が一番楽しみなのかは、聞かない方がよかった。
その日の夕食には、肉屋で見つけた厚めの肉と茸を買った。
赤角牛ではない。
それでも焼けば美味しい。
家へ帰り、表面を強く焼き、中は少し柔らかく残す。
食べながら杏々は、もし赤角牛ならどのくらい脂があるのか考えた。
「まだ」
口に出して、自分で少し笑う。
食後に日記を開いた。
『緑の審査入る』
『数日』
『戦う試験なし』
『仕事の記録見る』
その下へ、
『緑になると』
『危ない採集』
『崖』
『洞窟』
『大きい魔物』
『毒 麻痺』
『素材傷つけない仕事』
『食べられる魔物もいるらしい』
最後の一行だけ、少し強く書かれていた。
さらに、
『毒は遅らせても治ってない』
『ちゃんと薬使う』
と残す。
これは杏々自身にとっては当たり前だったが、今日の受付嬢の反応を見ると、書いておいた方がいい気がした。
最後に、
『赤角牛 もう少し』
と書く。
まだ緑ではない。
正式な昇格も決まっていない。
それでも赤になったばかりの頃には遠かった境目が、今はすぐ前まで来ていた。
中級冒険者。
杏々はその言葉自体には、それほど特別な感慨を持っていない。
行ける場所が増える。
受けられる仕事が増える。
食べたことのないものに出会う可能性も増える。
それで十分だった。




