森猪を食べたい
翌朝、杏々は冒険者ギルドの掲示板の前に立っていた。壁には依頼書が何枚も並んでいるが、文字はまだほとんど読めない。それでも、一枚の依頼書に見覚えのある単語を見つけた。
「肉」
その下にも、最近リネットに教えてもらった文字がある。
「……森?」
さらに、その隣には昨日覚えたばかりの文字が続いていた。
「猪?」
「森猪」
杏々が呟くと、横から受付嬢の声が返ってきた。
「正解です」
「おはよ」
「おはようございます。ずいぶん読めるようになりましたね」
「食べ物だけ」
「でしょうね」
受付嬢はもう驚かなかった。
「これ、森猪?」
「はい」
「食べられる?」
「はい」
「昨日より大きい?」
「角兎よりはかなり大きいですね」
杏々の目が少し輝く。
「いっぱいお肉」
「そこですか」
「これやる」
「まだ内容を読んでいませんよ」
「教えて」
「もちろんです」
受付嬢は依頼書を掲示板から外し、内容を読み上げた。
「王都南西の農地で、森猪が畑を荒らしています。確認されているのは二頭で、芋畑を掘り返しているそうです」
「芋」
「はい」
「食べられちゃう」
「かなり食べられていますね」
「それ困る」
「でしょう?」
「猪も食べる」
「両方とも食べ物として処理しようとしないでください」
◆
森猪は、杏々にとって王都へ出た初日に串焼きで食べた魔物だった。
「あの串のお肉?」
「そうですよ」
「おいしかった」
「覚えているんですね」
「食べ物だから」
「知っていました」
依頼書には、森猪二頭の排除、討伐した場合は牙を証明として持ち帰ること、可能であれば肉や皮も回収することが記されていた。
「排除?」
「必ずしも討伐でなくてもいいということです」
「追い払っても?」
「今回の依頼では達成扱いになります。ただ、森猪は一度食べ物の場所を覚えると、何度も戻ってくることが多いんです」
「また芋食べに来る?」
「はい」
「じゃあ倒した方がいい?」
「状況次第ですね」
受付嬢は依頼書を見ながら続けた。
「それと、この依頼は杏々さん一人では受けられません」
「ランク足りない?」
「森猪自体は条件付きで受けられます。ただ、今回は二頭確認されていますから、複数を相手にする場合は最低でも二名以上での受注が条件です」
「二匹」
「そうです」
「セリア?」
「今日は別の依頼です」
「そっか」
杏々が少し考えていると、受付嬢が彼女の後ろへ視線を向けた。
「ちょうど一人、同じ依頼を見ていた方がいますよ」
「?」
「おい」
低い声が聞こえ、杏々が振り返ると、二十歳くらいの若い男が立っていた。短い黒髪に革鎧、背中には槍を背負っている。
「……俺と組むのか?」
「誰?」
「第一声それかよ」
男の顔が少し引きつった。
「レオルです」
受付嬢が代わりに紹介する。
「杏々さんと同じく、最近一つ上のランクへ昇格した冒険者です」
「同じ」
「登録自体は俺の方がずっと先だけどな」
「そうなの?」
「半年やってる」
「長い?」
「お前と比べたらな」
レオルは杏々をじっと見た。
「噂は聞いてる」
「熊?」
「熊」
「まただ」
「森爪熊を素手で止めたっていう」
「止めてないよ」
「じゃあ何したんだ?」
「ちょっと向き変えた」
「それを止めたって言うんじゃねえのか……?」
◆
「組む?」
杏々が尋ねると、レオルは依頼書へ目を落とした。
「……俺としては構わない。森猪二頭なら、俺一人じゃ受けられないし」
「私も」
「お互い都合がいいってことか」
「うん」
レオルは少し真面目な顔になった。
「ただし、森爪熊をどうにかできるくらい強くても、勝手に突っ込むなよ」
「しないよ」
「本当に?」
「依頼は二人でやるんでしょ?」
「……そうだけど」
「じゃあ一緒にやる」
あまりにも普通に返され、レオルの方が少し戸惑った。
「何?」
「いや、もっと変な奴かと思ってた」
「失礼」
「ごめん」
「食べれる?」
「何が?」
「森猪」
「その質問で全部台無しだな」
◆
南西門を出ると、二人は農地へ向かって歩き始めた。今日はリネットはいない。
「リネットちゃんは?」
杏々が受付嬢に尋ねたところ、『今日は魔術院のお仕事です』と答えられたのだ。
「いつも誰かついてくるわけじゃないんだな」
レオルが言う。
「うん」
「魔術院の人なんだろ?」
「リネットちゃん?」
「ああ」
「そう」
「何で冒険者の仕事についてくるんだ?」
「心配らしい」
「…………」
「何?」
「いや。分かる気がした」
「なんで?」
「なんとなく」
二人は街道を歩く。杏々の腰には昨日買った細身の片手剣があり、レオルの背には長い槍があった。
「それ使うの?」
杏々が槍を見る。
「ああ」
「長いね」
「槍だからな」
「動かしにくくない?」
「慣れだよ」
「ふーん」
「そっちは?」
「ちょっと使いにくい」
「昨日買ったばっかりなんだろ?」
「うん」
「もう文句あるのかよ」
「先遅い」
「……噂通り変な奴かもしれない」
◆
依頼場所の芋畑へ着くと、レオルが荒らされた畑を見回して呟いた。
「ひどいな」
地面はあちこち掘り返され、葉は倒れ、土玉芋に似た芋がいくつも転がっている。半分齧られたものや踏み潰されたもの、掘り出されただけで放置されたものまであった。
「食べられてる」
「ああ」
「もったいない」
杏々の声が低くなる。
「怒ってる?」
「いっぱい残してる」
「猪だからな」
「食べるならちゃんと食べてほしい」
「魔物相手に食事の作法を求めんなよ」
そこへ畑の持ち主らしい農夫が近づいてきた。
「ギルドの冒険者か?」
「はい」
レオルが冒険者証を見せる。
「森猪ですね?」
「ああ。昨晩も来やがった。二頭だ」
「大きさは?」
「一頭は普通の成獣で、もう一頭は少し小さい」
「親子?」
「分からん。見えたのは暗くなってからだったからな」
「どっちから来た?」
杏々が尋ねると、農夫は向こうの林を指した。
「芋持って帰った?」
「ん?」
「食べたあと」
「……いや、その場で食ってたと思うぞ」
「じゃあ近くにいるかな」
レオルが杏々を見る。
「何で?」
「寝るところが遠かったら、食べ物を持って帰りそう」
「猪は普通、そういうことしないぞ」
「しないの?」
「少なくとも森猪は、その場で食うことが多い」
「そっか」
「でも、夜ごと来てるなら、遠くない場所を根城にしてる可能性は高い」
「じゃあ探す」
◆
昨日、杏々は角兎の痕跡を追った。今日は、もっと分かりやすい痕跡が残っていた。
「ここ」
杏々が地面を指す。そこには大きな足跡があった。
「森猪だ」
レオルが頷く。
「覚えておけ」
「丸い」
「蹄が二つに割れてるだろ」
「うん」
少し先には泥が残っていた。
「身体擦った?」
「知ってるのか?」
「猪って泥浴びするよ」
「普通の猪もいるのか、お前の故郷」
「いる」
「魔物じゃない?」
「違う」
「……魔物じゃない猪って何だ?」
杏々は首を傾げた。
「猪は猪だよ?」
「俺たちの方が変なのか……?」
答えは出なかった。
◆
二人は林の中へ入った。北の森とは違い、ここは小さな雑木林で、奥まで見通せる。
「杏々、森猪は角兎と違う」
「大きい」
「それもある」
レオルが槍を構えた。
「突進力が強い。牙もある。正面から受けるな」
「避ける」
「お前ならそうするだろうけど」
「レオルは?」
「槍で進路をずらす」
「私と同じ」
「お前は手でやるだろ!」
「剣もあるよ」
「剣を使え!」
林の奥で、がさりと音がした。二人が足を止める。
「いた?」
「静かに」
今度はレオルが先に気づいた。木々の隙間に茶色い身体が見える。
「一頭」
「大きい方?」
「たぶんな」
成獣の森猪は、体高が杏々の腰より高く、ずんぐりした身体の口元から二本の牙を覗かせていた。
「おー」
「感心してる場合か」
「串より大きい」
「料理後と比べるな」
森猪はまだこちらに気づいておらず、地面を鼻先で掘っている。
「どうする?」
杏々が聞く。
「まずもう一頭の位置を確認する」
「近くにいるかも?」
「ああ」
「なるほど」
二人が周囲を見回し、耳を澄ます。杏々が少し上を見た。
「何してる?」
「聞いてる」
「何が聞こえる?」
「右」
「右?」
「枝」
レオルも耳を澄ますと、かさりと小さな音が聞こえた。
「……本当だ」
二頭目は少し小さい。
「いた」
「どうする?」
「俺が大きい方を引く」
「私、小さい方?」
「逆がいいか?」
「どっちでもいいよ」
「……そう言うと思った」
レオルは苦笑した。
「じゃあ小さい方を頼む。ただし、大きい方が俺を抜けたらそっちも注意しろ」
「うん」
「俺もお前の方を見る」
「うん」
「無理なら離れる」
「うん」
「……聞き分け良すぎて逆に怖いな」
「セリアにも言われた」
「やっぱり?」
◆
レオルが槍の石突きで地面を叩いた。
こん、と乾いた音が響き、森猪が顔を上げる。
「こっちだ!」
大きい個体がレオルを見ると、地面を蹴って一直線に突っ込んできた。
「来い!」
レオルは槍を前へ出したが、刺すことはせず、穂先を肩口へ当てながら身体ごと横へ動いた。突進の方向をずらされた森猪が、レオルの横を抜けていく。
「うまい」
杏々が呟く。
「見てる場合か!」
「あ」
小さい方が杏々へ向かっていた。
「来た」
「杏々!」
「大丈夫」
杏々は剣を抜いた。森猪の突進は角兎より明らかに重い。半歩だけ横へずれ、剣先を牙の外側へ添えて流そうとしたが、勢いが強く、剣だけでは完全に逸らしきれなかった。
「重い」
杏々は身体を回し、森猪の肩を横から蹴った。
どん、と音が響き、森猪が地面を転がる。
「ブギィッ!」
土が舞った。
レオルが一瞬そちらを見る。
「蹴るのかよ!」
「剣だけだと遅い」
「何のために買ったんだ!」
「補助?」
「俺に聞くな!」
◆
転がった森猪はすぐに起き上がった。
「硬い」
杏々が言う。
「毛と脂で防御力がある!」
レオルが大きい個体を牽制しながら叫んだ。
「首か脇! 腹側を狙え!」
「なるほど」
小さい森猪がもう一度突進してくる。杏々は今度は正面から受けず、森猪の横へ低く入り込んだ。
「ここ」
剣が脇を走る。
「ブギッ!」
森猪が崩れた。
「できた」
「だから戦闘だけ見ると本当に新人じゃねえんだよ!」
レオル側の大きな森猪は、槍で何度も牽制されているものの、まだ仕留め切れていなかった。
「杏々!」
「なに?」
「そっち終わったなら――」
大きな森猪が急に向きを変え、杏々へ突進してきた。
「そっち行った!」
「うん」
「気をつけろ!」
杏々は剣を構えたが、一瞬だけ迷った。今の位置では、剣先が少し遅い。
「じゃあ」
杏々は剣を鞘へ戻した。
「なんでしまう!?」
レオルが叫ぶ。
杏々は森猪の正面へ一歩踏み出した。
「危な――」
突進の直前、身体を斜めへ滑らせて牙を避け、左手で頭を押さえ、右手で肩を掴む。身体を沈め、森猪の力を下へ、そして横へ流した。
「よいしょ」
森猪の前脚が地面から浮き、巨体が横へ倒れる。
どん、と地面が揺れた。
「…………は?」
レオルが固まる。
「今、投げた?」
「ちょっとだけ」
「猪を!?」
「うん」
「森猪を!?」
「うん」
「何で!?」
「その方が早かった」
「剣使えよ!」
「あとで使う」
◆
森猪が起き上がろうとする。杏々は今度こそ剣を抜き、倒れた身体の首元へ刃を向けた。
「ここ?」
「そこ!」
レオルの声に合わせて刃が走り、森猪の身体が止まった。
「終わり?」
杏々が聞くと、レオルはしばらく何も言わなかった。
「レオル?」
「……終わり」
「よかった」
「いや、よくない」
「?」
「俺、自分の仕事した?」
「大きいの止めてた」
「でも最後、ほぼお前一人じゃん」
「二人でやったよ」
「…………」
杏々は普通に言った。
「私が小さいのをやってる間、大きいのは来なかったし」
「それは……」
「レオルが止めてたからでしょ?」
「まあ」
「じゃあ二人」
「…………」
レオルは少しだけ笑った。
「そういうとこは、まともなんだな」
「失礼」
「ごめん」
◆
二頭の死亡を確認し、血抜きと内臓処理を始める。今回は昨日より大変だった。
「重い」
「そりゃ森猪だからな」
「いっぱいお肉」
「嬉しそうだな」
「うん」
「こいつ一頭で、普通の家なら何日分になると思ってる」
「私なら?」
「…………」
レオルが杏々を見る。
「分からん」
「食べれるかな」
「二頭全部はやめとけ」
「なんで?」
「持ち帰るのが大変だろ」
「持てるよ?」
「…………」
「二匹くらいなら」
「絶対普通じゃねえ」
「でも売ったらお金になる?」
「ああ」
杏々は少し考えた。
「一匹食べる」
「うん」
「一匹売る」
「まともな判断だ」
「売ったお金で別のご飯食べる」
「前言撤回」
◆
問題は運搬だった。レオルが用意していた簡易の引きずり布へ一頭を乗せる。
「これで一頭運ぶ」
「もう一頭は?」
「ギルドへ連絡して回収を頼むのが普通だな」
「時間かかる?」
「そりゃ多少は」
「お肉悪くならない?」
「処理してあるし、今日中なら――」
「持つ」
「え?」
杏々は森猪の前脚と後脚をまとめた。
「待て」
「なに?」
「何する気だ?」
「背負う」
「無理だろ」
「たぶん大丈夫」
「たぶん!?」
杏々が森猪を持ち上げると、ひょいと背中へ乗せた。
「よし」
「…………」
「行こ」
「…………」
「レオル?」
「ちょっと待ってくれ」
「お腹すいた?」
「違う」
レオルは額を押さえた。
「俺の中の冒険者の常識を整理してる」
◆
帰り道、杏々は森猪を背負い、レオルはもう一頭を引いて歩いていた。
「重くないのか?」
「ちょっと」
「その『ちょっと』は信用しねえからな」
「レオルの方、大変そう」
「普通はこっちなんだよ」
「代わる?」
「いい」
「なんで?」
「冒険者としての自尊心が死ぬ」
「よく分かんない」
「分からなくていい」
しばらく歩いたあと、レオルが尋ねた。
「杏々、お前、本当に身体強化を使ってないんだよな?」
「使えないよ」
「魔力ゼロって話も本当?」
「うん」
「……じゃあ、あれ全部素?」
「普通」
「普通じゃない」
「みんな言う」
「そりゃ言う」
レオルはため息をついた。
「でも、昨日まで噂を盛ってると思ってた」
「盛る?」
「大げさに話してるってこと」
「違った?」
「逆だった」
「?」
「森爪熊の話、たぶん全然盛られてない」
「そうだよ」
「そこ堂々と言うんだな……」
◆
王都へ戻り、ギルドの扉を開ける。
「ただいま」
受付嬢が顔を上げた。
「お帰りなさ――」
そこで言葉が止まる。
杏々の背中には森猪が乗っていた。
「二匹倒した」
「それは見ればだいたい分かります」
「一匹、私」
「……背負ってきたんですか?」
「うん」
「どうして?」
「早いから」
少し遅れて、引きずり布を持ったレオルも入ってくる。
「……俺は止めた」
「止めなかったんですか?」
「止めた! でも持った!」
「でしょうね」
「何で受付の人が慣れてるんだよ!」
「色々ありましたから」
◆
依頼報告を行う。
「森猪二体討伐」
「はい」
「農地周辺の痕跡も確認しましたが、他個体の痕跡は少なし」
「うん」
「深追いなし」
「うん」
「怪我なし」
「うん」
受付嬢がレオルを見る。
「同行評価は?」
「……問題なし」
「何です、その間」
「戦い方が問題だらけに見えて、結果は問題ないから困ってる」
「分かります」
「分かるんだ……」
「指示は?」
「聞く」
「連携は?」
「する」
「無茶は?」
レオルが少し考えた。
「……本人基準だと、してない」
「なるほど」
「その表現で分かるのかよ!」
受付嬢は記録を書き込んだ。
「では、正式に依頼達成です」
「やった」
「森猪二体分の討伐報酬に加え、農家からの追加報奨があります」
「追加?」
「畑への被害がかなり大きかったので、早期解決分ですね」
「お金増える?」
「増えます」
「剣代戻る」
「まだそこなんですね」
◆
「一頭売る」
「もう一頭は?」
「食べる」
「全部?」
「うん」
「…………」
受付嬢が杏々を見る。
「何?」
「もう驚かないと決めたんですが」
「うん」
「森猪一頭はかなりありますよ」
「大丈夫」
「そうですか」
受付嬢はあっさり諦めた。
「解体所で部位を分けてもらえば、全部今日食べなくても保存できます」
「保存?」
「塩漬け、燻製、干し肉などですね」
「おー」
「生肉のまま持つより長く保ちます」
「それやる」
杏々の目が輝いた。
「全部違うのにできる?」
「部位ごとなら」
「焼くのも」
「できます」
「煮るのも」
「できます」
「燻製も」
「できます」
「干すのも」
「全部一日では食べられませんよ?」
「大丈夫」
「何が大丈夫なのか分かりません」
◆
その頃、北の森の人里からかなり離れた場所では、数人の冒険者が木々の間に大きな木箱を置いていた。中には、ギルドの解体所から出た魔物肉の端材や、骨周りについた肉、人間用に売るには質の悪い内臓が入っている。
商品としての価値は低くても、森爪熊にとっては十分な食料になる。
「本当に来るか?」
「匂いは強い」
「人間の匂いも残るぞ」
「なるべく触る人数は減らした」
「どうする?」
「監視する。直接姿は見せるな」
冒険者たちは風下へ移動し、息を潜めて待った。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎた頃、がさりと木々が揺れた。
「来た」
木々の向こうから大きな影が現れる。親熊だった。その少し後ろには幼獣が二頭おり、そのうち一頭はまだ少し脚を庇っている。
親熊は箱へ近づくと、匂いを嗅ぎながら周囲を警戒した。長い時間をかけて安全を確かめたあと、ようやく肉を一つ咥える。
「食った」
冒険者が小声で言う。
だが、親熊は自分で食べず、幼獣の前へ肉を置いた。二頭が食べ始め、しばらくしてから親熊も残った肉へ口をつける。
「……やっぱり子供優先か」
「成功だな」
「今日だけならな」
「ああ」
一時的に森爪熊を人里から遠ざけるための時間は、少しだけ稼げた。しかし、森そのものに餌が戻ったわけではない。
◆
夕方、ギルド酒場の杏々の前に大きな皿が置かれた。森猪の厚切り肉を焼いたもので、表面には塩と香草、少量の酒を使ったソースがかかっている。脂がまだ音を立てていた。
「これ」
杏々は匂いを嗅いだ。
「最初に食べた串と一緒?」
「同じ森猪だよ」
料理人が答える。
「ただ、こっちは背中の肉だ。串焼きで使う端肉より柔らかい」
「なるほど」
杏々が一口食べる。表面は香ばしく、中から脂と濃い肉の味が広がった。角兎よりもずっと味が強い。
「おいしい」
「だろ?」
「こっちの方が好きかも」
「森猪は人気あるからな」
「いっぱい取ったら?」
「取りすぎるなよ」
「分かってる」
「お?」
料理人が驚いた。
「前より話が早くなったな」
「次なくなるから」
「その通り」
杏々はもう一口食べた。
「依頼あったらまたやる」
「食いたいから?」
「あと畑守る」
「順番は?」
「…………」
「食いたい方が先だろ」
「どっちも」
「はいはい」
◆
「杏々さん」
食事の途中でリネットがやってきた。
「今日も討伐依頼だったそうですね」
「森猪」
「聞きました」
「食べる?」
「少しなら」
杏々が肉を切り分ける。
「おいしいよ」
「いただきます」
リネットも一口食べた。
「……おいしいですね」
「でしょ」
「それと」
リネットは少し嬉しそうに続けた。
「森爪熊の親子、今日、森の奥に置いた餌を食べたそうです」
杏々の手が止まる。
「ほんと?」
「はい」
「子供も?」
「二頭とも」
「よかった」
杏々は素直に笑った。
「じゃあ人のところ来ない?」
「今のところは」
「今のところ?」
「餌を置き続けるわけにはいきませんから」
「そっか」
「森の中で自分たちで食べ物を取れる状態に戻さないと、本当の解決にはなりません」
「森のご飯戻す」
「はい」
「どうやって?」
リネットは少し困った顔をした。
「それを調べています」
「まだ分かんない?」
「まだです」
杏々は森猪を食べながら尋ねた。
「魔力戻る時間も?」
「それも」
「遅いのかな」
「可能性はあります」
「使いすぎたら?」
リネットの手が止まる。
「……え?」
「ご飯も」
杏々は皿を見る。
「いっぱい取ったら、次なくなるんでしょ?」
「はい」
「魔力もいっぱい使ったら、戻るまでなくなる?」
リネットは答えなかった。
魔力は使っても戻る。それがこの世界では当たり前だった。だが、もし戻る速さよりも使う速さの方がずっと速かったら。
「杏々さん」
「なに?」
「明日、少し調べたいことが増えました」
「また?」
「またです」
「大変だね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「森猪?」
「今回は杏々さんです!」
「私?」
杏々は首を傾げながら、もう一切れ、森猪を口へ運んだ。
北の森で減った魔力。減った小型魔物。そして、人里へ降りてきた森爪熊。それらが少しずつ、一つの線で繋がり始めていた。




