Scene15.『黒い悪魔と白い悪魔』―1
今回も過去の話です。双子の片割れは本当に死んだのか?兄に疑いを持ったマドックは……
「ルパートの所に行ってくるよ」
「ええ、気をつけて」
二人は幸福に充ちていた。
あの時までは――
なにもかもが穏やかだった。大きな禍もなく、小さな幸せに微笑する日々。川を泳ぐ魚群を眺めて心が癒され、そのせせらぎを聴きながら過ごす休日の午後のひと時。そこに二人がいればよかった。空が晴れていても雲っていても。彼には彼女が、彼女には彼がいる。それだけで二人は笑い合い、時は穏やかに流れていった。そこに見えてきた希望の光が二人の未来をより一層明るく照らしてくれた。
愛しの妻に笑顔で送り出され、その夫マドックは車で兄の家に向かった。そこで暮らす次兄のルパートは、製薬会社に勤めている傍ら、個人的に研究するための実験室を自宅に持っている。彼はよくそこで実験を行っていた。なんの実験をしているのかを尋ねたこともあったが、凡人には理解し得ないことだ、と言われたマドックはそれから何も訊かないことにしていた。風変わりな人ではあったが、彼は六つ歳の離れた弟のマドックをそれなりに可愛がってくれてもいた。マドックの妻ロビネッタは身体が弱く、出産するのが難しいと言われていた。するとそれを知った兄はある方法を弟夫婦に勧めた。それが代理母出産という方法だった。頼れる兄は信頼の置ける病院を紹介してくれた上、その人脈を使って代理母まで見付けてくれた。全てが順調に運んで行き、あとは子供が産まれてくるのを待つだけとなった。
兄の家の前まで来るとマドックは、その敷地内に車を停めた。インターホンを鳴らしても反応がなく、玄関の鍵もかかっていなかった。実験に熱中しているのかもしれない。そう思ったマドックは、普段から兄弟間ではそうしているように、軽い気持ちで兄の家に上がった。
「ルパート」
やはり返事は返ってこない。マドックは部屋の奥まで進み、兄の実験室がある地下へと続く階段を降りて行った。
地下はあまり空調を効かせていないので冷え込んでいた。そこに貯蔵庫と並んで実験室がある。マドックはそのドアをノックした。
「ルパート? マドックだ、入るよ」
兄は普段からそのドアには鍵をかけていなかった。その時も鍵はかかっていなかったのでドアを開けて中に入った。
室内は明るく、電気が点いていた。入ってすぐ部屋の中央の壁側に、机に向かう兄の背中が目に入った。机上に置かれた古い型のデスクトップ型パソコンは画面が真っ暗で消灯していたが、電源ランプが緑色に点灯し、電源が入ったままになっていた。兄は自分の腕に横たわるように頭を乗せ、眼鏡をかけたまま眠っていた。右手が膝の上にあり、落としたのかマウスが机から電気コードを垂らしてぶら下がっている。やれやれ、とマドックは溜め息を吐くと、マウスを机の上に置いてやった。?――するとパソコンが作動音を鳴らして画面がぱっと明るく点灯した。そこに打ち込まれた文字が表示される。何気なく見たそれにマドックは目を留めた。
“体外受精による受精卵の遺伝子操作”
なんだこれは? 下に遺伝子配列を示した図が並んでいる。マドックは訝るように兄を見た。まさかこれは……
兄の頭が動いた。マドックは身構えるように顔を強張らせて息を呑む。兄は腕に凭れていた頭を傾けて、パソコンの画面に目をやった。
「人の仕事道具を無断で覗くのは良くないな」
膝の上にあった右手を机の下から引き出し、その手を伸ばして机上のマウスを握るとそれを操作して画面を切り替える。
「それはなんなんだ?」
弟から鋭い声を浴びてルパートは頭を傾けた。弟を見て嘲笑いともとれる悪質な微笑を浮かべ、むくりと上体を起こして居住まいを直す。
「どうした、マドック。そんなに怖い顔をして」
平然とした兄のその態度が、マドックには欺瞞として見て取れた。
「受精卵の遺伝子操作――それをやるために僕たち夫婦に体外受精を勧めたのか?」
ルパートは表情にも態度にも変化を見せずに答える。
「医者でもない私が遺伝子操作をすることはできない」
「だが……」
「私は製薬会社の社員だ。これは薬品開発のための参考資料に過ぎない。ただのサンプルデータだ」
その答えにマドックは目を細めた。
「遺伝子レベルでの」とルパートが付け足す。
マドックは訝る眼差しで兄を見て指摘した。
「ゲノム創薬か。だが何故その資料に、体外受精やその受精卵の遺伝子操作の情報がいる?」
そこでルパートは沈黙に落ちた。遂に追い詰められたか?――否、彼はゆっくりと口角を引き上げ、次の言葉を紡いだ。
「そのデータをもとに遺伝子レベルで研究して、倫理的に問題視されている胎児治療に身体も遺伝子も傷付けない方法の一つとして役立てようと新薬の研究、開発をしていた」
「……」
その説明を聞いても納得できなかったマドックは難色を示した。腰の前で肘を抱え、下になったほうの腕を指でトントンと連打する。
「じゃあ“体外受精”に着目した理由は?」
そう訊かれルパートは、やれやれと言うように頭を振った。
「考え過ぎだ、マドック。私はそれについてはこだわっていない。たまたま資料がそうなっていただけだ。お前はそんなに疑い深い性格だったか? まぁ、いい。とにかくお前も、健やかに産まれてきた子供を見れば、そんなことはただの思い過ごしだったと気付くだろう」
ある日のことだった。明け方近く、寝室のドアを急かすように誰かが叩いた。「旦那さま、旦那さま」と言っている。心地好い眠りの中にいたマドックは、睡眠を妨げられて不機嫌そうに呻きながら、ベッドの上で瞼を開けた。隣で妻がすやすやと眠っている。
「誰だ、こんな時間に……」
仕方なくマドックはベッドから降りてドアに向かう。開けてやるとそこにいたのは、目玉を見開いて興奮気味のメイドだった。
「なんだ、どうした?」とマドックはその苛立ちを普段より低めた声に表す。主人の機嫌を損ねてしまったメイドは、あたふたしながら言った。
「申し訳ございません、旦那さま! 今、お電話がかかってきて、ルパート様がどうしても今旦那さまにお伝えしたいことがあるとおっしゃるので……」
「ルパートが?」
マドックは目を細めるが、ん? と一瞬考えた後すぐに部屋から出て行った。広間に行くと保留音が鳴っていた。マドックはそれを解除して電話に出た。
《こんな時間に済まないな、マドック。だが、早く知りたいだろうと思って電話した》
電話の向こうで兄のルパートがニヤリとしたのが窺える。マドックもニヤリとした。
「期待させるような言い方だな、ルパート? 良い話か? それなら早く聞かせてくれ」
《わかった、じゃあ言う》
わざとらしい間を開けてからルパートはそれを告げた。
《子供が産まれた》
「なんだって!?」
マドックは感激のあまりそう叫んだ。
「やった、やったぞ!」
感動にうち震えて両手の拳を強く握り締めた後、ぱっと顔を上げて妻のもとへと駆け出す。
「ロビネッタ! ロビネッタ――!」
廊下にその声が響き渡った。
「……どうしたの、マドック?」
「ああ、こんな感動は初めてかもしれない。君と結婚した時依頼だ。嬉しすぎてこの感動を僕にはこれ以上言葉に表現しきれない!」
「落ち着いて、マドック。いったい何があったの?」
「寝ている場合じゃないぞ、ロビネッタ?」
「ええ、もう起きてるわ」
「今、ルパートから電話があったんだ」
「お兄様から?」
「そうだ」
「それで何て……」
「とうとう産まれたんだそうだ」
「え?」
「僕達の子が――産まれたんだよ!」
次の瞬間妻の悲鳴が上がった。そして二人がはしゃいで喜びあう声が、広いその屋敷を幸福の空気で満たしていった。
その日マドックは仕事を早退して、妻と一緒に病院へ行った。そこでまた衝撃の事実を聞かされた。子供はなんと双子だったのだ。男二人の。子供たちの身体に障害などは見付からなかったが、低出生体重児だったため保育器に入れられていた。寂しかったが、退院できるようになるまでのお別れとなる。
「ベビー服を買いに行かなくっちゃ」
それでも妻は陽気だった。マドックを連れてベビー用品店やデパートへ行き、ベビー服、ベビーカー、ベビーベッド、その他さまざまなベビー用品をすべてペアで買い揃えた。あれはやはりただの思い過ごしだったのか。マドックが兄ルパートに抱いていた疑惑も、しだいに頭から離れていった。幸せの絶頂。
――それがなんの前触れもなく唐突に下降した。
その報せもまた電話によってもたらされた。穏やかな晴天の昼下がり。風はまだ冷たかったが、庭のあちこちで草花が芽を出し始めた頃。
《双子の片方が死んだ》
それは義兄のルパートからの電話だった。子供に会いに行ってから数日後のことだった。電話に出てそれを聞かされてしまったロビネッタは、電話の前で泣き崩れた。
「私の赤ちゃんが……」
彼女はショックのあまり体調を崩して熱を出し、そのまま寝込んでしまった。
「レッド……ブラッド……」
譫言で名前を呼ぶ。彼女は夫と二人で、子供に付ける名前まで考えていた。
女の子だったらブロッサムがよかったけど……
双子の男の子だから何がいいかしら?
君が好きな名前でいいよ
駄目よ、マドック
一緒に考えるの
う〜ん、わかったよ
……よし、決まった!
私も決まったわ
じゃあ、同時に言いましょう
レッド! ブラッド!
あなたは“ブラッド”?
そう、ブラッド
君が好きなブラッド・オレンジのブラッドだ
やだ、嘘みたい!
……駄目かな?
駄目なんかじゃないわ、素敵よ!
本当かい? なら良かった
で、君は?
レッドよ
“レッド”? 何故レッドに?
うふふ……
それはね、双子だからツインズの果実が頭に浮かんだの
レッド……チェリー?
そう!
レッド・チェリー!
ははは、それじゃあどちらも君が好きな果実の名前じゃないか?
僕たちは考えることが一緒だな
そうよ、信じられない!
ロビネッタの頭の中にはいつまでも幸せだった頃の記憶が離れなかった。病床から起きてはふらふらと屋敷内を徘徊し、双子のために買い揃えたお揃いのベッドやベビー服を見付けるとそれに触れながら話しかけ、それから深い悲嘆に暮れていく。それを繰り返す毎日だった。そんな彼女の憐れな姿を見ていられなくなったマドックは、彼女が精神の均衡を崩してしまいそうな物は、使用人たちに言って全て倉庫に片付けさせた。鍵をかけて二度と開けられないようにする。しかしこれで解決するのだろうか。何をきっかけにまた哀しい記憶が甦るか分からない。だからと言って家から出さないというわけにもいかないが……。頭を抱えるマドックだった。そんなある日、次兄のルパートから電話がかかってきた。
《それでロビネッタの具合はどうなんだ?》
マドックは芳しくないように呻いた。例の症状のことを話す。
《それは可哀相に……そのままにしておくのも残酷だな》
「どうすればいいと思う?」
兄に解決策を請う。
《それなら》
頼もしい兄はすぐに問題の解決方法を導き出した。
《辛い記憶を消してやればいい》
「消してやる? どういうことだ」
《催眠療法でその記憶を消去するんだ》
子供がもう一人いたことをなかったことにしてしまうというのか? 忘れさせてやることで妻を救ってやることはできるのかもしれない。だが……簡単そうに言う兄に対して、マドックは不信感を抱かずにはいられなかった。本当は“自分がそうしたい”だけではないのか?――マドックの胸裏に再び兄に対する疑念が浮上してきた。死亡診断書に書いてあったことは本当なのか。子供は――
本当に死んだのか?
それを探るためマドックは、再び兄の実験室に行くことにした。
ある平日の午後。仕事のスケジュールを開けていたマドックは、兄が自宅を留守にしている時間を狙い、兄の実験室に忍び込んだ。ガレージに車が停まっていないことを確認して念のためインターホンも鳴らしたが反応はなかったため、さっそく実行に移る。兄の家の地下室は、裏からも入れる所がある。地面にマンホールの蓋のようなものがあって、そこから地下室に直通している。マドックはその蓋を開け、狭いその入口に足から潜り込み、頭まで入った所で蓋を閉じた。明かりは一切なく、暗闇の中立て掛けてある梯を手探りで、あとは勘を頼りに一段一段慎重に降りていく。ようやく地下室まで到着すると、また手探りでボタンを押した。天井からぶら下がっている電球が点灯して、ぼんやりとした明るさで暗闇を照らし出す。マドックは実験室の扉を見付け、ドアノブを捻った。留守の時もここには鍵をかけていないのか、無用心な兄に感謝した。部屋の中へ入り電気を付けると、今一度背後周辺を見回して誰もいないか確認し、それからパソコンが置かれている机に向かった。
電源を入れてパソコンを起動させると、コネクターにUSBメモリを差し込んで読み込みを開始する。幸いロックはされておらず、それが罠かもしれないとも思ったが、どうしてもこのことをはっきりさせておきたかったマドックは作業を続けた。読み込みが終わるまでの数分の間に手や顔が汗でびっしょりになる。すべての作業が終了してコネクターからUSBメモリを抜き取り、上着のポケットにしまう。最後にパソコンの電源を切ると、何事もなかったかのように電気を消してドアを閉め、その部屋を後にした。
帰宅するとマドックはすぐに二階の書斎に上がり、自分のノート型パソコンにUSBメモリを差し込んでファイルを開いた。そこに“あの”情報があれば……出てきた。タイトルは“体外受精による受精卵の遺伝子操作”――それは以前兄の部屋で見てしまった物と同じだった。下にDNAの塩基配列、その下にその多系領域を切り取った図、さらにその下にはその一部が書き換えられた図が並んでいた。画面をスクロールさせるとまた同じような図が並んでいる。記述はそこで途切れていた。マドックは画面を戻して上記のDNA多系領域を拡大してみた。それをコピーして、下記のDNA多系領域と並べて二つのデータを比較する。配列を端から照合していくに連れ瞳孔が開いていく。やはりそうか……
二つは同じ配列だった。次の工程でそれぞれ一部が別の遺伝子情報に組み替えられている。これが僕たちの双子のものなら……!
マドックはDNA鑑定を受けることにした。
切りの良いところで切ってみました。次回は『黒い悪魔と白い悪魔』の続きです。




