求婚者は笑う
「貴方との婚約は無かったことにしていただきたいのです」
煌びやかな夜会の場で、一人の令嬢の言葉にさざめく群衆を眺めながら、シルヴィオはそっとほくそ笑んだ。
告げられた当の王子も、離れた場所にいる令嬢の家族らしき者達も、皆一様に驚いた表情をしている。
(自分達が、“選ぶ側”だと思っていたのだろうな)
だからこんな風に、醜態を晒すことになる。
広間を後にして、馬車の手配を確認するため、人気のない回廊を進む。
あと数刻もすれば、エレオノーラと二人、隣国へ向かう馬車に揺られていることだろう。
今となっては、彼女の周囲の男達の、花を手折らなかっただけの分別を、褒めるべきだろうか。
けれど、とシルヴィオは思う。
(水をやらず、心の内でどんなにか愛でたところで)
美しい花は、咲くことすら叶わないのだ。
「シルヴィオ、部屋にまた、見慣れないドレスが増えていたのだけれど?」
眉を寄せたエレオノーラが、こちらを困ったように見つめて言う。
この国の流行りであるウエストラインを強調したドレスは、均整の取れたエレオノーラの身体によく似合っている。
あれからずっと、背中に下ろしたままの黒髪が、豊かに波打っていて美しい。
侯爵家の私的な居間で、ソファに座っていたシルヴィオは、エレオノーラを手で招くと、隣に腰掛けた彼女の口に、手元の菓子を放りこんだ。
「エル、この味はどう?」
驚いた顔で、それでも素直に咀嚼している令嬢に尋ねる。
「……初めていただく味だわ。でも甘くて、美味しい」
「この国では昔からよく食べられている菓子だ。どれだって一度は試してみないと、好みかどうか分からないだろう?」
それが先ほどの、自分の話の続きだということに思い至ったらしい。
美しく眉を顰めたまま、形のいい口唇がそっと息を吐く。
それはかつての溜め息よりも、ずっと甘い吐息だった。
着たいドレスも、食べたい物も、やりたいことも。
エレオノーラが望むなら、シルヴィオは何だって手配するつもりだった。
けれど、
『私……何が好きなのかしら』
自分で何かを選び、決めることを、エレオノーラはすっかり手放してしまっていた。
本人もそう気付かぬうちに。
「あの中で、貴方が着て欲しいのはどれかしら?」
湯気の立ち上る紅茶を手に、エレオノーラがそう尋ねてくる。
「エルはどれだと思う?」
先日出掛けた先で買い求めたドレスは、六着……いや八着だったか。
いずれも生地に厚みのあるものが多いのは、この国の気候のせいでもある。
けれど、織りのしっかりとした生地は、エレオノーラのはっきりとした顔立ちに、どれもよく似合うだろう。
少し考えるそぶりを見せて、黒く縁取られた睫毛が瞬いた。
「金糸で縁取られた、緑のドレスでしょう?」
「当たりだ」
銀よりも金の方が、エレオノーラの肌に映えるだろうと思って選んだドレスだった。
エレオノーラのカップを取り上げて、そっと卓の上に置き、そのまま彼女の手を握る。
「着てくれる?」
「……胸元の部分に、レースを足すのならいいわ」
「では午後に仕立て屋を呼ぶとしよう」
胸元や背中が大きく開いたドレスは、最近の主流だったが、シルヴィオとしても、見せびらかす趣味はない。
照れたように笑うエレオノーラの額に、そっと口付けて、シルヴィオも微笑んだ。
与えられるものを享受して生きる、それだって一つの生き方だ。
今まで、望む望まざるに関係なく、彼女がそうしてきたように。
「でも不思議ね、貴方には……あの中だったら、私は紺のドレスが好きだって言えるわ」
腕の中で、シルヴィオに身を預けながら、しみじみと噛み締めるようにエレオノーラが呟いた。
それは何よりなことだと、シルヴィオは思う。
だって、自分ばかり気持ちよくなったって意味がないのだから。
あの日、エレオノーラの手には、婚約者から贈られたという白薔薇があった。
王宮の庭にだけ咲くという、厚みのある花弁がビロードのような、見事な白薔薇だった。
自分の好きな花を、恋しい相手に贈る。
それも一つの愛し方ではあるだろう。
その花は確かに、古びた図書室の奥の席で本を捲る少女の、黒い髪と美しい相貌に、よく似合いはしていた。
けれどそれは、彼女の姿形に似合っているのであって、エレオノーラ自身に、という訳ではなかった。
(血生臭い歴史書を捲る令嬢に、白薔薇とは……落差で風邪を引きそうだ)
ちなみにあの戦記は、シルヴィオの母方の祖母の一族の史歴である。
翻訳版が他国の……それも学生の集う図書室にあるとは、見つけた時にはなかなかの驚きだった。
シルヴィオがこうして、エレオノーラに贈るドレスだって、彼女が真に望むものではないのかもしれない。
だからこそ。
(選ぶのは、エレオノーラだ)
腕の中で互いの望みを伝え合って、こうして笑い合う方が。
どんなにか幸福だろうと。
次に贈るドレスを思案しながら、シルヴィオは今、思うのだ。




