前より少ない
翌朝、杏々はいつもより少し早く冒険者ギルドへ向かった。
一週間ぶりに戻ってきた訓練場は、何も変わっていない。朝の薄い光が土の上へ差し込み、端では何人かの冒険者がそれぞれ身体を動かしている。
遠征中も呼吸や気の流れを軽く確認する程度の調整は続けていたが、本来の身体へ戻して型を通すのは出発日の朝以来だった。
「今日はちゃんとやろう」
杏々は人の少ない場所を選び、身体の圧縮を解いた。
視線が上がる。
骨格も筋肉も、本来の位置へ戻る。
細く長く息を吐きながら肩を動かし、腰、膝、足首へ順番に意識を通すと、一週間空いた割には身体の繋がりが悪くなかった。
「やっぱり」
予想していたより、ずっと楽だった。
以前なら数日まともに調整できないだけでも、本来の身体へ戻した直後には細かなずれが出た。大きく崩れるわけではないが、呼吸と動作を合わせ直し、筋肉の緊張を解き、気の流れを全身へ馴染ませるまで少し時間がかかる。
今回は、その手間が少ない。
杏々は腕をゆっくり上げ、そのまま一つ目の型へ入った。
◆
踏み込む。
腰を回す。
掌を出す。
重心を落とし、次の足へ移す。
動作そのものは、昔から何度も繰り返してきたものだ。それなのに、今日は全身を繋ぐために意識しなければならない箇所が少なかった。
呼吸を合わせる。
気を通す。
肩の力を抜く。
股関節を開く。
それぞれを個別に調整してから一つへまとめるのではなく、最初からだいたい一緒に動く。
「前より少ないな」
無くなったのは力ではない。
余計なものだった。
余計な緊張。
余計な呼吸。
余計な動き。
圧縮した身体を維持しながら戦い続けたことで、小さな身体の中で行っていた細かな制御が、本来の身体へ戻した後にもそのまま反映されているようだった。
杏々は二つ目の型へ移る。
少し速度を上げた。
それでも乱れない。
◆
訓練場の端で掃除をしていたギルド職員が、途中から杏々の方を見ていた。
「杏々さん」
「はい?」
大人の杏々が動きを止める。
「今日はずいぶん長くやってますね」
「一週間遠征に出ていたので、一度全体を確認しておこうと思って」
「調子悪かったんですか?」
「逆ですね。思っていたより崩れていないので、どこが変わったのか確認しています」
「……調子がいいから調べてるんですね」
「はい」
職員は杏々の身体を上から下まで見て、それから首を傾げた。
「前にも、最近楽になってきたって言ってましたよね」
「圧縮した状態で動くことが増えた影響だと思います。以前より、身体を小さく維持しながら力を使う時の調整が細かくなっているみたいです」
「それが大きい方にも?」
「たぶん。ただ、完全に同じではないので、もう少し見ないと分かりません」
「難しいですね……」
「私も感覚でやってる部分が多いんですよ」
それでも、大人の身体なら、その感覚をある程度は言葉にできる。
◆
今度は剣を抜いた。
遠征へ持っていった、自分用に作ってもらった太極剣だ。
素振りから始める。
一度。
二度。
三度。
肩から振らない。
腕だけでも振らない。
足裏から生まれた動きを腰へ通し、背中から腕へ流して剣先まで繋げる。
「軽い」
剣そのものが軽くなったわけではない。
振るために必要な力が減った。
同じ軌道へ乗せるなら、以前より小さな力で済む。
杏々はそこで一度止まり、反対にわざと力を多めに入れて振った。
剣先が鋭く空気を切る。
「こっちも出る」
省けるだけではない。
必要なら、以前と同じだけの出力も使える。
燃費が良くなったからといって、器が小さくなったわけではなかった。
◆
杏々は剣を納めると、少しだけ速い歩法へ移った。
縮地までは使わない。
王都の訓練場で本気の速度を出すつもりもない。
重心を落とし、足を送る。進む距離を増やすのではなく、踏み替えの間にある無駄を削る。
一歩。
二歩。
三歩。
いつもなら、圧縮を解いた身体では脚の長さや重心の高さを改めて合わせ直す必要がある。
今日は、その切り替えも早かった。
「小さい方でやってたことが、こっちにも来てる」
逆もありそうだった。
本来の身体で培った動作を小さな身体へ合わせるだけだった頃とは違う。今は小さな身体で積み重ねたものが、本来の身体へ戻ってきている。
それは少し面白かった。
◆
杏々は最後にもう一度、呼吸を整えた。
以前なら、このくらい動けば朝食を追加したくなるほど腹が減ることもあった。
今日は空腹ではある。
けれど、出発前ほど極端ではない。
「これも減ってる」
身体を動かすために使うものが減れば、消耗も減る。
当然と言えば当然だった。
杏々は少し考える。
「家族に言ったら、どう言うかな」
元の世界で小さい姿を勧められていた一番の理由は、こちらの方が圧倒的に食費を抑えられたからだ。
本来の身体で普通に生活すると、とにかく食べる。
それが以前より少なく済むなら、事情は少し変わるかもしれない。
ただ、今すぐどうこうする話でもない。
「戻った時でいいか」
元の世界へ帰る方法すら、まだ分かっていない。
杏々はそこで考えるのをやめた。
◆
訓練場を出る前、杏々はもう一度圧縮した。
視線が下がる。
身体が小さくなる。
「終わり」
さっきまでかなり細かく身体の状態を整理していたのに、小さくなった途端に感想まで短くなる。
ギルド職員がそれを見て苦笑した。
「本当に説明の量が変わりますね」
「面倒」
「さっきまであんなに喋ってたのに」
「今もう分かったからいい」
「そういうものなんですかね……」
◆
朝食を追加してから、杏々は魔術院へ向かった。
一週間の遠征で見た山側の話を、今日はリネットへ伝えるつもりだった。
研究室へ入ると、リネットは机の上に広げた土地台帳と格闘していた。
「ただいま」
杏々が言う。
リネットが顔を上げる。
「あ、杏々さん。お帰りなさい」
「帰った」
「昨日ですよね?」
「うん」
「遠征どうでした?」
「羊おいしかった」
「まずそれなんですね」
「チーズも」
「仕事は?」
「ちゃんと終わった」
「ならよかったです」
◆
杏々は椅子へ座った。
「リネットちゃん仕事増えた?」
「帰ってきて早々それですか?」
「土地のやつ」
「ああ」
リネットは机の上の紙を見る。
「増えました」
「お」
「嬉しそうにしないでください」
「でも研究進んでる」
「そうなんですけどね」
以前見つかった三百年前の召喚者が関わったとされる水路工事。その周辺の土地台帳や、当時の農地利用に関する資料を閲覧できるようになり、リネットは地方文書を専門にする研究員と一緒に確認を始めていた。
「何か分かった?」
「まだ大きなことは。水路の流れを変えた後、使われなくなった土地と新しく耕作に使われ始めた土地があるらしい、というところまでです」
「水変えたから?」
「それもまだ断定できません。ただ、時期はかなり近いです」
「ご飯増えた?」
「収穫量の記録まで残っていれば分かりやすいんですが、そこはまだです」
「残念」
「本当に食べ物のところだけ反応が早いですね」
◆
杏々はそこで、今回の遠征の話を思い出した。
「山の話ある」
リネットの手が止まる。
「聞きます」
「でも保留のやつ」
「分かっています」
「下の方で山綿羊見た」
「どの辺です?」
「ローディン行く途中。山近いけど、山の中じゃない」
杏々は自分が分かる範囲で場所を説明する。街道名や細かな地名までは覚えていなかったが、宿場とローディンまでの日数、前後に通った道なら説明できた。
リネットは地図を出して、おおよその位置を確認する。
「このあたりですかね」
「たぶん」
「現地の人は何か言ってました?」
「今年は下で見ること多いって。でも年によるって」
「他には?」
「山の上が少ないかは分からないって。上まで数えに行かないから」
リネットが頷く。
「まともな答えですね」
「うん」
◆
「それと岩頭猪いた」
「それも低い場所ですか?」
「街道の近く。木にぶつかって倒したかも」
「かも?」
「傷あった。でも見てないから分からない」
「そこを分けてくれるようになったの、かなり助かります」
「リネットちゃんが言うから」
「ありがとうございます」
リネットは記録へ書き込む。
「岩頭猪自体は、山地周辺ならそこまで珍しい魔物ではありません。ただ、街道付近へ出る頻度が増えているなら、それは別ですね」
「御者の人も、増えた気がするって言う人いるって」
「『気がする』ですね」
「うん」
「大事です」
◆
杏々はさらに付け加える。
「見なかった日も書いた」
リネットが顔を上げた。
「え?」
「山の動物。見た日だけじゃなくて、見なかった日も日記に書いた」
「……それ、すごくいいです」
「偉い?」
「偉いです」
「一個」
「そこは数えるんですね」
「うん」
リネットは苦笑したが、記録としては本当に助かった。
見つけた時だけを書けば、後から見ると「いつもいた」ように見えてしまう。見なかった日まで残っていれば、少なくとも観察した期間の偏りを少し減らせる。
「今度から、無理のない範囲で続けてもらってもいいですか?」
「覚えてたら」
「十分です」
「仕事増えた?」
「私の?」
「うん」
「……少し」
「お」
「喜ばないでください!」
◆
リネットは山綿羊、岩頭猪、低地での目撃談を、以前の空渡り鳥の記録と同じ保留資料へ追加した。
すぐに調査隊を出すわけではない。
山の動物が下へ来る理由はいくらでもある。
餌。
季節。
気温。
人間の活動。
魔物同士の縄張り。
山火事や倒木のような一時的な環境変化。
もちろん、魔力環境の変化という可能性もゼロではないが、最初からそこへ絞る理由はない。
「今はまだ、『似た話が複数の場所から出始めている』くらいですね」
「調べない?」
「今は積んでおきます」
「机に?」
「比喩です」
杏々は机を見る。
実際に紙が積まれている。
「積んでる」
「物理的にも積んでますけど!」
◆
杏々は少し笑った。
そこで、海の魚のことを思い出す。
一週間前より入荷量が多かったこと。
海藻の産地が数年単位で変わっているという話。
漁場によって取れ方が違うこと。
言おうと思えば、今すぐ言える。
リネットは目の前にいる。
「……」
「どうしました?」
「何でもない」
「今、絶対何かありましたよね」
「ない」
「本当ですか?」
「まだ言わない」
リネットの目が細くなる。
「やっぱりあるじゃないですか」
「我慢してる」
「何をです?」
「リネットちゃんの仕事増やすの」
「その言い方だと、ものすごく気になるんですけど」
「まだ分からないから」
杏々なりの理由はあった。
川と同じ現象か分からない。
海の魚が減っているとも限らない。
魚屋自身も、場所によって違うと言っていた。
「もうちょっと見てから」
小さい杏々にしては、少し長く説明した。
リネットはしばらく杏々を見た後、ため息をつく。
「……分かりました。今すぐ言えとは言いません」
「お」
「ただし、危険に関係することならすぐ言ってください」
「ご飯の話」
「さらに気になりますね」
◆
話が一段落すると、杏々は机の端に置かれている三百年前の土地台帳へ目を向けた。
「昔の人のやつ、まだいっぱいある?」
「ありますよ。読める状態のものだけでもかなり」
「大変」
「誰のせいだと思ってます?」
「昔の人」
リネットが止まる。
「……まあ、それはそうなんですが」
「私じゃない」
「今回はそういうことにしておきます」
◆
魔術院を出た後、杏々はギルドへ戻る前に市場へ寄った。
昨日食べたローディンのチーズは、残り一つ。
今日は食べない。
少しずつ食べる。
「守る」
昨日までは「王都へ持って帰る」が目的だった。
今度は「すぐ全部食べない」が目的になった。
難易度は上がっている。
◆
昼過ぎにギルドへ戻ると、受付嬢から一枚の伝言を渡された。
「昨日の商隊の方からです」
「保存食?」
「はい。明日の午後、商会で話をしたいそうですよ。例の肉屋さんにも声をかけるとのことです」
「試作品?」
「まだ相談です」
「食べない?」
「たぶんまだ食べません」
「そっか」
杏々は少しだけ残念そうにしたが、伝言は受け取った。
「行く」
「分かりました」
◆
家へ戻ると、今日は本来の身体に戻ることなく、そのまま小さい姿で昼食を作った。
簡単な焼き肉。
パン。
野菜。
一つずつ作る。
朝なら、大人の身体で同時にいくつも進めていた。
今は別に急いでいない。
「これでいい」
焼けた肉を食べる。
その後でパン。
野菜。
順番でも美味しい。
◆
食後、日記を開いた。
『大きい身体 一週間ぶりでも前より楽』
『型 戻すの早かった』
『剣も軽く感じた』
『力減ったんじゃなくて無駄減ったかも』
少し考えてから、
『小さい方で上手くなったのが大きい方にも来てる?』
と書く。
疑問符をつけた。
まだ断定するには早い。
◆
次にリネットへ話したことを書く。
『山綿羊 言った』
『岩頭猪も言った』
『見なかった日も書くといいって』
『一個褒められた』
その下へ日本語で、
『海まだ言ってない』
と書く。
「四日目」
我慢は続いている。
◆
最後に、
『明日 保存食の話』
『肉屋さんも来る』
『まだ食べないかも』
と書いた。
最後だけ少し残念そうな文字になった。
杏々は日記を閉じると、ハンバーガー猫へ背中を預け、ちくわアザラシを脚の下へ入れた。
一週間の遠征で、身体は少し変わった。
遠くの土地を見た。
知らないものを食べた。
商売の話まで持ち帰ってきた。
そして明日から、また王都の日常が始まる。
「忙しい」
杏々は小さく呟いた。
実際には、かなりの部分を周囲の人間が忙しくなっているだけだった。




