笑わないといけないはじめの理由
高校二年生、夏の終わりの土曜日。
暦は少し緊張しながら笑花の家の前に立っていた。
今日は、笑花と暦だけでなく、笑花の兄の航も一緒に、三人で少し遠い水族館に行くことになった。
「ん?笑花ここ出掛けんの?その日俺暇だから、良ければ連れてってやるよ」
「え…?あ、ありがとう!ちょっと暦ちゃんにも確認してみるね」
笑花の笑みは少しだけ強張っていた。
電話でも、航に聞こえないよう、こう暦に言っていた。
「あのね……お兄ちゃん悪い人じゃないんだけど、ちょっとデリカシーないから……失礼なこと言うかも。ごめんね」
「…そうなの?……分かった。ちょっと覚悟していくね。
因みに、場合によっては言い返しても大丈夫?」
「うん、大丈夫!私がフォローするからね!暦ちゃんを守るよ!」
「う、うん…」
暦は大分覚悟していた。
チャラ男とかいじめっ子とかバリバリヤンキータイプの人を想像して覚悟していた。
けれど、約束の日現れた青年はその想像と少し違っていた。
醤油顔…いや、めんつゆ系の涼やかな美形。目鼻立ちがはっきりしていて、軽く日焼けしている。顔立ちは母似。
髪はマイルドヤンキーみたいなかきあげオールバック、下は刈り上げ。
耳にシルバーのピアスが光っている。
でも、不思議と下品に見えない。むしろよく似合っていた。
車は真っ青な軽自動車。つやつやしている、よく手入れされているんだろう。
内装も清潔で、海系の爽やかな消臭剤の香りが漂っている。嫌煙家らしく、灰皿は使われていない。
「よ、暦ちゃんだっけ?よろしくな」
「…よろしくお願いします」
航は気さくに手を挙げて、助手席のドアを開けた。
「俺、運転丁寧だから安心して乗れよ」
確かに、第一印象と反して運転は丁寧だった。
スピードは出さないし車線変更もゆったり。
後部座席に座った暦は少しだけ安心した。
笑花は助手席で、兄をからかうように笑っていた。
出発して十分もしないうちに、航が口を開いた。
「なぁ、二人ともめかしこんでるとこ悪いけどさ……
高校生で化粧なんて要らんと思うぞ、お兄ちゃんは」
暦の心臓がどきりと鳴る。
航は笑花を見て続けた。
「お前は誰が何と言おうと可愛いんだからさ。化粧とかしなくても十分だろ」
「もう~!…それ、褒めてるつもり?お兄ちゃんのセンス古いよ~」
「古くねえよ。事実だろ。なんか言われたら俺に言えよ。
相手、叩きのめすから」
「暴力はダメだってば!」
笑花は笑ってかわし続ける。暦は後ろで静かに聞いていた。
――イケメンのジャイアンと、優しいジャイ子……
そんなことを思ったが、もちろん口には出さない。
航はバックミラー越しに暦を見て、にやりと笑った。
「君も可愛いじゃん、暦ちゃん。クール系だな。化粧なんてなくてもよさそうなのに」
暦はびっくりして、目を伏せた。
「……ありがとう、ございます」
航は悪気がない。
ただ思ったことをそのまま口にする。
想像力が少し足りなくて、相手がどう思うかまで考えが及ばない。
でも根っこは優しい。
笑花を本気で守ろうとしているし、暦にだって、多分褒めているつもりなんだろう。
暦は自分たちのメイクが不要と言われたことに少しだけもやつきながらも、それでも、少しだけ嬉しかった。
でも、これを真に受けてはいけない、と自己暗示もかけた。
他の誰かに不細工と笑われた時に航は一緒に居てくれないし庇ってくれないのだから。
水族館に着くまでの道中、航は車内のスピーカーで自分の好きなロックを流し、時々歌ったりしていた。
笑花はそれに突っ込みを入れ、暦は静かに窓の外を見ていた。
緊張はだんだん解けていった。航は本当に、悪い人じゃなかった。ただ、少し不器用なだけ。
大学二年生らしく、「大学デビューすればいいだろ二人とも!学内にもそういう女の子たち一杯居るぞ!高校の内から化粧してると肌荒れしちゃうぞ!」と言ってきていた。本当に二人の為を想って言っているんだなあ、と暦は少しだけ笑った。
水族館に着くと、航はさっさと切符を買ってきてくれた。
「ほら、行くぞ!」
「あっ、お代お支払いします」
「いーや、今日は俺のおごりだ!高校生は大人しく俺様の世話になりな!」
「そ、そんな…」
航はドヤ顔で、元気に先頭を歩き始めた。笑花が暦に小声で言った。
「……やっぱりちょっとうるさいよね?お兄ちゃん」
暦は小さく首を振った。
「……ううん。いい人、だと思う。なんか、時々申し訳ないくらい」
笑花はほっとしたように笑った。
「よかった。お兄ちゃん、ちょっと過保護でさ。
それで、私が小さい頃から、よく喧嘩になっててさぁ…
……ううん、今はその話はやめよっか!勿体ないよね、楽しまなきゃ!」
「……笑花。いつか、絶対、聞くから」
「………うん、ありがと」
三人はクラゲの展示室に入った。薄暗い水槽に、ふわふわと浮かぶクラゲたち。航が真剣な顔で説明を始めた。
「これ、ミズクラゲ。毒弱いから触っても大丈夫なんだぜ」
「えー!ほんとにー?」
暦は静かに見つめていて、ふと口元が緩んだ。航はそれを見て、にやりと笑った。
「お、暦ちゃん笑ったな。いい笑顔だ」
暦は慌てて表情を戻したが、嫌な気持ちはしなかった。帰りの車の中。航はまた口を開いた。
「今日、楽しかったな。また二人で遠出するなら、足貸すぜ。代わりに二人の様子見守らせてくれよな」
「ほんと過保護なんだから…でも、ありがと、お兄ちゃん。次は私が計画するね!」
「……うん。私も手伝う」
暦は小さく頷いた。
航はバックミラー越しに、暦を見て言った。
「君が笑花の友達でよかったよ。お兄ちゃん安心したぜ」
「お兄ちゃん、心配しすぎだよ~」
車内は笑いに包まれた。夕陽が、真っ青な車を照らしていた。
暦は窓の外を見ながら、思った。
……笑花には、こんな家族がいるんだ。守ってくれる人がいるんだ。
少し羨ましかった。
でも同時に温かい気持ちにもなった。
夏の終わりの思い出は、爽やかで少しだけ危うさを孕んだ、そんなものになった。
暦からすれば、二人の関係は羨ましかった。
しかし、笑花が笑顔で誤魔化すようになった理由は、兄の航にもあった。
航は笑花を、心底可愛がった。
「笑花はお姫様!俺の妹は世界一可愛い」
小さい頃から、そう言って頭を撫で、抱き上げ、守ってくれた。
両親もそれを否定しなかった。母は微笑み、父は「まあ、そうだな」と笑う。笑花は、自分が可愛いものだと信じて育った。
だからこそ、初めて近所の公園で幼馴染に顔を笑われたときも、笑った。
「笑花ちゃん、顔面白くね?」
その瞬間、笑花は咄嗟に笑った。
「えー、そうかな?じゃあもっと面白くしてみよっか!」
大げさに顔を歪めて、みんなを笑わせた。心の中では、戸惑っていた。
家に帰って、戸惑いながら、航にそのことを話した。
「お兄ちゃん、今日ね……」
笑花は、ただ慰めてほしくて言っただけだった。
けれど、航の顔付きが変わった。
「……誰だよ、そいつ」
次の日航は相手の子供をぼこぼこにした。
マウントをとってタコ殴り。相手の親が止めなければもっと酷いことになっていたかもしれなかった。
そして相手の親が家に怒鳴り込んできた。
笑花は震えながら、それを見ていた。
それから、その家とは距離を置かれた。
…その家だけじゃない。近所の子どもたちも、笑花に近づかなくなった。
「近寄らないで」
「兄貴がヤバい」
笑花は気づいた。
――私が傷ついたって言ったら、お兄ちゃんは暴れる。
そうすると私まで嫌われる。
私が笑わないと……私が笑いに変えないと……
お兄ちゃんはいつか私のために人を殺すかもしれない…
怖かった。
航は悪気がない。
ただ笑花を守りたいだけ。
でもその守り方が暴力的すぎた。
笑花は小学校に上がる前からそれを把握していた。
だから仮面を作った。
どんなに傷ついても笑顔で誤魔化す。
「ひどーい!」と笑って流す。
「うけるでしょ!」と自分から笑いの種にする。
仮面は、どんどん強靭になった。
逞しくなった。
小学校では、崩れそうになる瞬間が何度もあった。クラスで顔を真似されて笑われたとき。みんなが輪になって、笑花を囲んだとき。
そのたび、心の中で泣いた。でも、笑顔を張った。周囲の期待が、その仮面を表からテープで貼り付けた。
「笑花はいつも面白い」「笑花がいると楽しい」みんながそう思うから、崩せない。
そして裏側から、兄への不安が糸のように縫い合わせた。
――ちゃんとしないと、お兄ちゃんがまた暴れる。
私が笑わなきゃ。
私が笑いに変えなきゃ…
仮面は二重の力で固く固定された。
家に帰れば航は相変わらず笑花を可愛がる。
「お前は俺の宝物だ」
そう言って、頭を撫でる。笑花は笑って返す。
「お兄ちゃん、ありがとう」
でも、心の奥では、いつも少し怖かった。
航の愛は、重かった。
守られるのは嬉しい。
でも、その代償が、誰かを傷つけることなら……
ずっと笑顔でいよう。
お兄ちゃんが拳を振るわなくてすむように…。
それが安島笑花のもう一つの理由だった。
でも誰にも見せることはなかった。
――いつか、暦ちゃんには、言えたらいいなぁ…。
そんなことを最近は少しだけ祈っている。




