そっちは依頼じゃない
保存食の話し合いから二日後、杏々はいつものように朝の身体調整と朝食を済ませ、冒険者ギルドの赤ランク掲示板を眺めていた。
試作品ができるまでにはまだ少しかかる。味噌と醤油も当然できていないし、川鎧魚の依頼も相変わらず見当たらない。海方面の依頼もなかった。
「ない」
「今日は何がないんです?」
受付嬢が尋ねる。
「色々」
「もう範囲が広すぎて分かりません」
杏々は掲示板を端まで見てから、近場の魔物討伐依頼へ手を伸ばそうとした。
「杏々さん、ちょっと待ってください。もし今日、特に受けたい依頼が決まっていないなら、お願いしたい仕事があります」
「赤?」
「赤ランク向けというより、赤ランク以上の人にお願いしたい仕事ですね」
「何する?」
「新人の随伴です」
「新人?」
受付嬢が差し出した依頼書には、王都近郊の林で行う採取仕事の確認と、二人の低ランク冒険者への同行と書かれていた。
目的地は危険度の低い区域で、依頼そのものも本来なら新人だけで受けられる内容だった。ただ、二人とも冒険者になって日が浅く、王都の外でこなした仕事もまだ少ない。そこで今回は、経験のある冒険者を同行させ、移動から採取、帰還までの判断を見てもらうことになったらしい。
「私、教える?」
「必要な時だけで構いません。基本的には二人にやらせて、危ない判断をしたら止めてください」
「戦う?」
「危険が出たらお願いします。ただし、杏々さんが全部倒して帰ってくる仕事ではありませんよ」
「分かった」
あっさり頷いた杏々に、受付嬢が少し意外そうな顔をした。
「ずいぶん素直ですね」
「前にいっぱい言われたから」
「何をです?」
「護衛で、私が全部やったらだめ」
「ああ……」
一週間の商隊護衛では、勝手に敵を追わないことや、荷車を動かすにも御者の手順があること、力があるからといって先に使えばいいわけではないことを何度も経験した。今回も、たぶん同じなのだろう。
「二人がやる仕事なら、二人がやる」
「その認識で大丈夫です」
◆
同行する二人は、どちらも杏々より背が高かった。もちろん、小さい姿の杏々と比べての話である。
一人は剣を持った青年で、もう一人は短い杖を持った少女。二人とも黒ランクを抜けたばかりの黄ランクで、以前から互いに知り合いらしい。
「今日の随伴役です」
受付嬢に紹介されると、二人は揃って杏々を見た。それから受付嬢を見て、もう一度杏々へ視線を戻す。
「……この子が?」
「赤ランクです」
「赤?」
「はい」
青年が少女へ声を落とした。
「子供じゃないのか?」
「聞こえてる」
「あっ」
杏々は別に怒ってはいなかった。
「小さくしてるだけ」
「何を?」
「身体」
二人の顔に疑問が増えたところで、受付嬢が話を切った。
「詳しい説明は今必要ありません。杏々さんは赤ランクで、今回の仕事に十分な経験があります。それだけ覚えておいてください」
二人はまだ納得していないようだったが、とりあえず頷いた。杏々もそれ以上説明する気はない。小さい身体の時に長く話すのは面倒だった。
今回の目的地は、王都から半日もかからない林だった。そこで指定された薬草を一定量採取し、周辺に危険な魔物の痕跡がないか簡単に確認して帰ってくる。
新人二人が地図を持って先を歩き、杏々は少し後ろからついていった。
最初の分岐で、青年が早速立ち止まる。
「こっち……だよな?」
「たぶん」
少女も地図を覗き込み、二人でしばらく悩んだ後、杏々を振り返った。
「合ってる?」
「自分で決めて」
「え?」
「私、ついてく」
二人は困った顔をしたが、杏々は助けなかった。危険な方向へ進むなら止めるが、地図を読んで目的地まで辿り着くことも今回の仕事の一部である。
少女が周囲を見回し、道端に立つ古い標識へ気づいた。
「地図のこの印、これじゃない?」
「じゃあ右か」
「うん」
二人で相談し、右の道へ進む。杏々もその後を歩いた。
「合ってた?」
青年がもう一度聞く。
「うん」
「先に言ってくれてもよかったんじゃ……」
「次も私いないかも」
青年は少し黙ってから、納得したように前を向いた。
「それもそうか」
杏々は何も付け足さなかった。
林へ入ってからも、しばらくは二人だけで順調に進んだ。目的の薬草は湿った木陰に多く生える種類で、少女の方が見つけるのが上手いらしい。青年が周囲を警戒しながら籠を持ち、少女が採取していく。
「これ、そうだよね?」
「葉の裏見て」
「白い筋……ある」
「じゃあ合ってると思う」
二人で確認できている間は、杏々も口を出さない。
ただ、しばらくして少女がよく似た別の草へ手を伸ばした時だけは、
「待って。それ違う」
と止めた。
「似てるけど?」
「葉っぱの端」
杏々が指差した先を見ると、目的の薬草は葉の縁が丸いのに対し、少女が取ろうとした方には細かな切れ込みが入っている。
「そっちは触ると手かゆくなる」
「危なっ」
少女が慌てて手を引っ込める。
「なんで分かったの? 杏々さん、薬草詳しい?」
杏々は少し考えた。
「食べられるのは覚える」
「……それ食べる草なの?」
「そっちは食べない」
「何を基準に覚えてるんだろう」
少女は不思議そうだったが、杏々にとっては十分な基準だった。
◆
予定していた量の半分ほどを集めた頃、林の奥から何かが走る音がした。
三人とも同時に止まり、青年が剣へ手をかける。少女も杖を握り、音のした茂みへ向き直った。
飛び出してきたのは一匹の角兎だった。
こちらへ気づいた角兎も止まり、青年が杏々を見る。
「どうする?」
「二人で」
「え」
「黄ならできるでしょ」
「できるけど……」
「ならやる」
杏々は動かなかった。
先に飛び出したのは角兎だった。青年が正面へ出て剣を振るが、最初の一撃は外れる。横へ逃げようとした角兎に向かって、後ろへ下がっていた少女が短い詠唱を終え、小さな風の塊を飛ばした。
大きな威力はない。それでも進行方向をずらされ、角兎の足が一瞬止まる。
「今!」
「分かってる!」
青年が追いついた。
今度は角を避け、横から剣を当てる。一撃では倒れなかったものの、二度目には落ち着いて仕留めることができた。
二人はしばらく倒れた角兎を見てから、ようやく息を吐いた。
「やった」
「できた……」
そして杏々を見る。
「何もしなかったね」
「必要なかった」
「もし失敗してたら?」
「危なくなったらやった」
二人は角兎と杏々を交互に見た。
「赤ランクって、こういう感じなの?」
「知らない」
杏々自身、他の赤ランクが新人へ同行するところを見たことはなかった。
角兎は依頼対象ではないが、素材と肉は持ち帰れる。二人は相談した末、解体の練習も兼ねて処理することにした。
青年が慣れない手つきで刃を入れるのを、杏々はしばらく横から見ていたが、肉ごと大きく切り落としかけたところで口を出した。
「そこ切りすぎ」
「あ、やっぱり?」
「肉減る」
「そこなの?」
「大事」
少しだけ手本を見せると、青年も今度は慎重に刃を入れていく。少女はその手際を感心したように眺めていた。
「すごい慣れてる」
「食べるから」
「全部そこに戻るんだね」
「うん」
二人の中で杏々への理解が進んでいるのか、妙な方向へずれているのかは分からなかった。
採取を再開してしばらくすると、今度は青年が林の少し奥を指差した。
「あれ、赤露実じゃないか?」
木々の向こうに赤い実がまとまって見えている。
杏々もそちらを見た。
「あるね」
「結構あるぞ。取りに行かない? そんなに遠くないし」
今回の依頼品ではないが、赤露実は食用になり、持ち帰って売ることもできる。少女も少し迷ったように籠を見た。
「今の採取もあと少しだよね」
二人の視線が杏々へ向く。
杏々は首を横に振った。
「行かない」
「なんで?」
「そっちは依頼じゃない」
「でも、ちょっと行くだけだよ?」
「今の終わってから」
「終わったら?」
「帰る」
「ええ?」
青年が不満そうな顔をする。
杏々も赤露実を見た。味は知っている。柔らかい酸味の後に甘さが来る、美味しい実だ。
採りたいかと聞かれれば、もちろん採りたい。
「杏々さん、食べ物好きなんでしょ?」
「好き」
「じゃあ取りたいよね?」
「取りたい」
「なら――」
「でも今仕事」
あまりにも迷いなく返されたので、青年の方が言葉に詰まった。
杏々も最初からこうだったわけではない。気になるものがあれば見に行きたくなるし、美味しそうなものならなおさらだった。
けれど、この世界で仕事を続けるうちに何度も教えられた。
依頼には目的がある。勝てるから敵を追っていいわけではなく、力があるから隊列を離れていいわけでもない。食べ物を見つけたからといって、仕事を途中で変えていいわけでもなかった。
杏々はそこまで長く説明せず、赤露実から視線を戻した。
「先に依頼。終わった後に自由なら、また来ればいい」
少女は赤露実と手元の籠を見比べ、先に納得した。
「……確かに、まだ終わってないもんね」
青年も少し遅れて頷く。
「分かった」
三人がその場を離れた後、杏々だけは一度振り返った。
「美味しいのに」
「やっぱり取りたかったんじゃん!」
「取りたいけど仕事」
採りたいことと、今は採らないことは、杏々の中では何も矛盾していなかった。
◆
その後は必要な量の薬草を集め、採取地点の周囲も二人に確認させた。大きな魔物の足跡や新しい巣など、危険を示す痕跡はない。帰り道では分岐を間違えることもなく、二人だけで地図を確認しながら王都へ続く道まで戻ることができた。
途中、青年がふと思い出したように聞いた。
「杏々さんって、最初から赤だったの?」
「違う」
「じゃあ黄の時もあった?」
「あった」
「その頃も今みたいだった?」
杏々は少し考える。
「もっと勝手にやってたかも」
「意外」
「いっぱい言われた」
「ギルドに?」
「色んな人」
護衛、採取、荷車の随伴、魔物の追跡、仕事の報告。この世界で冒険者になってから、杏々自身も周囲に止められたり教えられたりしながら、少しずつ仕事のやり方を覚えてきた。
「じゃあ、俺たちもそのうち?」
「覚えれば」
「赤になれる?」
「それは知らない」
「そこは励ましてくれないんだ」
「仕事ちゃんとしたら上がるかも」
杏々なりには十分励ましたつもりだった。
夕方前には王都へ戻り、三人はそのままギルドへ向かった。
依頼品を受付へ渡すと、まず新人二人が自分たちで報告する。通った道、採取した薬草の量、角兎と遭遇して二人で倒したこと、周辺に危険な痕跡がなかったこと。杏々は隣で聞きながら、抜けていることがあれば補足できるようにしていたが、ほとんど口を挟む必要はなかった。
途中で青年が、赤露実の話まで正直に報告した。
「それで、途中に赤露実が結構あったんですけど、取りに行こうとしたら杏々さんに止められて」
受付嬢が杏々を見る。
「杏々さんが?」
「今、依頼じゃなかったから」
「……止めたんですか?」
「うん」
受付嬢は一瞬黙った後、少し笑った。
「成長しましたね」
杏々の目がわずかに開く。
「褒めた?」
「褒めました」
「一個」
新人二人が揃って杏々を見る。
「何の話?」
「褒められた数数えてる」
「なんで?」
「嬉しいから」
理由は単純だった。
報告が一通り終わると、受付嬢は今度は杏々へ二人の様子を確認した。
「二人はどうでした?」
「道、自分で見つけた。草もだいたい合ってた。角兎も二人で倒した」
「危ない場面は?」
「なかった」
「勝手な行動は?」
杏々は少し考えてから赤露実の方を見る。
「取りに行こうとはした。でも言ったらやめた」
二人が少し気まずそうにする。
受付嬢はそれを責めることなく頷いた。
「なら今回は問題ありません。次からは、自分たちだけでも同じ判断ができるようにしてくださいね」
「はい」
「分かりました」
これで依頼は完了だった。
報酬を受け取ってギルドを出る前、青年が杏々へ声をかけた。
「今日ありがとう。最初は正直、ちょっと不安だった」
「小さいから?」
「……うん。でも、思ってたのと全然違った。もっと全部やってくれるのかと思ってた」
「それ二人の仕事だから」
「だよね」
青年は少し照れたように笑ってから、ふと思い出したように続けた。
「じゃあ今度、依頼じゃない日に赤露実取りに行ってもいいかな」
「自由ならいいんじゃない?」
「場所覚えてる?」
杏々は少し黙った。
「……赤露実の場所は覚えてる」
「食べ物だから?」
「うん」
「やっぱりか」
二人と別れた後、杏々は一応赤ランクの掲示板も確認した。川鎧魚はなく、海方面の依頼もなく、保存食の試作品ができたという連絡もまだ届いていない。
「今日は終わり」
そのまま家へ帰ることにした。
◆
西市場を通ったところで、赤露実を売っている店が目に入った。
「ある」
杏々は足を止める。
林では仕事中だったから採らなかった。しかし、今は依頼も終わっていて、自分のお金で買うだけだ。
「三つください」
迷わず買った。
家へ戻ると、一つを洗ってすぐに食べる。柔らかな酸味の後から甘さが広がり、杏々は満足そうに頷いた。
「美味しい」
林で採らなくてよかったとは思わない。あの場で自由なら採りたかったし、今でも場所は覚えている。
ただ、仕事中に行かなかったことは正しかった。
「仕事終わってからでいい」
残り二つを置き、いつもの日記を開く。
『今日は新人二人と採取』
『道ちゃんと行けた』
『角兎 二人で倒した』
『私は危なくなったらやる役』
少し考えてから、
『赤露実あった』
『取りに行かなかった』
『依頼じゃなかったから』
『帰ってから市場で買った』
『美味しい』
と続けた。
その並びを見ても、杏々には何も矛盾しているようには思えない。
さらに最後へ、
『一個褒められた』
『赤の仕事 戦うだけじゃない』
と書き足した。
赤ランクになって、以前より遠くへ行けるようになった。報酬も増え、大きな魔物を相手にする仕事も増えたが、それだけではない。今回のように、自分より経験の少ない冒険者を見ながら、必要な時だけ止める仕事まで回ってくる。
「色々ある」
杏々は日記を閉じ、ハンバーガー猫へ身体を沈めた。ちくわアザラシを脚の下へ入れ、今日一日を思い返す。
角兎には一度も触らなかった。
薬草もほとんど採っていない。
それでも二人は自分で仕事を終え、杏々にもきちんと報酬が出た。
「こういうのもいい」
杏々がこの世界で少しずつ覚えているのは、もっと強くなる方法だけではなかった。
依頼を受け、目的を忘れず、必要なら誰かに任せ、終わったら帰る。
そうやって、この世界を冒険者として歩いていく方法を、杏々自身も少しずつ覚えていた。




