下の方にいる
二日目の朝、商隊は日の出からそれほど間を置かずに宿場を出た。
昨日まで遠くに見えていた山並みは、歩き始めて半日もしないうちにはっきりと輪郭が分かる距離まで近づいている。
街道の周りも少しずつ変わっていた。
平らな畑ばかりだった王都周辺とは違い、小さな起伏が増え、畑と牧草地の間に低い林が混じる。道そのものはまだ広いが、遠くまで一直線に見通せる場所は減っていた。
杏々は荷車の横を歩きながら、左右をよく見ていた。
「昨日より見るとこ多い」
「そりゃそうだ」
盾役の男が前を見たまま答える。
「丘が増えると、向こう側が見えなくなるからな。林の際も気をつけろ」
「うん」
杏々は素直に頷いた。
仕事中なので、気になったものがあっても勝手には近づかない。
昨日、商隊の責任者にも念を押されたばかりだった。
◆
午前の半ばを過ぎた頃、前を進んでいた荷車が少し速度を落とした。
杏々も足を止める。
「何?」
前方の護衛が手を上げていた。
街道の脇。
低い草地の奥で、何かが動いている。
最初は鹿のように見えた。
しかし、頭の上にある角はもっと短く、身体には厚い毛が生えている。
「羊?」
杏々が言う。
隣にいた商人が目を細めた。
「山綿羊だな」
「いる」
「いるな」
山綿羊は二頭いた。
本来ならもう少し山側で見かけることが多いという獣だ。
こちらへ襲ってくる様子はなく、草を食べながら時々顔を上げている。
杏々はじっと見る。
「結構下」
「そうだな」
「普通?」
商人はすぐには答えなかった。
◆
「この辺で見ることも、なくはない」
やがて商人が言った。
「冬前とか、山の上で餌が少ない時期ならもっと降りてくる。ただ、今はそこまで珍しくない季節でもない」
「じゃあ変?」
「そこまでは言えん」
別の荷車を見ていた年配の御者も話に加わった。
「今年は下で見ること多いぞ。先月ももっと西の方で三頭いた」
「前から?」
「年による」
「山の上少ない?」
「知らん。俺たちは山の上まで数えに行かんからな」
杏々は頷いた。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
◆
山綿羊は商隊が近づくと、ゆっくり林の方へ離れていった。
問題はない。
隊列もそのまま進む。
杏々は後ろを振り返らなかった。
ただ、頭の中には残しておいた。
前にも聞いた。
山の獣が、下へ来ることが増えた。
今回も同じ話だった。
それだけ。
同じ原因とは限らない。
リネットにも何度も言われている。
「覚えとく」
「何をだ?」
商人が聞く。
「今の」
「山綿羊?」
「うん」
「食う気か?」
杏々は少し考えた。
「食べられる?」
「やっぱりそっちもあるんじゃないか」
◆
昼休みは、小さな沢の近くで取ることになった。
水場そのものは街道から少し外れているため、護衛が先に周囲を確認する。
問題がないと分かってから、商隊の者たちが水を汲みに向かった。
昼の支給食は昨日と似ている。
硬いパン。
干し肉。
少量の乾燥果実。
杏々はパンを受け取り、今日は鞄から別の袋を出した。
「今日は何だ?」
昨日の商人がすぐに気づく。
「辛い肉」
「昨日の香草と違うやつか」
「うん」
「本当に日替わりなんだな」
「同じのあるけど、続けない」
杏々は薄切りの保存肉をパンへ挟む。
昨日より香りが強い。
噛むと辛味が後から出る。
「お」
自分で作ったものだが、ちゃんと美味しい。
◆
商人が見ている。
「一枚くれ」
「辛いよ」
「昨日もそれ聞いた」
杏々は一枚渡した。
商人はそのまま食べて、少し眉を上げる。
「こっちは結構強いな」
「パンと食べる用」
「なるほど」
男は支給された硬いパンをちぎり、残りの肉と一緒に食べた。
「確かにこっちの方がいい」
「でしょ」
「味が濃いから、少ない量でもパンが食えるな」
杏々が止まる。
「そうなの?」
「作った本人が気づいてないのか」
「美味しいから挟んでた」
「それで結果的にそうなってるんだよ」
◆
商人はもう一度、杏々の袋を見る。
「これ、一袋に何枚入れてる?」
「今日は五枚」
「五枚で足りる?」
「支給の肉もあるから」
「全部置き換えるんじゃないんだな」
「もったいない」
「なるほどな」
商人の目がまた少し変わる。
杏々は気づかず食べている。
「支給食を捨てずに、足すだけか」
「うん」
「それなら量もそんなに要らない」
「いっぱい持つと重い」
「値段も抑えられるかもしれん」
「値段?」
「こっちの話だ」
◆
昨日より、商人の質問が細かくなっていた。
何日持つのか。
一袋どれくらいの量か。
肉の部位は何を使ったのか。
香草と辛味は高いのか。
作る時にどれくらい火や時間が必要なのか。
杏々は分かる範囲で答えた。
「正確なのは肉屋の人の方が分かる」
「肉屋も関わってるのか?」
「保存のやり方聞いた」
「じゃあ帰ったら、その店も紹介してもらえるかもしれんな」
「いいけど」
「勝手に話を進めても困るだろ。まず本人に聞く」
「ちゃんとしてる」
「商人だからな」
杏々は少し感心した。
◆
昼休みを終え、再び商隊が動き出す。
午後になると道はさらに起伏が増えた。
荷車の速度も少し落ちる。
上り坂では、御者たちが牛や馬の状態をこまめに確認していた。
杏々も車輪を見る。
前の護衛が道を確認する。
問題が起きたのは、日が傾き始めた頃だった。
「止まれ!」
前から声が飛ぶ。
荷車が順に止まった。
◆
道の先に、倒れた木があった。
完全に街道を塞いでいる。
太い。
根元から倒れたのではなく、途中で折れている。
「風か?」
槍使いが周囲を見る。
「昨日はそこまで荒れてないだろ」
「古くなって折れたかもしれん」
護衛四人が先に近づく。
杏々も見る。
幹には新しい傷がある。
「何か当たってる」
盾役がしゃがんだ。
「獣か?」
杏々も見る。
樹皮が削れている。
高さがある。
小さな魔物ではない。
「大きい」
「そうだな」
◆
倒木そのものを退かすだけなら簡単だった。
杏々一人でもできる。
ただし、先に周囲を確認する必要がある。
「動かしていい?」
「待て」
盾役が止める。
「原因が近くにいるかもしれん」
「うん」
杏々は手を離す。
以前なら、邪魔だから先に退かしていたかもしれない。
今は護衛の仕事として、順番があることを分かっている。
弓使いが少し高い場所へ移動し、周囲を見る。
槍使いは林側。
杏々と盾役は街道側を警戒する。
◆
しばらくして、林の奥から低い音がした。
「いる」
杏々が言う。
枝が揺れる。
出てきたのは、大きな灰色の獣だった。
猪に似ている。
ただし、普通の森猪より肩が高く、頭の前に硬い骨質の突起がある。
「岩頭猪だ!」
盾役が声を上げる。
「荷車下げろ!」
商隊側がすぐに動く。
杏々は前へ出た。
◆
岩頭猪は街道へ出ると、こちらを見た。
興奮している。
鼻息が荒い。
木へぶつかったのも、こいつかもしれない。
「突っ込んでくるぞ!」
「分かった」
杏々は小さい身体のまま構える。
岩頭猪が地面を蹴る。
速い。
体重もある。
真正面から荷車へ行かせるわけにはいかない。
「こっち」
杏々が一歩だけ位置を変える。
獣の視線が向く。
◆
突進。
杏々は最後まで待った。
避ける。
ただ横へ飛ぶのではなく、ほんの少し身体の中心をずらす。
以前より動きが小さい。
それでも十分だった。
岩頭猪の頭が杏々の横を抜ける。
通り過ぎる瞬間、杏々は肩口へ拳を当てた。
大きな音はしない。
だが、獣の前脚が崩れた。
「おお?」
槍使いが声を漏らす。
杏々自身も少しだけ目を開く。
「また入りやすい」
◆
岩頭猪は転がりながら止まり、すぐに立ち上がろうとした。
まだ倒れていない。
杏々は追いすぎない。
荷車との位置を見る。
逃げ道を見る。
獣がもう一度こちらへ向こうとする。
「そっち行かせない」
今度は剣を抜いた。
前脚を痛めて姿勢の崩れた岩頭猪へ近づき、硬い頭部を避けて首の下へ刃を入れる。
短い。
一度だけ。
獣はその場へ崩れた。
◆
「終わり」
杏々が剣を払う。
盾役が周囲を見る。
「他はいないか?」
「今のところはなさそうだ」
弓使いが答える。
すぐに倒木の確認へ戻る。
岩頭猪を倒したから終わりではない。
護衛の仕事は、道を通せる状態にして商隊を進ませるところまでだった。
「木どかす?」
「今度はいい」
「じゃあやる」
杏々は剣を納めた。
◆
倒木の太い部分へ手をかける。
小さい身体のまま。
「それ、一人でいけるのか?」
御者が心配そうに聞く。
「いける」
杏々は腰を落とす。
呼吸を合わせる。
身体全体の力を繋げる。
持ち上げるというより、転がす。
「よいしょ」
幹が動いた。
商隊の者たちが一斉に声を上げる。
「……毎回見ても意味分からんな」
「小さいのに」
「小さいから関係ない」
杏々はそのまま街道の端へ押し出した。
◆
道が開いた後、岩頭猪の処理をどうするかという話になった。
全部持っていく余裕はない。
商隊の責任者が周囲を見る。
「肉は取れるか?」
「食べられる」
杏々が即答した。
「そこは知ってるのか」
「ギルドで見た」
護衛と商隊で必要な分だけ切り分けることになった。
残りは近くの宿場へ知らせ、回収できるなら回収してもらう。
杏々は肉の状態を見る。
「脂ある」
「晩飯にできるな」
御者が笑った。
「焼く?」
杏々の顔が少し明るくなる。
◆
二日目の宿泊地は、予定より少し遅れて到着した。
小さな宿場だった。
到着するとすぐ、持ってきた岩頭猪の肉を宿へ渡す。
夕食にはその肉が焼かれて出てきた。
「お」
杏々は嬉しそうに皿を見る。
厚めに切った肉。
表面には塩と香草。
噛むと少し強い弾力があり、その後から脂の甘みが出る。
「美味しい」
「今日一番嬉しそうだな」
盾役が呆れる。
「仕事したから」
「倒した時より今の方が達成感ある顔してるぞ」
「食べられたから」
◆
昼間の商人が、自分の皿を食べながら言う。
「嬢ちゃん」
「何?」
「今日の辛い肉、あれは結構いい」
「でしょ」
「香草の方とは用途が違うのも分かった」
「うん」
「帰ったら本気で少し話をしたい」
杏々が肉を噛みながら見る。
「保存食?」
「そうだ」
「売る?」
「まだそこまで決まってない。ただ、商品にできるか確かめる価値はある」
「肉屋さんにも聞く?」
「もちろん」
「ならいいよ」
「ずいぶん簡単だな」
「美味しいの増えるならいい」
「自分が売る側になる気は本当にないんだな」
「面倒」
「知ってた」
◆
食後。
杏々は宿の外へ出た。
夜の山が、昨日より近い。
暗い稜線が空の下に続いている。
昼間見た山綿羊。
倒木。
岩頭猪。
「獣多い?」
杏々は独り言のように言った。
近くで馬の世話をしていた御者が聞いた。
「この辺は元から多いぞ」
「最近もっと?」
「それは分からんな」
男は少し考えた。
「ただ、街道まで出てくるのは増えた気がするって言う奴はいる」
「なんで?」
「餌かもしれんし、人が増えて山の使い方が変わったのかもしれん。山の上で何かあったのかもしれん」
「いっぱいある」
「原因なんてそんなもんだ」
杏々は頷いた。
「そっか」
◆
部屋へ戻ると、日記を開いた。
『二日目』
『山綿羊 下にいた』
『今年は下で見ること多いって』
『でも年によるかも』
その下に、
『岩頭猪』
『木倒れてた』
『肉おいしい』
『脂甘い』
と書く。
少し考えてから、
『小さい身体 また動き入りやすかった』
と足した。
まだ新しい技ができたわけではない。
ただ、身体の中で力が前より迷わず繋がる。
その感覚だけは、ここ数回続いている。
◆
さらに、
『辛い保存肉 商隊の人かなり気に入った』
『帰ったら肉屋さんと話するかも』
と書いた。
最後に甘い焼き菓子の袋を見る。
今日はまだ食べていない。
「一個」
袋から取り出す。
夕食を食べた後でも、甘いものは別だった。
焼き菓子を齧りながら、残りを数える。
「六個」
一週間の旅は、まだ二日目。
山は近い。
食べ物は減る。
情報は少しずつ増える。
杏々はそれを全部日記へ押し込んでから、明日に備えて横になった。




