小さいけど強いらしい
冒険者ギルドの訓練場は、建物の裏手にあった。高い石壁に囲まれた広い敷地には、木製の人形や弓の的、重さの違う武器、砂袋などが並び、踏み固められた土の上には、ところどころ剣で削られた跡や魔法で焦げた跡まで残っている。
「おー」
杏々は興味深そうに周囲を見回した。
「ここで戦うの?」
「訓練する場所です。冒険者同士の模擬戦や、新人の訓練なんかにも使われます」
隣を歩くリネットが答えると、杏々は「へえ」と頷いた。
「あまり勝手に触らないでくださいね」
「分かった」
そう答えながらも、杏々の視線はすでに近くに置かれた大きな剣へ向いていた。
「……杏々さん?」
「触ってないよ」
「見ているだけですよね?」
「うん」
「ならいいです」
リネットがそう言うと、杏々の視線はその隣に置かれた巨大な戦斧へ移った。そんな二人を訓練場の中央で待っていたのは、四十代ほどの大柄な男だった。短く刈り込んだ髪に日に焼けた肌、左の頬には古い傷が走っている。腰には剣を下げているものの、今は簡素な革の防具しか身につけていなかった。
「訓練担当のガルドさんです。元冒険者で、今は新人の適性確認や訓練を担当しています」
受付嬢が紹介すると、男――ガルドはすぐに訂正した。
「元じゃねえ。今も登録は残ってる。最近は現場に出ねえだけだ」
「似たようなものじゃないですか」
「全然違う」
そんなやり取りを交わしたあと、ガルドは杏々へ視線を落とした。
「で、今日の新人ってのは、この子か?」
「はい」
ガルドは杏々を見て、次にリネットを見て、それから受付嬢へ視線を移した。
「本気か?」
「私も今日、それを三回くらい聞きました」
「だろうな」
ガルドはしゃがみ込み、杏々と目線を合わせた。
「嬢ちゃん」
「杏々」
「分かった。杏々。冒険者になりたいんだって?」
「うん」
「なんでだ?」
「ご飯食べたいから」
ガルドは黙って受付嬢を見た。
「説明しようとすると長くなるので、そのまま受け入れてください」
「分かった」
ガルドはあっさり頷いた。
「じゃあ始めるぞ」
「うん」
「最初に言っておくが、これは強さを競う試験じゃねえ。新人に必要なのは、まず死なねえことだ。自分に何ができて、何ができないかを判断できる方が大事だ。魔物を一匹倒せたところで、無茶して死んだら終わりだからな」
「なるほど」
「本当に分かったか?」
「たぶん」
「……まあいい」
後ろで聞いていたリネットは、小さくため息をついた。
「まずは簡単な確認からだ」
◆
「走れ」
最初の試験は、訓練場を何周か走るだけだった。
「これくらい?」
「そうだ。速さを見るんじゃねえから、自分のペースで――」
ガルドが説明を終えるより先に、杏々は走り始めた。小さな身体で地面を蹴り、とことこと進んでいく。その姿だけを見れば、普通の小さな女の子が一生懸命走っているようにしか見えなかった。
「……思ったより普通ですね」
リネットが呟くと、ガルドは腕を組んだ。
「そりゃ走るだけならな」
一周、二周、三周と走っても、杏々のペースは変わらなかった。五周を過ぎ、十周を終えたところで、ガルドが声をかける。
「もういいぞ」
「終わり?」
「ああ」
杏々がその場で止まる。息は乱れていない。
「疲れたか?」
「別に」
ガルドはわずかに眉を上げた。
「じゃあ次だ」
今度は、地面に置かれた木箱を運ぶ試験だった。箱の中には訓練用の鉄塊が入っている。
「これを向こうまで運べ」
「分かった」
杏々は箱の取っ手を握ると、ひょいと持ち上げた。
「…………」
「…………」
リネットは昨日と同じ光景を見ていた。ただし、今日の箱は昨日のものより明らかに重い。それでも杏々は何でもないように歩き、指定された場所まで運んでから、どすんと箱を置いた。
「今の、重くなかったか?」
「ちょっと」
「ちょっと?」
「昨日の箱よりは重い」
「昨日も何か持たせたのか?」
ガルドがリネットを見る。
「……仕事の適性を見るために少し」
「で?」
「普通に持ちました」
「そうか」
ガルドは少し考えたあと、別の箱を指した。
「じゃあ、こっち」
「うん」
「ちょっと待ってください」
リネットが慌てて止めた。
「あれ、さっきより重いですよね?」
「ああ」
「杏々さんには――」
言い終わる前に、杏々はその箱もひょいと持ち上げた。
「持てた」
「…………」
リネットが黙り、ガルドも黙る。杏々は箱を持ったまま首を傾げた。
「どこ?」
「……同じところだ」
「分かった」
杏々は箱を運び、またどすんと置いた。
「もう一つやる?」
「いや、十分だ」
ガルドが即答する。
「もっと重いのでもいいよ」
「それを確認する試験じゃねえ」
ガルドは杏々の細い腕を見た。少なくとも、この見た目から今の力が出ているようには思えない。
「魔力による身体強化は?」
「できません」
リネットが答える。
「魔力自体がありません」
「聞いてたが……本当なんだな」
「測定は何度もしています」
「じゃあ今のは素の力か?」
「そういうことになります」
「へえ」
ガルドの杏々を見る目が、少し変わった。
◆
「次は反応を見る」
訓練場の中央には一本の線が引かれていた。
「俺が木球を投げる。線から動かずに避けろ」
「取ってもいい?」
「避けろって言っただろ」
「分かった」
「身体に当たっても痛くねえように軽い球を使う。無理に避けようとしなくても――」
ガルドが説明している途中で、木球が飛んだ。杏々の頭へ向かった球を、杏々は少し首を傾けるだけで避ける。
「今のずるくない?」
「説明してる最中も油断すんなって確認だ」
「なるほど」
「もう一つ」
今度は肩へ向かって飛んだ球を、杏々は身体を少しひねって避けた。三つ目の球は腰へ向かったが、杏々は片足を半歩ずらすだけでかわした。
ガルドの手が止まる。
「リネット」
「はい?」
「この子、本当に戦闘経験あるんだな?」
「本人はそう言ってますけど……私も実際に見たことはありません」
「そうか」
「何か変ですか?」
「避け方だ。大きく動かねえ。初心者は怖がって必要以上に身体を逃がすが、こいつは球が当たらねえ分しか動いてねえ」
杏々が二人を見る。
「もう終わり?」
「いや」
ガルドは少し笑った。
「面白くなってきた」
「ガルドさん?」
「次は少し増やすぞ」
「うん」
「五個だ」
「分かった」
ガルドは両手に木球を用意し、間隔を変えながら次々に投げた。杏々はしゃがみ、身体を傾け、一歩だけ位置をずらしながら、すべての球を避けていく。最後の一つだけは、ぱしりと手で受け止めた。
「杏々さん、最後は取っていいって言ってませんよね?」
「取りやすかったから」
「そういう問題じゃありません」
杏々は手の中の球を見た。
「返す?」
「……ああ」
杏々が投げ返した球を、ガルドは受け取った。
「十分だ」
その顔には、先ほどよりはっきりとした笑みが浮かんでいた。
◆
「今度はこれを殴れ」
訓練場の端には、大きな砂袋が吊るされていた。厚い革で作られた砂袋は、天井から太い縄で吊られている。
「魔物を相手にするなら、最低限の攻撃手段は必要だ。武器を持ってねえなら、とりあえず格闘の方を見せてもらう」
「普通に殴る?」
「ああ」
「壊していい?」
ガルドは一瞬黙った。
「壊せると思ってんのか?」
「分かんない」
「こいつは新人だけじゃなく現役冒険者も使う訓練道具だ。そう簡単には壊れねえよ」
「じゃあいい?」
「やれ」
杏々は砂袋の前に立った。リネットが少し離れた場所から見守る。
「……杏々さん、本当に大丈夫でしょうか」
「殴り方を見るだけだ。変な打ち方をして手首を痛めそうなら止める」
「それなら……」
杏々は右手を軽く握った。構えらしい構えは取らず、ただ少しだけ足を開く。
ガルドの目が細くなった。
杏々が一歩踏み込み、拳を打ち込む。
どん、と鈍い音が響き、砂袋が大きく揺れた。向こう側へ大きく持ち上がった砂袋が戻ってくる前に、杏々は半歩横へ避ける。
「これくらい?」
ガルドは答えなかった。砂袋を見て、縄を見て、それから杏々を見る。
「もう一回やっていい?」
「いや」
「なんで?」
「待て」
ガルドは砂袋へ近づき、表面を触った。破損はなく、中身も漏れていない。それでも、先ほどの衝撃が普通でないことは明らかだった。
「……お前、今、身体強化使ってねえんだよな?」
「使い方知らない」
「魔力もない」
「ないって」
ガルドがリネットを見る。
「本当に?」
「本当にありません」
ガルドは頭を掻いた。
「どうなってんだ、この身体」
「小さいよ」
「見りゃ分かる」
杏々は自分の拳を見た。
「普通だけど」
「その普通は捨てろ」
「えー」
ガルドはしばらく考えたあと、杏々へ尋ねた。
「拳だけじゃねえんだろ?」
「うん」
「剣も使えるって書いてある」
「使えるよ」
「じゃあ見せてみろ」
「ガルドさん」
リネットが不安そうな声を出す。
「大丈夫だ。刃のついてねえ訓練剣を使わせる」
ガルドは武器立てから一本の木剣を取り出し、杏々へ渡した。
「これで、そこの人形に好きに打ち込んでみろ」
「これ重いね」
「重い?」
「私が使ってたのと違う」
「どんな剣使ってたんだ?」
「細いやつ」
杏々は木剣を軽く振り、重心を確かめるように手首を動かした。
「もうちょっと軽くて、先まで使いやすいやつ」
「片手剣か?」
「たぶん」
「たぶんって何だ」
「名前よく知らない」
杏々は木剣を持ったまま、人形の前へ立った。軽く振って感触を確かめたあと、一歩踏み込む。木剣が走り、人形の肩を打った。すぐに返して胴を払い、さらに踏み込んで首元へ振り抜く。そこから剣を引くと同時に身体を回し、空いている左手の掌を人形の胸へ叩き込んだ。
どん、と人形が揺れる。
リネットは目を丸くしていた。剣だけではない。剣を振った直後に拳を繰り出し、踏み込みから身体を回転させながら蹴り、さらに剣へつなげる。その動きがすべて一続きになっている。
「こう?」
「……ああ」
ガルドが答える。
「もういい」
「まだできるよ」
「分かった。分かったから止まれ」
杏々が木剣を下ろす。
「これやっぱり重い」
「普通の訓練剣だぞ」
「使いにくい」
ガルドは杏々が使った木剣を見た。
「お前、本当にどこで習った?」
「おうちとか」
「家?」
「あと色々」
「流派は?」
「いっぱいあるよ」
「拳法とか剣とか」
「混ぜてんのか?」
「使いやすいから」
ガルドは額を押さえた。
「理解しようとすると頭が痛えな」
「何で?」
「こっちが聞きてえ」
◆
一通りの身体能力確認が終わると、杏々は訓練場の端に置かれたベンチへ座り、リネットから渡された水を飲んだ。
「はい」
「ありがと」
「疲れてません?」
「全然」
「……そうですか」
リネットは先ほどの砂袋を見る。頭の中では、昨日までの自分の認識が崩れ始めていた。杏々は小さい。魔力がない。身体強化も使えない。だから戦闘には向いていない。そう思っていた。
だが、少なくとも今見た限りでは。
「……私より強いんじゃ」
「何か言った?」
「何でもありません」
実戦経験の乏しい自分と比べること自体が間違っている気もする。それでも、少し離れた場所で話すガルドと受付嬢の声が聞こえてきた。
「どうでした?」
「身体能力だけなら問題ねえ」
「だけなら?」
「むしろ問題があるくらいだ」
「というと?」
「力も反応も、あの見た目から想像する水準じゃねえ。格闘も剣も素人じゃない」
「では登録は?」
「止める理由はねえな」
ガルドはそこで声を低くした。
「ただし、あの子が強いからって、最初から討伐依頼を回すな」
「もちろんです」
「この世界の常識がねえ。魔物の種類も知らねえ。地理も読めねえ。文字も読めねえ」
「そうですね」
「戦えることと、冒険者として生き残れることは別だ」
受付嬢が頷く。
「最低ランクから通常通り経験を積ませます」
「それがいい」
リネットはその会話を聞きながら、杏々の方を見た。確かに杏々は強い。だが、今日もギルドへ来る途中で屋台に三回寄っている。一人で森へ出したら、食べ物を追いかけてどこまで行くか分からない。
別の意味で、ものすごく危険な気がしてきた。
◆
「お待たせしました」
ギルド内へ戻ると、受付嬢が杏々へ金属製の小さな札を差し出した。昨日見せられたものと同じ形だが、今度は表面に杏々の名前といくつかの記号が刻まれている。
「こちらが冒険者証です」
「おー」
杏々が両手で受け取る。
「これで冒険者?」
「はい。今日から正式に冒険者として登録されます」
「やった」
杏々は冒険者証を眺めた。何が書いてあるのかは読めない。
「何て書いてる?」
「杏々さんの名前と登録地、それから現在のランクですね」
リネットが横から覗き込む。
「一番下?」
「登録したばかりですからね」
受付嬢が頷いた。
「適性確認の結果は良好でしたが、ランクは実績で上がるものです」
「赤角牛は?」
「まだ無理です」
「そっか」
杏々は残念そうに冒険者証を見つめた。
「では、最初の依頼を選びましょうか」
「魔物?」
「まだ討伐はおすすめしません」
「えー」
「戦闘能力があることは確認できました。でも、杏々さんはこちらの魔物についてほとんど何も知りませんよね?」
「知らない」
「街の外の地理は?」
「知らない」
「危険な植物は?」
「知らない」
「毒を持つ魔物は?」
「知らない」
「なら、まずは外で活動すること自体に慣れてください」
「なるほど」
今度は素直に納得した。
受付嬢は新人向けの依頼がまとめられている掲示板へ移動した。
「例えば、街道周辺の清掃、指定された木の実の採集、配達。それから――」
受付嬢は一枚の依頼書を外した。
「薬草採取ですね」
「薬草」
「王都北側の森の浅い場所で採れる薬草です。危険度は低く、新人冒険者の定番依頼ですよ」
杏々が紙を見る。もちろん読めない。
「何取るの?」
受付嬢は机の下から乾燥させた植物を一本取り出した。細長い葉の根元近くに、白い模様がある。
「これです。これと同じものを十株以上。根を傷つけないように採取してください」
杏々は薬草を鼻へ近づけ、匂いを嗅いだ。
「食べれる?」
受付嬢が一瞬止まる。
「薬草ですから、食用ではありません」
「そっか」
「絶対に勝手に食べないでください」
リネットが横から念を押す。
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「杏々さん!」
受付嬢が笑った。
「森には食べられる木の実や山菜もありますよ」
「ほんと?」
「ただし、食べられるか分からないものは絶対に口にしないこと」
「うん」
「魔物を見つけても、依頼と関係なければ無理に戦わないこと」
「うん」
「指定された範囲より奥へ行かないこと」
「うん」
リネットが杏々をじっと見る。
「……なんで私を見るの?」
「絶対に奥へ行きそうだからです」
「行かないよ」
「本当に?」
「たぶん」
「やっぱり!」
受付嬢が依頼書を杏々へ差し出した。
「それでは、受注しますか?」
杏々は紙を見た。何も読めない。それでも、初めて自分で受ける仕事だった。
「やる」
「承りました」
受付嬢が依頼書へ印を押す。
「杏々さんの、冒険者として最初の依頼ですね」
「おー」
杏々は少し嬉しそうに冒険者証を見た。
「明日行く?」
リネットが尋ねる。
「今日じゃダメ?」
「もう午後です!」
「まだ明るいよ」
「森から帰ってくる時間まで考えてください!」
「そっか」
「それに最低限の準備も必要です。採取袋、地図、水、非常食――」
「非常食」
杏々が反応すると、リネットはすぐに声を上げた。
「そこだけ反応しない!」
その声がギルド内に響き渡った。
◆
王城へ戻る途中、杏々は首から下げた冒険者証を何度も見ていた。
「そんなに嬉しいですか?」
「うん」
「文字は読めないのに?」
「私のだもん」
「……そうですね」
リネットは少し笑った。
「明日は初仕事なんですから、今日は早めに休んでくださいね」
「分かった」
「あと、森では絶対に私の――」
そこまで言って、リネットは口を閉じた。
「どうしたの?」
「いえ」
何かがおかしい。リネットは杏々に、自分の話をちゃんと聞いてほしいと言おうとした。しかし、危うく「私のそばを離れないでください」と口にするところだった。
明日は自分も仕事がある。王宮魔術院の見習いであるリネットが、杏々の冒険者活動に毎回付き添うわけにはいかない。そもそも、ギルドからも新人向けの安全な採取依頼だと説明されている。杏々には想像以上の身体能力もあるし、森の浅い場所なら小型魔物に遭遇する可能性こそあるものの、大きな危険はないはずだった。
「リネットちゃん?」
「大丈夫ですよね」
「何が?」
「明日、一人でも」
「大丈夫だよ」
杏々は即答した。
それでも、リネットはまったく安心できなかった。
「ちゃんと薬草取ってくる」
「はい」
「森の奥行かない」
「はい」
「知らないもの食べない」
「そうしてください」
「魔物も無理に追いかけない」
「完璧です」
「お腹すいたら帰る」
「それが一番安心かもしれません」
ようやく少しだけ肩の力を抜いたリネットの横で、杏々は王都の外に見える森へ視線を向けていた。
「森かあ」
元の世界でも、知らない場所を歩くのは好きだった。知らない道、知らない景色、そして知らない食べ物。
「楽しみ」
「……何がです?」
「明日」
杏々が笑う。
リネットはその顔を見て、やっぱり少しくらい様子を見に行った方がいいのではないかと考え始めた。
杏々の冒険者としての最初の仕事は、ただ薬草を十株採って帰ってくるだけの、新人向けのごく簡単な依頼だ。少なくとも、このときのリネットはそう思っていた。




