ここにする
翌日の午後、杏々はもう一度、西市場近くの長屋を訪れていた。
今度はリネットも一緒ではない。
場所を書いてもらった紙は持っているものの、途中からほとんど見なかった。西市場へ近づくにつれて人通りが増え、焼いた魚と肉、それにパンの匂いが混じり始めたからだ。
「こっち」
杏々は迷わず角を曲がる。
魚を焼く屋台。
その向かいに干した香草を売る店。
少し先には土玉芋や葉野菜を積んだ露店がある。
そこを抜けた先が、昨日見た長屋だった。
「分かった」
昨日、受付嬢から住所で覚えろと言われたばかりだが、杏々にとってはこちらの方が分かりやすかった。
◆
「また来たね」
扉を叩くと、昨日案内してくれた家主が出てきた。
「もう一回見る」
「構わないよ。まだ他には決まってないからね」
「うん」
杏々は昨日と同じ部屋へ入った。
一度見ているので、今度は入口から順番に眺めるのではなく、気になっていた場所を確認していく。
まず寝台。
次に収納。
それから調理場。
「火、ここ?」
「そうだよ」
「鍋置ける?」
「置ける」
「大きい鍋も?」
「何人分作る気だい?」
「私の」
「……なら普通の鍋じゃ足りないのかもしれないねえ」
家主は杏々の小さな身体を見て首を傾げた。
「よく食べるのかい?」
「いっぱい」
「見えないねえ」
「よく言われる」
◆
調理場の横には、壁に作り付けられた小さな棚がある。
杏々は扉を開けた。
「ここ何入れる?」
「食器でも、乾物でも。好きに使いな」
「お米みたいなの入る?」
「袋なら下に置いた方がいいね。鼠除けの箱を置く人もいるよ」
「肉は?」
「生のまま置いちゃ駄目だよ」
「知ってる」
「ならよし」
次に、寝台と反対側の壁際を見る。
昨日、剣や旅道具を置けそうだと思った場所だ。
「ここ、物置いていい?」
「部屋の中なんだから好きにしな」
「剣」
「倒れないようにしてくれればね」
「分かった」
「冒険者なんだろ?」
「黄」
「色で言われても私は詳しくないけど、仕事はちゃんとしてるんだね?」
「毎日してる」
「なら家賃さえ遅れなきゃ文句はないよ」
◆
杏々は部屋の中央へ戻ると、一度目を閉じた。
普段の身体なら十分に広い。
本来の身体に戻った場合はどうか。
昨日も頭の中では考えたが、もう少し正確に見ておきたかった。
「ちょっといい?」
「何がだい?」
「大きくなる」
「……何?」
家主が聞き返した時には、杏々はすでに身体の圧縮を緩めていた。
小さく丸かった身体が、本来の成人した姿へ戻っていく。
背が伸び、手足の長さも変わり、身体つきそのものが一気に大人の女性へ戻る。
家主は口を開けたまま固まった。
「……あんた」
「これが元なんです」
「元?」
「普段は小さくしてます」
「そういうことできるのかい?」
「できます」
成人状態の杏々は、部屋の中央へ立つと腕を広げた。
「この状態でも、ここなら十分動けますね」
「いや、ちょっと待ちな」
「はい?」
「今の、魔法かい?」
「違いますよ。身体を小さくしているだけです」
「それを普通はできないって言うんだよ」
「まぁ、そうですね」
「そうだよ!」
◆
驚いている家主をよそに、杏々は部屋の確認を続けた。
寝台へ腰を下ろす。
「少し短いですね」
「さっきは寝られるって言ってなかったかい?」
「小さい方なら余ります。本来の身体だと、少し足を曲げれば大丈夫です」
「……あんた、ずっとその身体じゃないんだね?」
「普段は小さい方です。そちらの方が燃費がいいので」
「燃費?」
「食べる量が少なくて済みます」
家主はしばらく杏々を見て、それから妙に納得したように頷いた。
「いっぱい食べるって、そっちの話かい」
「小さい時もいっぱい食べますよ」
「余計分からなくなったよ」
杏々は立ち上がり、調理場の前にも立った。
「ここも大丈夫そうです」
「大きい方だと少し低くないかい?」
「少し低いですけど、使えます。普段は小さいので、むしろ高いくらいですね」
「面倒な身体してるねえ」
「よく言われます」
◆
確認が終わると、杏々は再び身体を圧縮した。
成人の姿から、いつもの小さな身体へ戻る。
家主はそれを今度は最初から最後まで見ていた。
「……本当に小さくなったね」
「戻した」
「どっちが戻ったんだい?」
「今は小さくした方」
「ややこしいねえ」
「うん」
杏々自身も説明するのが面倒になったのか、それ以上は話さなかった。
「で」
家主が腰へ手を当てる。
「今日は本当に部屋を見るだけかい?」
杏々は部屋をもう一度見回した。
市場は近い。
ギルドにも通える。
料理ができる。
魚も肉も焼ける。
剣を置く場所もある。
本来の身体でも問題なく動ける。
「ここにする」
「決めるのかい?」
「うん」
「分かった。じゃあ契約の話をしようか」
◆
契約書は、当然ながら杏々一人ではすべて読めなかった。
数字は分かる。
家賃も、保証金も分かる。
ただ、細かい条件になるとまだ難しい。
「長い」
「契約ってのは長いもんだよ」
「読めないところある」
「じゃあ誰か呼ぶかい?」
「リネットちゃん」
「知り合いかい?」
「研究の人」
「冒険者じゃないんだね」
「森の人でもない」
「何の話だい?」
杏々は答えず、魔術院へ使いを出してもらうことにした。
幸いリネットはその日の研究を終えかけており、それほど待たずにやってきた。
「本当に決めたんですね」
「うん」
「一人でもう一度見るだけじゃなかったんですか?」
「見て、よかったから」
「それならいいですけど」
リネットは契約書を受け取り、最初から確認した。
◆
「家賃は昨日聞いた通りですね。保証金も同じ。退去する時に大きな破損がなければ、一部は返ってきます」
「返ってくる?」
「はい」
「全部?」
「修繕が必要ならその分は引かれます」
「壊さなければいい?」
「基本的には」
家主が横から言う。
「壁に穴開けたり、床割ったりしなきゃ大丈夫だよ」
リネットが杏々を見る。
「戦闘訓練は外でしてくださいね」
「しないよ」
「成人状態で動くだけでも少し心配なんですけど」
「そんなに暴れない」
「普通の人ならその言葉を信用するんですけどね」
杏々は少し不満そうだった。
◆
「それから、家賃は毎月この日までに」
「分かる」
「遅れると?」
「困る」
「そうですけど、契約上は追加で――」
リネットが説明を続ける。
杏々は真面目に聞いていた。
全部を一度に覚えるのは難しいが、家賃を払う日付だけは帳面へ大きく書いた。
「そこだけ大きいですね」
「忘れたら家なくなる?」
「すぐにはなくなりませんけど、忘れないでください」
「じゃあ大きく書く」
「それは正しいです」
杏々はさらに、その横へ市場へ行く日とでも思ったのか、小さく印をつけた。
「何です、それ」
「家のお金の日」
「分かりやすいならいいです」
◆
問題は、最初に払う金だった。
家賃の前払い分。
保証金。
そして契約のために必要な最低限の費用。
杏々は帳面を開いて、自分の所持金と比べる。
「払える」
「そうですね」
「でも減る」
「かなり減ります」
リネットも横から計算する。
これだけなら問題はない。
ただし、数日中には注文した剣も完成する予定だった。
「剣のお金、これ」
杏々が別の数字を指す。
「そこを引くと……」
リネットが少し考える。
「生活できなくなるほどではありません。でも余裕はかなり小さくなりますね」
「ご飯のお金は?」
「残してますよ」
「ならいい」
「杏々さんの場合、それを残さない計算はありえませんけど」
「大事だから」
「知ってます」
◆
家主は二人のやり取りを聞きながら、少し笑った。
「冒険者なら仕事あるんだろ?」
「ある」
「だったら働きゃいいさ。毎月きちんと払ってくれれば、こっちはそれでいい」
「働く」
「無理しすぎるんじゃないよ」
「大丈夫」
杏々はそう答えてから、契約書の最後にある名前を書く欄を見た。
「ここ?」
「はい」
リネットが頷く。
「自分の名前を書いてください」
杏々は少し時間をかけて、この世界の文字で自分の名前を書いた。
まだ慣れた日本語ほど綺麗ではない。
それでも、読める形にはなっている。
書き終えた杏々が顔を上げる。
「できた」
リネットがその文字を見る。
「ちゃんと書けてます」
「褒めた?」
「……褒めました」
「一回」
「こういう時でも数えるんですね」
「うん」
◆
契約が終わると、家主から鍵を渡された。
「今すぐ住み始めてもいいけど、支援期間が残ってるなら、荷物は少しずつ運べばいいよ」
杏々は手のひらに乗った鍵を見る。
「これ私の?」
「部屋の鍵だよ」
「なくしたら?」
「困るね」
「もう一個ある?」
「私のところには予備がある。ただ、なくさないでおくれよ」
「分かった」
杏々は鍵を握る。
これまで城の部屋に鍵がなかったわけではない。
けれど、意味は少し違った。
これは王宮から一時的に与えられた部屋ではない。
自分で選んで、自分で金を払って借りた部屋の鍵だった。
杏々はもう一度、部屋を見る。
「ここ、私の家?」
「借りてる間はね」
「お」
少しだけ嬉しそうな声だった。
◆
「何から運びます?」
帰り道、リネットが尋ねた。
「服」
「それほど多くないですよね」
「うん」
「日記と、冒険者用品。それから……」
「食べ物」
「城から勝手に持っていかないでくださいね」
「私のあるよ」
「ならいいです」
「あと熊いない」
「フィアさんのですからね」
「うん」
「家具はどうします? 寝台はありますけど、机がありませんよ」
「床で書ける」
「腰痛くなりますよ」
「小さいから平気」
「成人状態では?」
「その時考える」
「絶対後回しにする人の言い方ですね」
杏々は気にしていなかった。
◆
二人は西市場を通って帰った。
途中で杏々が突然足を止める。
「これ」
「今度は何です?」
「さっきの家の近く」
杏々が指したのは、魚を焼いている屋台だった。
「昨日も見ましたよね」
「うん」
「食べるんですか?」
「家決まったから」
「お祝いですか?」
杏々は少し考えた。
「たぶん」
「そこはたぶんなんですね」
焼いた魚を二本買い、一つをリネットへ渡す。
「え、私も?」
「手伝った」
「契約書を読んだだけですよ」
「大事だった」
リネットは少し笑った。
「じゃあ、いただきます」
二人で市場の端に立ち、焼きたての魚を食べた。
皮はぱりっと焼けていて、中の白身には塩がよく効いている。
杏々は骨の間の身まで綺麗に食べた。
「ここ近い」
「もう店の場所まで覚えたんですね」
「うん」
「部屋の住所は?」
杏々が止まる。
「魚の店から、二本目曲がる」
「住所で覚えてください」
「行けるよ」
「そういう問題じゃないんです!」
◆
その日の夕方、杏々は城へ戻る前にギルドへ寄った。
翌日の依頼を確認するためだったが、受付嬢が杏々を見るなり声をかけてきた。
「あ、杏々さん。ちょうどよかったです」
「なに?」
「武器屋から伝言が来てます」
杏々の動きが止まった。
「剣?」
「はい」
「できた?」
「完成したそうです。明日以降、都合のいい時に確認に来てほしいとのことですよ」
杏々の顔がぱっと明るくなる。
「できた」
「よかったですね」
「うん」
「楽しみにしてましたもんね」
「明日行く」
「依頼は?」
杏々は少し考えた。
「剣取ってから仕事」
「そのまま使う気ですか?」
「使えるか見たい」
「まず店で確認してくださいね」
「うん」
◆
その夜。
杏々は日記を開いた。
まず今日の仕事と報酬を書く。
次に、家へ払った金。
新しく覚えた文字で、
『家』
と書いた。
その横に、
『西市場 魚の近く』
と書き足す。
さらに家賃を払う日付を、もう一度大きく書いた。
少し下には、
『剣 できた』
と書く。
そして最後に、日本語で、
『家きまった』
『魚ぱりぱりだった』
『塩ちょうどいい』
『骨のとこもおいしい』
と続けた。
家を決めたことより、やはり魚についての方が詳しかった。
杏々は帳面を閉じると、今日受け取った鍵を机の上へ置いた。
明日は剣を受け取る。
そのうち、城から荷物も運ぶ。
来月からではなく、もう少し早く新しい部屋で暮らし始めてもいいかもしれない。
杏々は鍵を指先でつまみ上げ、もう一度眺めた。
「家」
小さく呟いてから、今度こそ大事に袋へしまった。




