三日待つ
一泊二日の護衛から戻った翌朝、杏々はいつもの時間に冒険者ギルドの訓練場へいた。
身体の圧縮を解き、本来の姿へ戻る。遠征と呼ぶほど長い仕事ではなかったので、身体の状態もほとんど崩れていない。呼吸を整えながら型を一通り流し、最後に剣を何度か振ってみても、以前なら感じていた細かな引っ掛かりはほとんどなかった。
「やっぱり、こっちも安定してきましたね」
杏々は剣を納め、腕や肩の感覚を確かめる。
小さな身体で過ごす時間が長くなったことで、圧縮状態の制御そのものが以前より細かくなり、その影響が本来の身体へ戻した時にも残っている。逆に、本来の身体でこうして全身を整えておけば、小さく戻した後も動きやすい。
どちらか一方を維持するために、もう一方を我慢するという感覚ではなくなりつつあった。
少し前までは、本来の身体で長く動けば、その分だけはっきりと腹が減った。今も食べる量そのものは多いが、以前ほど「身体を維持するためだけに食べている」感じは強くない。
「これなら、前より使いやすいかも」
何に使うかは決めていない。
戦う時だけでもいいし、料理をする時でもいい。複雑なことを整理したい時には、最近のようにそのまま長く過ごしてもいい。
杏々にとって身体の形は、少しずつ「必要に応じて選ぶもの」へ変わり始めていた。
そこまで確認してから圧縮すると、視線が一気に下がる。
「朝ご飯」
考えることが済めば、次はそれだった。
◆
その日は、王都の南側にある資材置き場から建築用の木材を運ぶ荷車の護衛を受けた。
赤ランクとしては軽い仕事だったが、最近の杏々は、難しい仕事がない日に無理に遠くへ出ることも少なくなっている。報酬が十分に入り始めたこともあるし、赤ランクになったからといって毎日強い魔物を倒す必要があるわけでもない。
荷車は昼過ぎには王都へ戻った。
問題もない。
魔物も出ない。
報告もすぐ終わる。
「今日は何もなかった」
「それが一番です」
受付嬢が言う。
「でも報酬出る」
「護衛は何も起こさないための仕事でもありますからね」
「いい仕事」
「杏々さん、最近そういう仕事の良さを覚えてきましたね」
「楽でご飯食べられる」
「評価を取り消したくなってきました」
杏々は気にしなかった。
ギルドを出たところで、このまま家へ帰るか考えたが、まだ少し時間がある。
「おばあちゃんとこ行こ」
向かったのは、森爪熊やちくわアザラシの試作品を扱っている布製品の店だった。
◆
店へ入ると、職人の婆さんは奥で布を切っていた。
「来たね」
「来た」
「今日は新しい妙なの持ってきたのかい?」
「ないよ」
「それはそれで珍しいね」
杏々は店内を見る。
森爪熊の商品は以前より少し増えていた。大量に積まれているわけではないが、棚の一角に自然と居場所を作っている。その近くには、ちくわアザラシから形を変えて作った平たい試作品も一つ置かれていた。
「あれ売れた?」
「試しに置いた最初の一つなら売れたよ」
杏々がそちらを見る。
「ない」
「だから売れたって言ってるだろう」
「お」
最初に作ったものはすでになく、今置かれているのは二つ目らしい。
杏々のちくわアザラシそのものとはかなり違う。顔は簡略化され、胴体は平たく、端は丸く作られている。座布団として使えるように、中央部分も少し広い。
「座るやつで売れた?」
「ああ。最初の客は子供用に買ったけどね。床に置いて座らせるんだとさ」
「いいね」
「で、こっちも二つほど追加で作ってみた。まだ続けるかどうかは、その辺の売れ方を見てからだ」
相変わらず慎重だった。
一つ売れたから十個作る、というようなことはしない。布も綿も職人の手間も有限で、売れ残ればそのまま損になる。
杏々はそういうところには口を出さなかった。
「私のちくわアザラシは?」
「売らないよ」
「うん」
「そこは何度確認するんだい」
「大事」
自分のものは自分のものだった。
婆さんは苦笑すると、小さな袋を取り出した。
「それと、森爪熊の分」
「お金?」
「前に売れた分と、その後に売れた分。まだ大した額じゃないけどね」
杏々は受け取った硬貨を掌に乗せる。
冒険者の報酬に比べれば大きくない。
けれど自分が家で作ったぬいぐるみの形から、少しずつお金が入ってくる。
「何もしてないのに増えた」
「最初に作っただろう」
「今はしてない」
「そういう契約なんだから受け取っときな」
「うん」
杏々は素直にしまった。
最近、こういうお金が少しずつ増えている。
森爪熊。
ちくわアザラシから派生した試作品。
保存食も、もし本当に商品になれば似たような話になるかもしれない。
杏々本人は商売を始めたつもりなど一度もない。
美味しいものを食べたり、欲しいものを作ったりしていただけだった。
「変なの」
「何がだい?」
「作ったものがお金になる」
「売れるものを作れば、そりゃなるさ」
「ご飯にもなる?」
「布は食べるんじゃないよ」
「知ってる」
婆さんは呆れたように笑った。
◆
二日目は、特に大きな依頼を受けなかった。
午前中に街中の短い仕事を済ませた後、杏々は市場で食材を買い、家へ戻る。数日分の肉と野菜を整理し、パンを切り分け、乾燥させておくものを別にする。
保存食を試しているせいか、最近は自分の食材を見る時にも、以前より「何日後に食べるか」を少し考えるようになっていた。
「これは明日。こっちは後」
食べたいものを全部すぐ食べるわけではない。
食べる順番を決めるだけで、美味しい状態を長く保てることもある。
もっとも、杏々の場合は量そのものが多いので、普通の人より回転はずっと早かった。
昼食を作り終えた後、棚にある二つの壺へ目を向けた。
味噌と醤油になるかもしれないもの。
仕込んでから、まだ一か月にも届いていない。
表面や周囲に異常がないかは時々確認しているが、完成にはほど遠い。
「まだ」
杏々は壺のそばへ座る。
教えてもらった通り、必要以上に開けない。
外から分かる範囲では、仕込んだばかりの頃とは少し匂いが変わってきている気がした。豆と穀物の匂いの中に、発酵食品らしいものが少し混ざり始めている。
だからといって食べられるわけではない。
「まだだね」
壺は答えない。
「半年くらい?」
正確には分からない。
元の世界でも、作り方によって時間はかなり違った。ましてこちらでは材料も環境も完全に同じではない。
杏々は少し考え、結局いつもの結論に戻った。
「待つ」
最近、その言葉にも慣れてきた。
保存食なら数日。
畑なら数か月。
発酵ならもっと長い。
美味しいものは、全部同じ速さではできない。
杏々は壺を棚へ戻し、昼食を食べた。
◆
三日目の朝になると、ギルドの受付に商会からの伝言が届いていた。
「明日が七日目の試食だそうです」
「覚えてる」
「でしょうね」
「食べる日だから」
「そこはもう疑ってません」
受付嬢は伝言を渡しながら、別の紙も一枚出した。
「それと、杏々さん。これ、前に受けてもらった新人随伴の評価です」
「評価?」
「新人二人からの報告と、こちらの記録をまとめたものです。杏々さん自身に何かしてもらう必要はありません」
杏々は紙を見る。
現地の長い文章はまだ全部読めない。
「何て書いてる?」
「簡単に言うと、問題なしです。新人に必要以上に手を出さず、危険な場面だけ介入できる位置にいて、依頼外行動も止めた。二人とも無事に帰還し、自分たちで報告までできています」
「うん」
「こういう記録も、今後の昇格では見られますからね」
杏々が顔を上げた。
「赤の次?」
「緑です」
「赤角牛?」
「そこなんですね」
「緑なら受けられる?」
「依頼内容にもよりますが、赤角牛を扱う依頼が増えるのは緑からでしょうね」
杏々の目が少し開いた。
「緑なる」
「そう簡単には上がりませんよ」
「何する?」
受付嬢は少し考えてから説明した。
「赤ランクでは、一定期間きちんと仕事を続けていることがまず必要です。そのうえで、討伐だけではなく護衛や調査、長めの依頼、集団行動など、いくつか違う種類の仕事を問題なくこなせているかを見ます」
「いっぱいある」
「あります。緑からは中級冒険者ですから。自分一人だけ強ければいい、という扱いではなくなります」
今回のように下位ランクを連れて仕事ができることも、その一つだった。
杏々は少し考えた。
「戦う試験は?」
「杏々さんの場合は、今さら必要ないと思います」
「ないの?」
「必要だと思います?」
杏々は今まで倒した魔物を思い返す。
「……ないかも」
「ありません」
断言された。
ただし、それで今すぐ緑になるわけではない。
赤ランクとして仕事を続けた期間。
依頼の種類。
規則を守れているか。
他人と一緒に仕事ができるか。
予定外の状況でも判断を誤らないか。
そういった記録が十分に揃ってから、初めて昇格候補になる。
「どれくらい?」
「まだ先です」
「そっか」
「残念そうですね」
「赤角牛」
「知ってました」
受付嬢は笑った。
杏々も、それ以上急かすことはしなかった。
昔なら「倒せるのに」と思ったかもしれない。
けれど今は、ランクが単純に強さを示しているわけではないことを、少しずつ理解している。
赤ランクになってからだけでも、長距離の商隊を護衛し、予定外の野営を経験し、街道が崩れた時には御者たちの判断に従った。新人を連れて林へ行った時には、自分が全部やらずに帰ってきた。
そういうものも全部、冒険者の仕事なのだろう。
「じゃあまだ赤」
「はい。しばらくは」
「いっぱい食べながらやる」
「それはランクに関係なくやるでしょう」
「うん」
そこだけは変わらなかった。
その日は泊まりの仕事を探さず、王都近郊の依頼を一本受けることにした。
明日は七日目の試食がある。
今日は今日の仕事をする。
杏々の生活は、いつの間にかそうやって何日も先まで続くものになっていた。
◆
夜、家へ戻って日記を書く。
この三日で特別大きな事件はなかったが、書くことは意外とあった。
『森爪熊のお金もらった』
『座るちくわのやつ 一個売れた』
『私のちくわアザラシは売らない』
そこまで書いてから、壺のことも残す。
『味噌と醤油 まだ』
『匂い少し変わった気がする』
『開けすぎない』
『待つ』
そして今日聞いた話を書く。
『緑はまだ先』
『赤でいっぱい仕事する』
『戦う試験はたぶんない』
『新人と仕事したのも評価になる』
最後に大きめの文字で、
『緑 赤角牛』
と書いた。
「大事」
目的ができた。
だからといって、明日から無理に依頼を詰め込むつもりはない。必要な期間があるなら、急いでも仕方がない。
味噌も。
畑も。
保存食も。
冒険者のランクも。
結果が出るまでの時間は、それぞれ違う。
杏々は最近、それを少しずつ覚えていた。
日記を閉じると、ちくわアザラシを引き寄せて抱える。
「明日は七日目」
待っていたものの一つが、また一歩進む日だった。




