第四話 欠けた月が降りた夜
あの深い緑に宿っている………月の光が、それが身体の中を満たしているから、熱を持ち病の時のように満たしているから、召し上がられないのだろうか。
私は村で幸せの中で暮らしていた頃、悪い風邪を引き熱を出したことを、思いだしていた。それは酷く気分が悪く、乾きに襲われ痛みにやられて、庭に育てている薬草、香草を、濃く煎じた物を、無理に飲まされた事を思い出す。むせながら飲み下した、ソレ…………。
その後食べるようにと、野菜のスープを運ばれても、麦の粥を運ばれても、温めた牛の乳を運ばれても、しばらくは、何も食べる気にならなかった事を思い出す。
クシャル様も、そうなのだろうか………お身体の病ではないと聞いているし、見ている、何故ならここは王宮。全く別の暮しがあった。
毎日、朝訪れる侍医のお人達は、クシャル様の脈をはかり、顔色を見る、痛いところ、ご気分は悪くありませんかと、お聞きする、ご丁重に診断をされる、私は医に関わる人々を初めて見た。そして彼らは帰り際に
「もっと食を、召された方がよろしいかと」
と、一言残して帰る事が既に日課になっていた。
…………音楽を、この美しい楽器を、奏でれば、お心が安らかとやらに、なられるのでは無いのか、と私はそれに目をやりながら、クシャル様の居室にて、そう思っていた。
目通りは許された、取り敢えずお側近くにいなさいと、そのうちお声がかかる、とバム様に命じられている私は、ただ言われた通りに動いている毎日。
私はそれを見知っていた。売っている所も見たことがあった。ただしあれ程見事な細工は、施されてはいなかった。そして勿論、傍らに置かれている、演奏する時に使う、細い棒、プレクトナム………、
大人の人差し指より少し長いそれも、市中で売られている、硬い木の物や鷹の尾羽から作り出された物、ここに添えられて置かれているのは、亀の甲羅を削り出し作られた品。
「どんな音色なのかな………演奏、されないのかな………」
寂しそうに置かれているソレを、私は眺める事しか出来ない。それはまるで今の自分の様。
日中の大半を室内でお過ごしになられるクシャル様、何かを考えたり、書物を読まれたり、バム様と時折話を交わされたり、暑い時間は昼寝をされたり………それで日中は終わられる。そして夜。夜は寝るものと、私は思っていた。
「ザザ、ここには私にあたえられている部屋がある、それなりに広い、お前の寝床もそこに用意させた故、慣れぬ間はするべき事をしろ、私もお前がいたから、屋敷に帰ってはいたが、こちらで過ごす事の方が多いのだ、ここは警護の者も多い、わかったな」
夜になると、時折王宮へと出向かれるクシャル様に付き添われるバム様、その時間は様々だった。なので、一人そこで本を読み覚えていく。寂しく冷たい時間を過ごす。日々を、全くかけ離れた世界で過ごす事に、怖さと不安で包まれ、そしてそれらに、押しつ潰されそうになっていた。
そんな私は。ここから逃げ出そうか、でも………と、日々、迷っていた。色々と覚えていく内に、バム様のわかったな、に含まれた意味が読める様になったから。
逃亡すれば斬る、そう暗に言っておられる。ここは王宮、閉ざされた世界。数多なる物で幾重にも囲まれ、包み込まれ、入らぬように、出ぬ様に固められた場所だった。
与えられた休息の時に庭に出てみれば、庭師に下仕えの者達、警護の兵士らしき姿が、目立たぬ様にあちらこちらで、課せられた仕事をこなしている。そう、十重に二重に、取り囲む様に。
私が庭を歩くと、物珍しいのか、ちらりと見られる、見られるが声はかけられない。庭師も兵士も、それはまだ私は、存在を認められていない人間だったから。
寂しさがあふれて来る、悲しくて私は早々に退散した。そしてここに来てから、歌を歌う機会が得られず、その事がひどく寂しかった。誰とも言葉を交わさぬ日々。
そんなとき、我慢の限界を迎えた私は、日が落ちてから歌おう、外で、村にいた時みたいに、そう、お出かけになられたら、と、思いついた。もしかしたら逃れるかもしれない、と僅かに期待を持って。
日が落ちる、夜になる、私の村では子供は休む時なのだが、この国は幾分涼しくなった頃から、賑やかな時を迎える。しかしここは………それとは違い、客人が訪れるの事はまばら、外には勿論、警護の兵士はいたが、庭師達の姿が無い。幾分薄くなる時。
ザワザワと木々を揺らす風。そろりと私は外に出る。強めに吹く風の音と、雲が月を隠している闇夜。時折足音が聞こえる、ハッとして身構える。兵士達は灯りを掲げ私を確認すると、何事も無かった様に散って行く。
声をかけられる事も無く、その事に少し戸惑いながら人気がいない場所を探して歩く。逃げるのにはいいれど、右も左もわからない………、やっぱり無理なのかと、とぼとぼと歩きながら、つれづれに考える。
ここを出られても、どうして暮らしていくのか、以前の暮らしをしたいか、と聞かれれば、素直にハイとは言えない、恵まれた毎日。それを捨て去る勇気は………無い。
でも、不安がある。深い、深い闇色のそれ。何も出来ない私、役に立たぬ、要らぬとなれば、どうなるのだろう、そして名前を聞かれたら………どうなるのだろう、分かっていることは一つ、逆らえば…………。
「どうすればいいのかな」
夜空を見上げた。星も月もない、澄んだ黒ではない、ヌルリとした空の色がいっぱいに、広がっている。それから目を下ろすと、小さい声で、あちらの言葉で、わざとで明るいふざけた歌をうたう。
…………たまごがわれる割れたらひよこ ひよこは歩く歩けばほじる 地面をほじるほじればミミズ ミミズは逃げる逃げたら、逃げたら………
「逃げたら、にげたら、逃げれない、どこにも」
熱い、ジリジリと胸が焼けるように熱い。寂しさでいっぱいになり、涙が溢れて、ぽろぽろとしたたる。
う、く、すん、手で拭う、右で左で、拭っても、拭ってもそれは止まることが無い。立ち止まる。しゃがみ込む、帰りたい、帰りたい、父さん母さんと、一度切れたものは、止まろうとはしない。どうしよう、どうしよう………、帰りたい………やっぱり。だから。
「もう、いい」
どうなってもいい、どうせ今の私は、目の前に転がる石ころみたいな物なのだから………だから行こう、行くんだ、どこでも良いから、ここから出る!
そう心に決めると涙を飲み込む、鼻にツンとくる。胸が熱くて冷たくて痛い、そして涙を拭い、立ち上がろうとしたその時、背中越しに足音が聞こえた。兵士達のそれでは無いと、即座に気がついた。
私は、誰?と、しゃがんだままで振り向き見上げた。そして、目に飛び込んだ、振り上げられた長剣の光、布で顔を隠した男の姿。見開かれた目の色が、私をとらえている。
咄嗟に身体が動いた、振り下ろされるそれから、逃げ出そうとしたその時!
「転がれ!」
鋭く耳に飛び込んで来た、それはクシャル様のお声。それと重なるバム様の声。二人に気が付く男、しかし振り下ろされたそれは、最早軌道修正は出来ない勢い。
父さんと母さんの、声が蘇る。逃げろと!私は身体が自然に動いた。言われたままに身体をよじる、地面に転がった刹那!それまでいた場所に、切っ先が叩きつけられた。
何が?と目を見張り体制を整えたその時、無礼な、われとそれとを間違えるとは、冷たい声が地面を蹴る音とともに、上に跳ねあがる、そして全身の力を入れられた。クシャル様が体重をかけながら、私を殺そうとした者を斬る。
ザンッ!熱い血飛沫が散る、パタパタと私に降り注ぐ、匂いが包む、ぐ、あああ!断末魔の声が耳に入り、脳に届き満たしていく。ズ、ザァ、ド!急所を斬られた男は、その場に倒れた。
私の隣でうつ伏せに倒れた、ぐ、あ、と身体をよじるそれにバム様が近づくと、とどめを刺す。ビクビクと痙攣をしている肢体、こちらを見ている虚ろな目。口からも鼻からも、耳からも、赤黒い血液がドロリと垂れるように出ている。
すう…………と、広がり作られる血溜まり、死んでるの?死んでるの?私は言葉を忘れて震えていた。それから目が離せない。ヒュッ、ヒュッ、という、呼吸が途切れにある。その度に小さく跳ねる身体、やがてそれはブルブルと震えに変わる。
「大丈夫でこざいますか?クシャル様」
バム様の声が遠くに聞こえた。私は動けない。
怖い、怖い、怖い、また人が目の前で死んだ、死んだ、死んだ死んだ………、母さん、母さん怖い父さん助けて………
地面についている手がぬるりと生温かく濡れる。ドクドクと出る赤が大地に染み込んで行き、そしてじわりと、わき上がるソレに。鼻につく鉄の匂い、それは私に、降りそそぎ、まとわりついているものと同じ物…………。
涙が止まらない、どうしたら止まるの、震えながら視線をそらした。見たくない、見たくない………カチカチ動く歯の音が聞こえる。
その時………チッと軽い音が響く、そして近づくクシャル様の履物が目に入る………、目の前で止まる、そして何時もと同じ変わらぬ声が降って来た。
「表を上げろ」
こくん、と首が動いた、息を飲んで、固くて動かない身体を、ぎっぎっと動かす。下から上に、胸の辺りで視線をとめる………雲が切れて来たのか、影の様なお姿が、ぼんやりと色目を帯びていく。
「バム、コレはお前の責任だ、これしきで動けぬとは、確認していなかったのか………」
そう話しつつクシャル様は、チャッ、と露を払うと、手渡された布で、スルリと刀身を拭う、そしてシャッと滑るような音を立て鞘にそれを収める。カチ、と聞こえる。
「迂闊でした。そこまで見ておりませんでした、言葉が流暢でしたから、それなりに場数を踏んでるかと、見落としてしまいました、どういたしましょう…………」
クシャル様の傍らにバム様、受け取られたその布で、ご自身も、血油を拭ってらっしゃる。
冷たい風が吹いた。無言のお二人。動けない私、こと切れた動かぬ者。その場に二人と二つ………。
ああ、終わるとそう思った。終わる、この人みたいに、でも、それで良いと、………父さんや、母さんに会える………だからいい、と、全てを諦め目を閉じようとした時、
雲が切れて、白い光が降りてきた、白く、そして欠けた月が、姿を現した。思わず空を見上げた。綺麗な白がそこにある。もういいと思い目を下ろす。
そこにはそれを背負うクシャル様。惹きつけられるそのお姿。どせなら、斬られるのなら………バム様よりも、と私は思った。
心を決めた、無が私を支配した。そのままに目を大きく見開いて息を止め、そのお姿を懸命に取り入れようとする。
クシャル様の深い緑の色に、青が映り込むように見た。貴人を真正面から、私の様な存在が許しも無しに見る事など、無礼な事。怖い光を宿しているそれ、でも………最後の力を振り絞って、私は受け止めた。
………静かな時が過ぎる。それは長くて短い、熱くて冷たい。白くて黒い、生と死の狭間の時。やがて何がが動いた。
「名を述べろ」
天が采配したのか、何の気まぐれか、いきなり名を聞かれた。答えなければならない、乾いた唇を舐める。血の味がした。
誰の物かと思えば、強烈な吐き気に襲われたが、私は、無理にそれを飲み込んだ。そして………精いっぱい、声を張り上げた。それはひどくかすれていて、自分の声では無いように聞こえた。
「ザザと、申します。バム様に、お仕えしております者で御座います」
しかし何時聞かれても良いように、心に、頭の片隅に置いていた為、つまることなく一息に名乗ることができた。はぁ、と息を吐く、震えが、少しとまっていた。落ち着いて来たのがわかった。視線を下にずらした。
「ふ、ん、ザザか……、覚えおく………バム、帰るぞ、それに手をかせ」
どう思われたのかはわからない、何時もと変わらぬ、風が吹くような声で、私の名を呼ばれるクシャル様。
はい、と返事をされたバム様………しかし気になられたのであろう、私に寄りつつ、怪訝に思われた事を、お聞きしている。良いですかとの声に、許すとの声。
失礼ですか、と、問いかけた。どうしてザザにお聞きに、と聞かれた。
背を向けていたクシャル様は、それを聞き止める。
白い光の月をあおぎ見られる、欠けた月をご覧になられる。しばらく何かをそこを、ご覧になられていた。
………やがて、どろりと闇が広がる先に視線を移され、一息おいて、艷やかに光を帯びた声でバム様のお声掛けにお答になられた。
私はそれを、未だに血で汚れた地面で、無様に座り込んだままに、そのままに、月夜をまとう、細くて強い背越しに、それを聞く………。
「青が惜しいと、欠けた月が言った、それまでよ」