森の異変
菓子店を出た杏々とリネットは、そのまま冒険者ギルドへ戻った。
「ただいま」
「お帰りなさい。……あれ?」
受付嬢が杏々を見る。
「先ほど依頼達成の報告は済みましたよね?」
「うん」
「忘れ物ですか?」
「足跡」
「足跡?」
受付嬢の表情が変わる。リネットが横から説明を引き取った。
「今日、杏々さんが北の森の新人区域で、大型魔物と思われる痕跡を見つけたそうです」
「新人区域で?」
「はい」
受付嬢はすぐに杏々へ向き直った。
「詳しく聞かせてもらえますか?」
「うん」
「見つけた場所は?」
「赤い杭の手前」
「境界付近ですね」
「ちょっと手前」
「足跡の大きさは?」
杏々が両手を広げる。
「これくらい」
「……かなり大きいですね」
「爪もあった」
「何本でした?」
「四本」
「形は?」
「こう」
杏々は受付台の上を指でなぞった。丸みのある大きな足跡の先から、太い爪が四本伸びている。受付嬢はそれを見ながら、紙に簡単な図を描いた。
「他に何か?」
「木に傷」
「どのくらいの高さですか?」
「私よりずっと上」
「それはそうでしょうけど……」
「このくらい」
杏々が腕を伸ばす。それでも足りないらしく、さらに上を指した。
「昨日も大きい音したよ」
「昨日?」
「帰るとき」
受付嬢がリネットを見る。
「私も杏々さんから聞きました。森の奥で大きな枝が折れたような音だったそうです。私自身は聞き取れませんでしたが」
「他に情報はありますか?」
「今日、北側農地の方からも聞きこえた」
「最近、奥の魔物の足跡が手前にあるって」
「農家の方ですか?」
「おじいちゃん」
「……農家の方ですね」
「土玉芋作ってた」
「そこは今、重要ではありません」
「おいしいんだって」
「杏々さん」
「うん」
「足跡のお話をしましょう」
「分かった」
受付嬢は一つ息を吐いた。ただ、杏々の話を軽く扱う様子はなかった。
「少々お待ちください」
受付嬢が席を立ち、奥の職員と何か話す。さらに別の男が呼ばれ、しばらくしてから、聞き覚えのある声がした。
「杏々」
「あ」
訓練担当のガルドだった。
「砂袋のおじさん」
「誰が砂袋のおじさんだ」
「名前なんだっけ」
「ガルドだ!」
「ガルドさん」
「一回で覚えろ」
「人の名前苦手」
「堂々と言うな」
ガルドは呆れながらも、受付嬢の描いた足跡を見る。
「これを見たのか?」
「うん」
「赤い境界杭は越えてねえな?」
「越えてないよ」
「足跡を追ったか?」
「追ってない」
「なんでだ?」
「行かないって約束したから」
ガルドはしばらく杏々を見つめ、それから少しだけ目を細めた。
「そうか」
リネットが少し得意そうな顔をする。
「杏々さん、意外と約束はきちんと守るんですよ」
「意外は余計じゃない?」
「食べ物が絡んでも止まれるとは、最初は思っていませんでした」
「止まれるよ」
「角兎は追わなかったんですよね?」
「かわいかったから」
「理由が変わってません?」
「おいしいけど」
「やっぱり変わってません!」
ガルドが咳払いをした。
「話を戻すぞ」
「はい」
「嬢ちゃん。この足跡、どっち向きだった?」
「どっち?」
「森の奥へ向かってたか。それとも手前へ向かってたか」
杏々は思い出す。
「奥から来てた」
「間違いねえか?」
「うん」
「足跡、何個くらいあった?」
「いっぱい」
「一匹分か?」
「たぶん」
「歩幅は?」
「ほはば?」
「次の足跡まで、どのくらい離れてた?」
杏々は少し考え、床を見ながら自分の歩幅で何歩か歩いた。
「これくらい」
ガルドの顔から、先ほどまでの笑みが消えた。
「でけえな」
「分かるんですか?」
リネットが尋ねる。
「足の大きさと歩幅がだいたい合ってんなら、少なくとも大型だ」
「種類は?」
「これだけじゃ断定できねえ」
ガルドは足跡の図を見る。
「熊系、大牙狼の大型個体、森爪獣……候補はいくつかある」
「食べれる?」
「お前は黙ってろ」
「えー」
「いや」
ガルドが言いかけて止まる。
「……まあ、種類によっちゃ食える」
「ほんと?」
「食いつくな!」
リネットが杏々の肩を掴んだ。
◆
ギルドはすぐに動いた。
北の森の新人区域について、当面の間、赤い境界杭に近い一帯を立入注意区域とし、薬草や木の実の採集依頼は森の入口側に限定することになった。さらに、足跡の正体を確認するため、中堅冒険者による偵察依頼も発行された。
「私も行く」
杏々が言った瞬間、受付嬢は即答した。
「ダメです」
「まだ最後まで言ってない」
「何を言うか分かったので」
「偵察」
「ダメです」
「見つけたの私だよ?」
「それと受注資格は別です」
「えー」
受付嬢は真面目な顔で説明する。
「偵察依頼は、ただ魔物を探すだけではありません。痕跡から種類や数を判断し、状況によっては戦わずに帰還する必要があります」
「戦わないの?」
「戦わないことが正解の場合もあります」
「逃げる?」
「そうです」
「私も逃げれるよ」
「そこではありません」
リネットも頷いた。
「杏々さんは、まだこの世界の魔物をほとんど知りませんよね?」
「うん」
「見つけても、それが危険なのか分からないでしょう?」
「食べれるかも分からない」
「そこじゃないです」
「でも大事だよ」
「今は重要ではありません!」
杏々は少し残念そうに偵察依頼の紙を見る。
「ランク足りない?」
「全然足りません」
「赤角牛も足りない」
「そちらも足りません」
「いっぱい仕事しないと」
「結論が全部そこへ行きますね」
そのとき、ガルドが口を挟んだ。
「お前が見つけたからこそ、今回は行かねえ方がいい」
「なんで?」
「お前はもう仕事したからだ」
「仕事?」
「ああ」
ガルドは腕を組む。
「新人区域で変なもんを見つけた。境界を越えずに戻った。ギルドに報告した」
「うん」
「それで十分だ」
「倒してないよ?」
「倒すだけが冒険者の仕事じゃねえって、登録のとき説明されたろ」
杏々は少し考えた。
「言ってたかも」
「忘れてんじゃねえか」
「ちょっとだけ」
「ったく」
ガルドはため息をついた。
「危険を見つけて、無茶せず情報を持って帰る。それも立派な実績だ」
「実績?」
杏々の反応が変わる。
「ランク上がる?」
「そこに反応すんのか」
「赤角牛」
「まだ上がらねえ!」
「そっか」
「だが記録には残る」
「じゃあいいや」
「何がいいんだか」
ガルドは苦笑した。
◆
「じゃあ今日、もう一個仕事する」
杏々が言った。
「まだやるんですか?」
受付嬢が驚く。
「だって偵察できないし」
「偵察の代わりに別依頼を受けるという発想になるんですね……」
「ご飯代ほしい」
「そうでしたね」
受付嬢は新人掲示板へ目を向けた。
「ただ、今日は北の森へ行く依頼はおすすめしません」
「別のところ?」
「そうですね」
いくつか依頼書を確認する。
「街中で完結するものなら……」
「食べれる?」
「またそこからですか」
「大事」
「では」
受付嬢が一枚を取り出した。
「食堂への荷物運びはいかがです?」
「ご飯屋さん?」
「冒険者向け食堂です。市場から仕入れた食材を運ぶ人手が足りないそうです」
「食べ物運ぶ?」
「はい」
「食べていい?」
「商品なのでダメです」
「えー」
「ただし」
受付嬢が依頼書を読む。
「依頼達成後、まかない一食付き、とありますね」
「やる」
「でしょうね」
即決だった。
リネットが呆れたように笑う。
「森から帰ってきて、お菓子を食べたばかりですよね?」
「それはおやつ」
「朝も串焼きを食べたって言っていましたよね?」
「朝」
「今は?」
「お昼」
「……なるほど」
納得していいのか分からなかった。
◆
依頼先は、冒険者ギルドから少し離れた通りにある大衆食堂だった。店の前には、何箱もの食材が積まれている。
「おお、来たか!」
店主らしい大柄な女性が出てきた。
「ギルドから手伝いを――」
女性は杏々を見ると、言葉を止めた。
「…………」
「私」
「……嬢ちゃんが?」
「うん」
女性は杏々の背後を見る。
「他には?」
「一人」
「…………」
困った顔をする。
「いや、まあ……軽いもんだけでも運んでもらえりゃ助かるけどね」
「どこ?」
「まずはそこの野菜箱を――」
杏々が箱を持ち上げる。
ひょい。
「これ?」
「…………」
「どこ置く?」
「あ、ああ。厨房の奥……」
「分かった」
杏々が歩いていく。女性はぽかんと見送った。
「重かったよね、あれ?」
そばにいた店員が頷く。
「俺、一人なら抱えて運びますけど」
「抱えてた?」
「片手でしたね」
「…………」
厨房から杏々が戻ってきた。
「次は?」
「あ、じゃあ……これ」
今度は穀物の入った袋だった。
「これ?」
「無理なら二人で――」
杏々はそれも軽々と持ち上げた。
「どこ?」
「同じところ……」
「分かった」
また歩いていく。
店主はその背中を見送りながら、隣の店員に尋ねた。
「冒険者ってすごいね」
「新人証でしたよ、あの子」
「見なかったことにしようか」
「そうですね」
◆
野菜、穀物、乾燥豆、樽、肉の入った箱。杏々は次々と食堂へ運び込んだ。
「これ何?」
運んでいる途中で、杏々が箱を覗き込む。
「それは角兎の肉だよ」
「角兎」
「知っているのかい?」
「昨日森で見た」
「へえ」
「かわいかった」
「そうだろうねえ」
「おいしいけど」
「……まあ、そうだね」
店主の返答が少し遅れた。
次の箱を見て、杏々が尋ねる。
「これは?」
「川鎧魚」
「魚?」
「川にいる魚型魔物だよ。鱗がやたら硬いんだ」
「おいしい?」
「白身でうまいよ。揚げ物にすると特にね」
「食べたい」
「今日のまかない、それにするかい?」
「ほんと?」
「一人でずいぶん運んでくれたからね」
「やった」
杏々の仕事速度が、目に見えて上がった。
「……さっきより速くなってない?」
店員が呟く。
「魚の力だね」
「そんなものあります?」
「今見ただろ」
◆
最後の箱を運び終える頃には、店先を埋めていた荷物はすっかりなくなっていた。
「いやあ、助かったよ」
店主が笑う。
「本当なら昼営業の前に終わらせる予定だったんだけど、人が来なくて困っていたんだ」
「お仕事終わり?」
「ああ。依頼票に印を押してやるよ」
「じゃあご飯?」
「そっちが先かい」
「うん」
「待ってな」
杏々は食堂の席へ座った。しばらくすると、大きな皿が運ばれてくる。
「ほら」
「おー」
皿の上には、川鎧魚の揚げ物が並んでいた。厚めに切った白身がきつね色の衣に包まれ、横には芋と葉野菜、酸味のある香草ソースまで添えられている。
「骨は?」
「大きいのは抜いてある。細かいのだけ気をつけな」
「うん」
杏々が一切れ取る。
「いただきます」
衣が軽く割れ、中から湯気が立った。
「熱い」
「揚げたてだからね」
杏々は少し冷ましてから、もう一口食べた。
「おいしい」
「そうだろ?」
「ふわふわ」
「川鎧魚は外は硬いけど、中の身は柔らかいんだよ」
「外硬いの?」
「鱗なんて普通の包丁じゃ刃が負けるくらいさ」
「どうやって取るの?」
「解体屋が専用の道具で剥ぐんだよ」
「へえ」
「昔は料理人が自分でやっていたけど、今じゃほとんど専門に任せるね」
杏々は魚を食べながら尋ねた。
「これ、自分で捕れる?」
「冒険者なら討伐依頼もあるんじゃないかい?」
「ほんと?」
「川鎧魚は畑の水路に入り込むこともあるからね。増えると困るんだ」
「ランクは?」
「それはギルドに聞きな」
「聞こ」
また一つ、杏々の「食べたいもの」が増えた。
◆
その頃、北の森では三人の冒険者が赤い杭よりさらに奥へ進んでいた。
「ここだな」
先頭を歩く男が足を止める。杏々が報告した場所の地面には、確かに大きな足跡が残っていた。
「新しいな」
弓を背負った女がしゃがみ込む。
「昨日か、今日の朝くらい」
「一匹か?」
「ここだけなら」
三人目の男が木の傷を見る。
「この高さ……」
「森爪熊か?」
「いや」
先頭の男が首を振った。
「爪の開きが違う」
「大牙狼?」
「足が丸すぎる」
「じゃあ何だよ」
「分からん」
三人は周囲を調べた。折れた枝、踏み潰された草、剥がれた樹皮。痕跡は、さらに森の奥へ続いている。
「追うか?」
「少しだけだ」
「偵察依頼だ。深入りすんなよ」
「分かってる」
三人は慎重に進んだ。やがて、一人が足を止める。
「……おい」
「どうした?」
「これ見ろ」
地面には、先ほどと同じ種類の足跡が残っていた。ただし、大きさが違う。
「小さい?」
「一匹じゃねえのか」
「親子か?」
「可能性はあるな」
さらに少し先にも、別の跡が見つかった。
「三匹?」
「少なくともな」
空気が変わった。
「戻るぞ」
「正体は?」
「分からんままでいい」
「でも――」
「数がいる可能性がある。偵察で欲張るな」
「……了解」
三人はすぐに引き返した。それは正しい判断だった。
彼らが去ってからしばらく後、木々の奥で低い唸り声が響いた。
◆
夕方、まかないを食べ終えた杏々は、食堂の依頼票を持ってギルドへ戻った。
「終わった」
「お疲れさまでした」
受付嬢が依頼票を確認する。
「ずいぶん早かったですね」
「いっぱい運んだ」
「重くありませんでした?」
「ちょっと」
「……適性確認の結果を考えると、聞くだけ無駄でしたね」
「魚食べた」
「魚?」
「川鎧魚」
「ああ、まかないですか」
「おいしかった」
「よかったですね」
「討伐依頼ある?」
「もう次の食材を探しているんですか?」
「うん」
受付嬢は依頼一覧を確認した。
「ありますけど、杏々さんのランクではまだ受けられませんね」
「えー」
「川鎧魚は鱗が硬く、新人向けの武器では傷をつけにくいんです」
「殴ったら?」
「……殴るんですか?」
「うん」
「手が痛いと思いますよ」
「そっか」
杏々は少し考えた。
「じゃあランク上げる」
「結局そこですね」
そのとき、ギルドの扉が開いた。
三人の冒険者が入ってくる。
「偵察班、戻りました!」
受付嬢の表情が切り替わる。
「お帰りなさい。結果は?」
「大型魔物の痕跡を確認」
周囲の声が少し静かになる。
「種類は特定できませんでした」
「数は?」
「少なくとも三個体」
「……三?」
リネットも、ちょうどギルドへ入ってきたところでその言葉を聞いた。
「三匹いるんですか?」
「可能性が高い」
偵察に行った男が答える。
「痕跡の大きさが違った。群れか、親子かもしれん」
「新人区域への侵入は?」
「少なくとも一匹は赤杭の内側まで入っている」
受付嬢が眉を寄せる。
「明日から北森の新人区域を?」
「ああ」
ガルドが奥から出てきた。
「一時閉鎖だな」
「閉鎖?」
杏々が聞く。
「薬草取れない?」
「しばらくな」
「赤露実も?」
「そっちもだ」
「えー」
「お前が見つけた足跡のせいじゃねえ。危ねえから閉じるんだ」
「分かってるよ」
杏々は森の方を想像する。
「何の魔物なんだろ」
「まだ分からねえ」
「おいしいかな」
「まず危険かどうかを気にしろ!」
ガルドが叫ぶ。
ギルド内に笑いが起きる。けれど、その笑いの中でも、偵察から戻った冒険者たちの表情だけは少し硬かった。
北の森で起きている異変。それはまだ、小さな問題に見えている。
少なくとも、この時点では。




