薔薇に想う
とんだ毒花だったのだと誰かが言った。
あの淑やかな容貌に、皆騙されていたのだと。
では私は、騙されるような間抜けな王子であるな、と言ったら。
周囲の声は、いつの間にか静かになったようだった。
あの日、あの夜会の夜。
目の覚めるような赤いドレスを纏って、美しい黒髪のエレオノーラは婚約の辞退を告げた。
その時、彼女の口唇を彩っていたのも、鮮烈な赤色だった。
あの色を思い出す度、ハインリヒはなんとも言えず、落ち着かない気分になる。
そんな身の裡を鎮めるように、自分の首元にそっと手をやる。
指先に触れた、夜会用のシルク地の詰襟が、いつもよりも息苦しいような心地がする。
煌びやかな照明、着飾った姦しい貴族達。
壇上から眺める光景が、あの夜とよく似ているからかもしれない。
「あら、ご覧になって……」
さざめく周囲の視線の先に目をやると、エレオノーラとは似ても似つかない色合いの、ガドリエ兄妹の姿があった。
淡い榛色の髪が美しい二人は、不躾な視線に怯むような素振りは一切見せず、互いに笑みを交わし合いながら、広間の中に進み出て行く。
あの兄妹と同じ色合いの、ガドリエ子爵夫妻の姿はないようだった。
噂では、あの夜以来、夫人は心労で家に籠りがちだという。
ガドリエ子爵家が長女エレオノーラとの婚約は、その一切が、初めから無かったことになった。
そうして無かったことになった以上、ガドリエ家も、ああして何事も無かったように振る舞うしかない。
一国の王子の求婚を撥ね付け、あまつさえ他国の男と出奔した貴族令嬢。
その事実が、無かったことになる訳ではないとしても。
彼らと、自分に向けられている衆目の煩わしさを思って、ハインリヒは、人知れず溜息を吐いた。
夜会に集う、お喋り好きの雀達にとって、さぞ面白い見せ物であることだろう。
ハインリヒは、周囲の視線を一身に浴びながら、ガドリエの次期当主と、その美しい妹と、当たり障りのない挨拶を交わし合う。
互いにこの国の社交界で生きる者同士、挨拶は淀みなく、交わし合う笑みも慣れたものである。
そんな予定調和とも言える邂逅を乱したのは、ガドリエの兄のほうだった。
「殿下、恐れながら申し上げます。義妹エレオノーラの奪還に、どうか力を貸していただきたく」
「お兄様」
兄の腕を掴んで諌める妹を押し留めながら、ガドリエ家嫡男ルーファスは、こちらを真っ直ぐに見つめている。
(こんなにも、愚かな男だったろうか)
求婚していた令嬢に逃げられた当人であるハインリヒに……それも曲がりなりにも王子に対する振る舞いとしては、些か……あるいは破滅が望みなのだろうか。
ガドリエ家からは既に、子爵の名で、エレオノーラの除籍が願い出られている。
問題を起こした子女への措置として、貴族家ではさして珍しいことではない。
ハインリヒに対峙している青年の瞳は、こうして間近で見ると、社交界での評判通り、宝石のように美しい碧色をしている。
黒い髪に黒い目をしていたエレオノーラだけが、彼らと違う色合いなのだった。
(エレオノーラとは……義理の兄妹であったな)
その碧の瞳には、どこか重く燻るような感情が、見え隠れしているような気がする。
おそらく、ハインリヒ自身が、同じ令嬢を憎からず想っていたからこそ、そのことが分かるのだ。
この美しい兄妹の横で、いつも控え目に微笑んでいたエレオノーラ。
そのいつも一歩引いた様子に、貴族家にはよくある、何かしらの事情を感じてはいたものの、もしかするとそれは、もっと違うものだったのかもしれない。
けれどエレオノーラは、何も言わなかった。
この義兄のことも、家族のことも。
ハインリヒが贈った、王宮の庭に咲く白薔薇を手にして、いつもただ、控え目に微笑んでいた。
(……信頼、されていなかったのだな、私は)
あの夜、目撃者の話では、エレオノーラは自ら馬車に乗りこんで行ったのだという。
人攫いや事件の類ではなく、自らの意思で、彼女はこの国を出たのだ。
自分との婚約が嫌だったのだろうか。
この国を、出て行くほどに。
あるいは、一緒だったという男の為なのだろうか。
真相は何一つ、分からないままだ。
そしてきっと、直接問うたところで、真実は語られないだろう。
王子というのが、そういう立場であるということを、ハインリヒも理解している。
王子相手に微笑みながら、彼女は何を思っていたのだろう。
(エレオノーラには、白薔薇が似合うと、ずっとそう思っていた)
けれど、あの夜の。
彼女の赤いドレス姿に。
それが如何に独り善がりだったのかを、思い知ったのだった。
「エレオノーラ嬢の好きな花を、貴兄等は知っているか?」
唐突なハインリヒからの問いかけに、榛色の髪をした青年が、その美しい眉を寄せた。
何を言っているのか、という心情が透けて見えている。
そんな兄の腕に縋っていた少女が、はっとしたようにこちらを仰ぎ見る。
その少女、ミュリエルの瞳も、兄と同じ美しい碧色だった。
「彼女が好きな花は、何だったのだろうな」
エレオノーラとの婚姻が成ったら、義理の兄妹になっていたかもしれない二人。
自分と何ら変わりない彼らの……自分たちの愚かさに、笑い出してしまいそうだった。
彼女が何を思っていたのか、それを知る機会は、もう二度と巡ってくることはないだろう。
エレオノーラが好きだった花一つ、答えられない自分には。
けれど一つだけ、確かな事がある。
要するに、ただ。
(私は彼女に、振られたのだ)
ただ、それだけのことなのだ。
とはいえ、一国の王子である自分は、傷心に浸っていられる立場でもない。
近々別の婚約者を、候補の者達の中から再度、選び直すことが決まっている。
今度は以前より、貴族院の意見を容れた選定になる事だろう。
申し訳なくも、父王には頭の痛い事態になるに違いなかった。
(もし、次の婚約者が決まったら)
今度は一番先に、相手の好きな花を尋ねようと思っている。
新しい婚約者が、王子を目の前にして、真意を語ってくれるのかは、また別の問題だが。
(私に阿り、『白薔薇が好きだ』と、そう言ってくれるかもしれない)
それが始まりで構わないと、ハインリヒは思う。
かつて、初めて白薔薇を手ずから渡した時の、エレオノーラの姿を思い出す。
嬉しそうに綻んだ顔に、僅かに朱が差して、淡く色づいた蕾のようだった。
白薔薇は決して、彼女が好む花ではなかったかもしれない。
けれど、
(あの時の笑みは、決して偽りでは無かった)
ただ、自分が、そんな彼女自身を、ずっと見ていなかっただけなのだ。
だから例え、偽りからだったとしても。
(白薔薇と共に、きっと相手の望む花を贈ろう)
そうしてその花を、愛していこう。
この国を共に、慈しんでいくように。
それが情けない己の、きっと幸福の礎になるだろうと。
胸元に飾った白薔薇にそっと触れて、ハインリヒはそう、思うのだ。




