今度こそ蟹
翌朝、冒険者ギルドの掲示板には、昨日までなかった紙が何枚か増えていた。
「…………」
杏々は掲示板の前に立ち、じっと依頼書を眺めている。文字はまだほとんど読めないが、その中に知っているものを見つけた。
「採取」
読めた。
「お」
その隣には、さらに見覚えのある文字がある。
「肉」
これも読める。
しかし、別の紙に書かれた文字の前で、杏々は首を傾げた。
「危……」
「危険、です」
後ろから、いつもの受付嬢が答える。
「きけん」
「はい。覚えておいてください」
受付嬢は依頼書ではなく、掲示板の端に貼られた注意書きを指した。
「これは?」
「北の森?」
「正解です」
昨日、森爪熊に関する警戒段階は一つ下げられた。とはいえ、北の森が元通りになったわけではない。
「旧初心者区域の一部だけ、今日から条件付きで再開します」
「入れる?」
「指定された区域だけです」
「赤露実ある?」
「あると思いますけど、今日はそこではありません」
「違うの?」
「それより、こちらも覚えてください」
受付嬢は注意書きの別の部分を指した。
「禁止」
「きんし」
「はい」
「ダメってこと?」
「そうです」
「危険」
「危ない」
「禁止」
「ダメ」
「完璧です」
「読めた」
「二文字ずつですけどね」
「増えた」
「食べ物以外の文字も、やっと増えましたね」
「大事?」
「ものすごく大事です!」
◆
杏々は掲示板へ戻り、依頼書を見上げた。
「で、今日何ある?」
「せっかく文字を教えた直後なのに……」
受付嬢は苦笑しながら、依頼書を何枚か確認する。
「北側は再開初日なので、採取経験のある冒険者を優先しています」
「私やったよ」
「杏々さんも経験はありますが」
「薬草」
「はい」
「赤露実」
「はい」
「熊」
「それは採取経験ではありません」
「そっか」
「今日は別の依頼にしませんか?」
「何?」
「南東農地の用水路清掃です」
「前やった」
「覚えていましたか」
「蟹いた」
受付嬢の手が止まった。
「……そこですか」
「水泥蟹」
「はい。いましたね」
以前、用水路の点検へ行ったとき、杏々は水泥蟹を見つけた。しかし、その直後に森爪熊の幼獣と遭遇したため、結局一匹も持ち帰れなかった。
「食べれなかった」
「随分前のことなのに、まだ覚えていたんですね」
「ご飯だから」
「でしょうね」
受付嬢は依頼書へ目を落とした。
「ちょうど今回の依頼には、水泥蟹の駆除も含まれていますよ」
「ほんと?」
「用水路の一部で増えすぎているそうです」
「いっぱい?」
「農家さんからすると、困るくらいには」
「食べていい?」
「捕獲した分については、依頼主が不要と判断したものなら持ち帰り可能です」
「やる」
「まだ説明が――」
「聞く」
「……成長しましたね」
「今日三回くらい言われそう」
◆
今回の依頼は、用水路の泥さらいと水草の除去、それから水泥蟹の捕獲だった。
「何で蟹捕るの?」
「巣穴を作るからです」
受付嬢が説明する。
「水路の土壁に穴を掘りすぎると、崩れることがあるんですよ」
「食べるためじゃない?」
「結果的に食べる人もいますけど」
「おいしい?」
「私は食べたことがありません」
「じゃあ調べる」
「何を?」
「味」
「そこは仕事が終わってからにしてくださいね」
◆
南東農地へ着くと、以前会った農夫が杏々を見て、少し驚いた顔をした。
「また嬢ちゃんか」
「うん」
「前は大変だったな」
「熊いた」
「ああ」
「あの熊、今ご飯あるよ」
「本当か?」
「北の方」
農夫は少し安心したように息を吐いた。
「そりゃよかった」
「今日は蟹」
「ああ。そっちだ」
案内された用水路は、以前よりも水草がかなり増えていた。
「いっぱい」
「放っておいたからな」
「なんで?」
「森爪熊騒ぎで、この辺りも一時作業を減らしてたんだよ。その間に水草が増えて、蟹も増えた」
「蟹どこ?」
「仕事より先に聞くな」
◆
今日、杏々と一緒に作業するのは二人の農作業員と、以前森猪の討伐依頼で組んだ槍使いの青年、レオルだった。
「レオル」
「おう」
「また一緒」
「俺もそう思った」
「蟹好き?」
「普通」
「食べたことある?」
「あるぞ」
「おいしい?」
「そこそこ」
「そこそこ」
「期待した顔するなよ」
「いっぱい食べたら?」
「味は変わらんだろ」
レオルはため息をついた。
「俺は水路の土砂運び担当だ。お前は?」
「いっぱい持つ」
「聞いた俺が馬鹿だった」
◆
作業を始める前に、上流側の水門を少し閉じる。水位が下がると、用水路の底が見えた。
「おー」
泥や石、水草に混じって、水泥蟹の姿も見える。
「いた」
杏々が指を差した。
茶褐色の水泥蟹が、手のひらほどの大きさで泥の中に半分埋まっている。
「まだ捕るなよ」
レオルが言う。
「なんで?」
「まず水草だ」
「逃げるよ?」
「逃げても水路からは出ねえよ」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん」
「お前に言われると腹立つな」
◆
水草を抜き、束ねて運ぶ。杏々が大きな束を持ち上げると、レオルが荷車を指した。
「これ、どこ?」
「荷車だ」
「うん」
杏々は水草の束を荷車へ置くと、すぐに振り返った。
「次」
「早えな……」
レオルは泥を掻き出しながら呟いた。
「森猪を背負ってたの、やっぱり見間違いじゃなかったんだな」
「見てた?」
「ギルドで」
「みんな見てる」
「そりゃ見る」
「有名やだ」
「熊を素手でどうにかして、森猪を背負って歩いてたら無理だろ」
「熊は素手でどうにかしてないよ」
「向きを変えたんだろ?」
「うん」
「それをどうにかしたって言うんだよ」
◆
水草を半分ほど除去すると、農夫が大きな籠を持ってきた。
「よし。ここから蟹も捕ってくれ」
「やった」
「急に元気になったな」
「ずっと元気だよ」
農夫は籠と厚手の手袋、それから短い挟み具を杏々へ渡した。
「これ使う?」
「素手でもいいが、挟まれるぞ」
「痛い?」
「痛い」
杏々は少し考えてから、手袋をはめた。
「手袋する」
「そこは慎重なんだな」
「手痛いとご飯困る」
「理由が一貫してる」
◆
一匹目の水泥蟹を見つけると、レオルが声をかけた。
「ゆっくりな」
水泥蟹は横へ逃げる。
「速い」
「蟹だからな」
「こっち」
杏々が進路へ手を置くと、反対側へ回ったレオルが蟹の逃げ道を塞いだ。
「俺もやんの?」
「逃げる」
「はいはい」
二人で挟み込むと、杏々が挟み具で蟹を捕まえた。
「取れた」
「一匹」
籠へ入れる。
「次」
「楽しそうだな」
「うん」
二匹、三匹、四匹と捕まえていく。
「いっぱい」
「まだいるぞ」
「やった」
「農家からすると喜べねえんだけどな」
◆
しばらくして、杏々は泥の中へ手を伸ばしかけた。
「ここ穴ある」
「蟹の巣だ」
「いる?」
「手を入れるなよ」
「入れないよ」
「本当に?」
「危険」
「お」
「禁止」
「……昨日まで読めなかった奴とは思えんな」
「今日覚えた」
「今日!?」
杏々は挟み具を穴へ近づけた。
「どうする?」
「餌を使う」
農夫が小魚の切れ端を渡す。
「ご飯」
「蟹のな」
「私のじゃない?」
「食うなよ」
「食べないよ」
小魚を穴の前へ置き、しばらく待つ。杏々はじっと穴を見つめていたが、やがて小さく呟いた。
「遅い」
「待て」
「お腹すく」
「お前がかよ」
そのとき、穴の奥から鋏が伸びてきた。
「来た」
「まだだ」
さらに身体が出てくる。
「今」
杏々は挟み具を動かし、水泥蟹を捕まえた。
「取れた」
「うまいじゃん」
「ご飯に釣られた」
「その言い方だと、お前にも効きそうだな」
「効くよ」
「即答するな」
◆
午前中だけで、籠はかなり重くなった。
「何匹?」
「二十七」
レオルが答える。
「数字読める?」
「二と七は分かる」
「妙なところだけ進歩してんな」
「いっぱい?」
「十分多い」
「全部もらえる?」
「農家に聞け」
杏々はすぐに農夫へ向き直った。
「食べていい?」
「まだ仕事終わってねえぞ!」
◆
昼は、畑の脇で持参した食事を食べた。パンに茹で卵、葉野菜、それから焼いた岩鳥が並ぶ。
「蟹ない」
「まだ生きてるだろ」
レオルが呆れたように言う。
「お昼に食べれると思った」
「いつ料理するんだ」
「火ある?」
「そういう問題じゃない」
杏々はパンを食べながら、レオルへ尋ねた。
「水泥蟹どう食べた?」
「茹でたやつ」
「そのまま?」
「ああ。殻を割って中身を食う」
「おいしい?」
「そこそこ」
「さっきも言った」
「そこそこなんだから仕方ねえだろ」
「他ない?」
「酒場だと揚げる店もあるな」
「揚げる」
「小さいやつなら殻ごといけるらしい」
杏々の目が変わった。
「それ」
「嫌な予感がする」
「今日それ食べる」
「やっぱり」
◆
午後も泥さらいと水草の除去、それから蟹捕りを続けた。
「こっち崩れてる」
杏々が指差したのは、水路の壁だった。小さな穴がいくつも開き、一部の土が崩れている。
「蟹?」
「そうだ」
農夫が頷く。
「増えすぎると、こうなる」
「食べれば減る」
「嬢ちゃん基準だと、全部それで解決するな」
「ダメ?」
「今回は合ってる」
「やった」
◆
作業の終盤、レオルが杏々を呼んだ。
「こっち」
「何?」
「大きいのがいる」
「どこ?」
泥の陰に、今日見た中で一番大きな水泥蟹がいた。
「おー」
「鋏もでかい。挟まれるなよ」
「分かった」
杏々は手袋を確認すると、蟹を見据えた。
「こっちから追う」
「俺は反対?」
「うん」
「……いつの間にお前が仕切ってんだ」
「ダメ?」
「いや」
レオルが笑う。
「ちゃんと考えてるならいい」
二人で逃げ道を塞ぐと、水泥蟹が横へ逃げた。
「そっち」
「分かってる」
レオルが反対側へ回り、蟹を杏々の前へ追い込む。
「こっち」
最後に杏々が挟み具を動かした。
「今」
甲羅をしっかり挟む。
「取れた」
「おお」
「大きい」
「今日一番だな」
杏々は満足そうに籠へ入れた。
「これ私食べる」
「もう決めてるのか」
◆
夕方、依頼は無事に完了した。水草を取り除き、泥をさらい、崩れた巣穴を補修し、捕獲した水泥蟹を数える。
「全部で四十一匹」
農夫が数え終える。
「いっぱい」
「ああ。想像よりいたな」
「また増える?」
「多少はな」
「全部取らない?」
「全部取ったら、それはそれで困る」
「なんで?」
「こいつらも、水路の中の虫や腐った植物を食う」
「掃除する?」
「そういう役目もある」
「じゃあ取りすぎダメ」
「そうだ」
「薬草と一緒」
「何が?」
「次なくなる」
「……まあ、近い」
杏々は籠を見た。
「でも今は多すぎ」
「そういうことだ」
「難しいね」
「何でも適量ってもんがある」
「ご飯も?」
農夫は黙って杏々を見た。
「嬢ちゃんには言っても無駄そうだな」
「いっぱい食べるよ」
「だろうな」
◆
「で」
杏々が尋ねる。
「蟹もらえる?」
「ああ」
「ほんと?」
「全部は無理だぞ」
「なんで?」
「何匹かは水路の別区画へ移す。あとは市場へ売る分もある」
「私のは?」
「十匹持ってけ」
「十」
「十分だろ?」
杏々は少し考えた。
「大きいの入れていい?」
「好きに選べ」
「やった」
杏々は今日一番の大物を籠へ入れ、それから比較的小さなものを選んだ。合計十匹になったところで、レオルが尋ねる。
「何で大小分けてる?」
「茹でるのと揚げるの」
「もう料理を決めてるのか」
「うん」
◆
ギルドへ戻ると、受付嬢が出迎えた。
「お帰りなさい」
「蟹取れた」
「依頼の報告より先にそこですか」
「四十一匹」
「そんなに?」
「十匹もらった」
「嬉しそうですね」
「今日食べる」
「ちゃんと依頼も達成していますよね?」
「したよ」
レオルが横から依頼票を渡した。
「問題なし。むしろ働きすぎだ」
「なるほど」
「あと」
レオルは少し考えてから続けた。
「こいつ、普通に連携できるな」
「今さらですか?」
「俺、森猪以来だったからな」
「ああ」
「もっと一人で全部やる奴かと思ってた」
「ギルドでも最初は心配しましたよ」
「ダメって言われたらやらないよ」
杏々が言う。
「最近はね」
受付嬢が返した。
「最近?」
「何でもありません」
◆
「そういえば」
受付嬢が一枚の紙を取り出した。
「北の森の再開区域について、今日正式に決まりました」
「入れる?」
「明日からです」
「赤露実?」
「採取依頼も出ると思います」
「やった」
「ただし」
受付嬢は紙に書かれた太い文字を指した。
「これ」
「危険」
「正解」
次の文字を指す。
「禁止」
「ダメ」
「意味も正解です」
「読める」
「再開区域には、新しい標識を置いています。『危険』『立入禁止』だけでも、自分で分かるようになってください」
「分かった」
「依頼票を全部読めなくても、命に関わる文字は先に覚えましょう」
「うん」
「食べ物の文字より?」
「優先してください!」
「…………」
「杏々さん?」
「同じくらい」
「譲りませんね……」
◆
その頃、王宮魔術院では、リネットが地図へ新しい印をつけていた。
「南東農地」
続いて、西側丘陵へ印をつける。
「南部林」
さらに別の場所へ印をつけた。
「何してる?」
先輩術師が尋ねる。
「比較地点を増やしています」
「北の森ではなく?」
「北だけを見ていても、それが本当に異常なのか分かりませんから」
魔力濃度、薬草、魔物、植物。北の森中央部では魔力が下がり、北西の沢では比較的多く残っている。ならば、王都周辺の問題が起きていない地域ではどうなのかを調べる必要がある。
「正常な場所ではどうなっているのか、基準を作るんです」
「南東農地は?」
「農業用調整柱があるので、自然環境との比較には向きません」
「なら、何で印をつけた?」
「設備利用区域の基準です。西側丘陵と南部林は、自然区域の比較対象にします」
「やっと研究らしくなってきたな」
「最初から研究です!」
「菓子屋の砂糖の帳簿を読んでいた奴が言うと、説得力がないな」
「重要な資料だったんです!」
◆
夜、王都の小さな食堂で、杏々の前には二皿の料理が並んでいた。
「おー」
一皿目は、大きめの水泥蟹を塩茹でしたものだった。赤茶色に変わった甲羅から湯気が立っている。もう一皿には、小ぶりの水泥蟹を殻ごと揚げたものが盛られていた。
「こっちから」
杏々は揚げた蟹を一つ持ち上げる。
「熱い」
「気をつけてください」
向かいにはリネットが座っている。
「いただきます」
杏々が齧ると、殻が小さく音を立てた。
「どうです?」
「おいしい」
「本当ですか?」
「食べる?」
「……一つだけ」
リネットも小さな蟹を一つ手に取った。
「いただきます」
齧った瞬間、目を少し見開く。
「……あ」
「おいしい?」
「香ばしいです」
「でしょ」
薄い殻に塩と油の風味が絡み、噛むほどに蟹の旨味が広がる。
「こっちも」
杏々は大きな蟹へ手を伸ばし、殻を割った。
「中少ない」
「水泥蟹は小さいですからね」
「でも甘い」
「身が?」
「うん」
「どっちが好きです?」
杏々は揚げ蟹と茹で蟹を交互に食べ、少し考えてから答えた。
「両方」
「言うと思いました」
◆
「今日」
杏々が蟹を食べながら言った。
「危険と禁止覚えた」
「本当ですか?」
「うん」
「それはすごいですね」
「明日、北の森入れる」
「それが目的ですか?」
「赤露実」
「やっぱり」
「でも」
「?」
「禁止ってあったら行かないよ」
リネットが少しだけ笑った。
「はい」
「危険も」
「近づかないでくださいね」
「うん」
「読めなかった頃より、少し安心できます」
「えらい?」
「えらいです」
「今日言われた」
「何回目です?」
「分かんない」
「数字も勉強しましょうね」
「…………」
「杏々さん?」
「蟹食べよ」
「逃げましたね」
◆
北の森で、森爪熊の問題はひとまず落ち着いた。警戒区域も少しずつ狭くなり、杏々の日々にも、採取や討伐、食べ物探しといった普通の冒険者らしい仕事が少しずつ戻ってきた。
けれど、その裏では、リネットたちが北の森以外の土地を新しく測り始めていた。異常を知るには、普通を知らなければならない。
そして杏々は、まだしばらく蟹の方が気になっていた。
「これ、もう一皿いける?」
「十匹しかないでしょう!」
「市場で買えるかな」
「今日捕った意味!」




