34話
空気がやけに張り詰めている……。
村内北東部、魔王は牧場内の広い草地で敵が来るのを待ち伏せながら、夜気を
漂う不穏な気配を肌で感じ取っていた。
雨上がりの放牧地帯は、葉先に残った雫がキラキラと輝き、夜の闇は月明かりの蒼に染められて、どことなく魔性を帯びて見えた。
虫の音はなく、時折、村人のざわめき声が微かに耳へ届いては、またすぐに消えてゆく。
村長の指示で、村人の多くが国境南に集団避難している音だ。
しかし、そうした人の流れとは別に、村を離れずその場に留まる者もいた。
魔王・田衛文・冥箒のほかに、リュンとニルスの姉弟2人だ。
魔王は、肩を軽く反らして振り返る。
食堂の屋根には、周囲からの視線をやり過ごすように、リュンとニルスが、白く大きな道具袋を挟んで身を伏せている。
その2人の頭上、田衛文と冥箒は親衛隊の襲撃に備えて、周囲を広く警戒していた。
リュンとニルスをバラバラにして、流民の中に紛れ込ませるという手段もあったが、国王軍に見付かった場合、すぐに対処することが出来ない。
どうせ逃げ切れないならば、いっそ戦いを見届けさせるか、霊珠を交換条件にして身の安全を引き出させる方が、まだしも期待できる判断だった。
(もっとも、僕の力じゃ、そのどちらもが望み薄なんだろうけど……)
とそこで、雑貨屋裏手に潜む魔王の思考が不意に途切れる。
思考共有を介した警戒信号に相次いで、隣家の屋上から、注意を促す田衛文の声が聞こえた。
「気を付けて。前から来る!」
間を置いて、広く冷たい風が牧草地帯に吹き下ろす。
雨の雫が宙に跳ねて、草原に蒼い光が乱舞した。
『クシャリ』と草を踏み締める足音。
視線を右に転じると、遠くの陰影が小さく揺れて、エルドラの全身像を表した。
互いの距離まで、およそ14リトア。
エルドラは脚を肩幅に広げて立ち止まると、右手の紙片を握り潰した。
「ほぉう……。置き手紙とは妙だと思ったが、まさか本当に此処に居るとはな」
湿った風がまた一度吹いて、掌でひしゃげた紙を吹き払う。
周囲に、護衛の影は見えない。
ただ一人、草原でまっすぐに立つエルドラの姿は、さながら一介の純粋な戦士に思えた。
「こっちには、お前の欲しがっている霊珠がある……。リュンとニルス。それと、対になっている冥箒の安全と自由を保障してくれるなら、コイツをくれてやっても良い」
地上の魔王に代わって、箒に跨った冥箒が、屋根の上へと降下する。
やがて冥箒は、ニルスの手から『冥き瞳』の霊珠を受け取ると、エルドラへ示すように右手を高く掲げた。
(どう足掻いても、平和的には収まらないな……)
しかし、緊張のやりとりは意外な形で転機を迎える。
エルドラは食堂上へと注意を移した刹那、相手の意図が理解できずに大きく目を瞠った。
「むう……。貴様ら、まだそんな所に居たのか!」
高度を落とした田衛文が、リュンとニルスを庇うように前へと出る。
「オズボーンが来たら困るからね。ニルス達には、指一本触れさせないヨ」
すると、エルドラの額に、雷めいた血管が何本も浮き出る。
「オズボーンは来ぬ!」
エルドラの大声が、夜陰を立て続けに叩いた。
「我が親衛隊も、オズボーンも誰も来はしない。此処に居るのは、私と貴様らだけだ! 私の命令で、国境付近の全ての村に避難勧告を出してある」
予想を大きく裏切られて、魔王は強い動揺に声を荒げた。
「いったい何のつもりだ!」
エルドラの表情には、地下で感じた狂気など欠片もない。
彫りの深い相貌に、破滅の瞬間を予感させる凄絶さが加わった。
「戦争だよ! 西の国境、カルバレス林野のすぐ先に、我が軍の斥候が、グローネシアの侵攻部隊を捉えたのだ」
「そんな……。戦争だって……?」
魔王が強い衝撃を受けて固まっていると、エルドラは驚きを混ぜた表情で屋上のリュンを睨む。
「小娘……。まさか貴様は、此奴に何も教えていないのか!?」
敵味方、双方に流れる異様な空気を感じ取り、魔王は一歩退いて背後を見上げる。
2人の視線は重なり合わず、答えを求める眼差しは、葛藤渦巻くリュンの横顔とぶつかった。
黙っていたのは、彼女ばかりではない。
臨時の徴税や、先史文明人同士の大国利害。
魔王もまた、日常生活の端々で戦の機運を感じながらも、敢えて口にはしなかった。
言葉にすれば実現してしまいそうで、わざと口を閉ざしていた。
エルドラは、魔王の失望へ追い打ちを掛けるように、荒みゆく世界の在り様を付け加える。
「緩衝地帯の小競り合いなど、始まりに過ぎぬ。すでに世界各地では、侵略戦争の準備が進められているのだ」
「そんな……。それじゃ、いったい僕は何のために降伏したんだ……」
答えの代わりに、エルドラは離れた距離から非難の指を突き付ける。
「貴様のせいだぞ、魔王。貴様が戦いを止めるのが早過ぎたのだ!!」
指弾の圧力が一息に抜けると、エルドラは声に落ち着きを取り戻す。
「あの日、先史文明人は、自身でも抱え切れない程の戦力を残し、異種族という格好の標的を失った。不満の捌け口を失った世界が何を求めるかなど、考えるに
容易い。魔王、貴様の降伏は図らずしも、人種を問わぬ戦乱、大陸間戦争以上の
災厄をもたらしたのだ」
語り終えたエルドラの顔は、その場にいる誰よりも深い苦みを湛えている。
――胸の古傷が疼きだす……。
彼もまた、かつては大陸間戦争に参加した一人の戦士であった。
作戦中、フォルトの罠に掛かって壊滅的な打撃を受けたパーティは、瀕死の彼をその場に置いて撤退した。
放っておけば、すぐに失われるはずの命。その絶望に呼ばれて彼を救ったのが、破滅教の象徴たる統世神王メリカであった。
「終戦後、フォルトは挙って先史文明人からの差別を受け、今や奴隷のような扱いだ。その一方で、水が低きに流れるように、階級意識は時を経て大国から地方都市へと向けられ、戦勝国が占領地域に、自身にとって都合の良い支配体制を構築する」
ゾクリと冷たい笑みの影が、エルドラの豪傑めいた相貌を覆う。
ただそれだけで、魔王は世界の闇に触れた気がした。
「戦争が迫害の象徴事例であるように、人間の優越感も、種族や対象を選ばず無差別に向けられた。そのような中、小国であるこのンストゥルが今でも無事なのは、洗脳兵による不屈の戦いと自爆作戦にある」
「洗脳兵……? まさか、地下で皆の意識を奪ってたのは、ソレが狙いなの?」
田衛文の反応に続けて、魔王が怒りの声を震わせた。
「狂ってる……。そんなの狂ってるよ!」
「その通りだ!! この世界は、死と破壊の衝動によって狂っている。だがそれこそが、メリカ様の力の源だ」
話の流れが佳境へ差し掛かると、エルドラの声量と覇気が一挙に高まる。
「誤解のないよう言っておこう。村を脅し金品を巻き上げたのは、村人から負の思念を吸い上げるためだ。だが、その際に得た資金は全て、国の守りに充てている」
話の直後、エルドラが無造作に北方を指差す。
森の抜けて、ンストゥル城から鬨の声が木霊する。
大将不在の中、オズボーン率いる国王軍が、国境・グルモーニア地方へと救援に向かう音だ。
魔王は反射的に、酒場で聞いたマスターの言葉を思い出す。
――硬貨の裏表とは、決して二分できるものではない。
国を守らんが為エルドラを信じ、信ずるが故に非情を装う。
戦争という運命に翻弄されたもう一人の男が選んだのは、信念を贖う一枚の硬貨であった。
「我が部下に、私を心酔する者など一人も居るまい。あのオズボーンとてそうだ! 兵も、将も……。皆、何かを守る代償としてンストゥルに居る。怨むな等とは夢にも思わんが、これだけは憶えておくが良い。勧善懲悪の図式など、物語の出来事だ。現実には存在しない!」
一拍置いて、エルドラは眼前へと振り上げた拳を固く握り、気迫を込めて宣言する。
「だが、勘違いするな……。『私は悪だ!!』 これからもメリカ様のため、世界中に負の思念を生み出し、それを狩り集めてみせる。機械狼は、その先兵として
活躍するのだ」
エルドラは上衣を荒々しく引き剥がし、胸の戦傷を魔王たち五人へと晒す。
するとそこには、本来あるべき胸筋がなく、代わりに、どす黒い血管に囲まれた茶色い玉石が脈動していた。
「あれは、地の装核!」
屋上の冥箒が、驚きに身を震わせる。
「身体に装核を埋め込むにしても、心臓の代わりだなんて……」
「死の間際、地の装核を用いて私の命を救ったのは、他ならぬメリカ様だ。私はあの時、心に誓った。我が生涯の全て、メリカ様に捧ぐと!」
国を救い、世界を滅ぼす。
その壮絶な覚悟に、誰もが言葉を失っていた。
凍て付いた空気の壁を、温かくも湿った吐息が『フッ……』と揺らす。
自嘲気味に鼻を鳴らしたのは、沈黙を生み出した当人であるエルドラだった。
「とはいえ、オズボーン等だけでは戦力が足らん。この国も、洗脳兵を欠いた今では長く保つまい。しかしだ、貴様が此処で手を引き、あるいは我々に協力すれば、最悪の事態は防げるかも知れん」
エルドラは、片手をスッ……と前に差し出す。
邪悪な……、しかしそれだけに、ンストゥル全土とリュン達の暮らしを確かに救える、抗いがたく魅力的な掌だった。
「どうだ、魔王よ。女共の命は助けてやる。我々と共に、メリカ様の下に来ないか?」
「そ、それは……」
魔王は究極の選択に苦悩した。
エルドラの台頭を許せば多くの不幸が世界に広がり、反対に彼を倒せば、指導者を失ったンストゥル軍はグローネシアの侵攻に敗れ、ビストゥスの資源は搾取される。
一つだけ分かっているのは、変わり映えのしない後者の未来だ。
かつて魔王が、世界の行く末を案じたように、支配する側をエルドラからグローネシアへとすげ替えたに過ぎない。
「魔王……」
田衛文が、か細い声で相棒の名を呼んだ。
魔王は我に返って後ろを見上げると、彼女だけでなく、冥箒もリュンも、ニルスでさえもが、魔王に信頼の眼差しを向けている。
その瞳は、かつての同胞のそれとよく似た輝きを宿していた。
(誰にだって、捨てられない存在がある……)
魔王は何度も言葉を詰まらせながらも、直向きな想いをエルドラに訴える。
「僕は……。僕はお前と戦うよ。だって、お前達の望む世界は、幸せな人が誰も居なさそうだし……」
それに……、と心細く言葉を繋げて、魔王は両手を固く閉じた。
「戦って戦って、一生懸命に抗い抜くことが、僕が決めた意志なんだから」
魔王の覚悟を聞いたエルドラは、相手を好敵手と見定めて豪快に笑う。
「ハハハハハハハ……。貴様なら、そう言うと思ったわ! この残酷な世界、どちらが此の世に必要とされてるか決着を付けよう!」
エルドラは腰ベルトの道具入れから力石を取り出し、片手でグッと握り潰すと、解放された封印魔力が蒼い燐光をまといつつ、エルドラの周囲を蛇のようにうねる。
「ぬうううぅえあぁぁあぁ!!!」
エルドラが苦悶の形相で拡散魔力を吸収すると、心臓部の装核に光が点り、強く鈍い鼓動を始めた。
血管の収縮はすぐに活動期へと移り、脈動に合わせて膨張と硬化を繰り返し、
亀裂が走る皮膚の表面に、鋭い岩の装甲板を形成する。
「あれが、エルドラの真の姿……」
「お姉ちゃん……。僕達、本当に大丈夫かな?」
確証など何処にもない。
唖然とした様子で不安を呟いたリュンは、本能的に身を縮こませる弟の肩を抱き寄せた。
ハの字に寄り添った2人の膝のすぐ後ろ、道具袋の布繊維が摩擦音を鳴らす。
霊珠を道具袋の中にしまった冥箒が、リュン達の右前方へと並んだ。
同じく田衛文が、反対側の前方左へと位置を変えて戦闘態勢を整える。
「大丈夫だよ、みんな。あんな怪物、魔王がやっつけてやるんだから!」
拒絶の意思をぶつけられても、エルドラに怒りの感情はない。
前のめりとなった岩の巨体が、ジワジワと不気味なオーラを纏いながらも、背筋を伸ばして上体をまっすぐに起こす。
「怪物……? 怪物だと? そうか、怪物か! 良いぞ、構わん。
その恐怖、 その戦慄! その絶望!! 実に心地良い!!!」
やがて、肉体の変貌が完了した。
エルドラは、全身の力を四肢に込めて地面を踏み抜くと、地響きのような胴間声で名乗りを上げた。
「我は、破滅教の幹部が一人、幻猟鎧士・エルドラ。その身に刻め……。闘争こそが、破滅を生み出す究極の因子である!!」




