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第1部 * 1 *


 県営団地の4階の一室、ベランダ側南向きの4畳半に、春の優しい陽が射し込む。穏やかな昼下がり。ショーコは、窓際の壁に寄り掛かって座り、窓とベランダの手摺の向こうに見える空を眺め、眠気と戦いつつ、生後2ヵ月の次男・清次に、母乳を飲ませていた。飲み終われば清次は眠るはず、そうしたら少し横になろう、それまでの辛抱だ、などと思いながら……。

 と、そこへ、トイレから戻ってきた5歳の長男・貫太、

「きーちゃんっ 」

清次に覆い被さるように、至近距離から、その顔を覗き込む。

 それまで口だけはジュッジュッと音をたてて忙しく動かしながらも、目はウットリと半分近く閉じ、今にも眠りそうだった清次は、パッチリと目を開けた。

 貫太は一度身を起こして清次と距離をとり、また、

「きーちゃんっ 」

と覗き込む。

 そしてまた距離をとり、三たび、

「きーちゃんっ 」

と、繰り返した。

 清次は乳首から口を放し、貫太が覗き込む度、歯の無い顔でニチャッと笑い、距離をとる度、貫太の姿を追って体を反らせ、飲むことに集中しない。

 ショーコは眠気のせいもあり、イライラ。それでも、貫太は清次のことが可愛くてたまらないから、こんなふうに構うのだと分かっていることと、清次も喜んでいることから、暫くは我慢していた。

 しかし、あまりにしつこく清次を構い続ける貫太に、ついに、

「もう! いい加減にしてよっ! キーちゃんが全然飲まないじゃん! イライラさせないでっ! 」

 貫太はピタッと動作を止め、気持ちを探るように、ジーッと ショーコの目の奥を見つめる。

 清次は大声に驚いたのか、

「ふえええぇ……! 」

泣き出した。

 ショーコは時々、自分を可哀想に思ってしまう。声に出して怒ったことで、余計に、怒る気分も盛り上がってしまい、きっと貫太は傷つくだろうと分かっていながら、怒りにまかせてフイッと貫太から視線を逸らした。

 貫太がショーコを見つめ続けているのを、ショーコは気配で感じる。

 部屋の中に、清次の泣き声だけが響く。

 ショーコは早くも、少し、自分の行動を後悔していた。目は背けたまま、気配で貫太の気持ちを探ろうとする。

 ややして、貫太が口を開いた。

「まま、いらいら しちゃって、かわいそう」

 それはまるで知らない国の言葉のようで、ショーコは、一瞬、意味を理解出来なかった。理解して驚き、貫太を見る。

(イライラしちゃって、可哀想っ? )

そんな言葉が返ってくるなど、思いもしなかった。もしショーコが貫太の立場で、何か言葉を返すとしたら、

「そんなふうにイライラされたら、こっちまでイライラしてくる! 」

と、返しただろう。

 貫太は心配げにショーコを見つめている。

 貫太の言葉は、ゆっくりとショーコの胸に染み込み、フワッと広がった。

 (どうして、こんなに優しいの……)

ショーコは、涙が出そうになった。急に貫太を抱きしめたくなり、

「カンちゃん……」

片方の腕を伸ばして抱き寄せる。……温かい。

「まま、いらいら なおった? 」

貫太の問いに、

「うん。…ゴメンね……」

ショーコが一生懸命、目を優しくし、口元に笑みを作って見せると、貫太は、ニコッと明るく笑ってショーコから離れ、ちゃぶ台の前に座った。そして、お絵かき帳に向かい、舌を上唇と下唇の隙間にチョロッと出して集中した様子でクレヨンを動かし、トイレに行く前に描きかけていた絵の続きを描き始める。

 その横顔を見つめ、ショーコ、

(ゴメンね……)

もう一度、心の中で呟いた。広い心で貫太や清次を包み込んで甘えさせてあげられるような、信頼される母親になりたいのに、実際には、優しい貫太に甘えてしまっている。いつもいつも、ほんの少し、何かに気持ちを追い詰められては、自分が可哀想になり、貫太に甘えてイライラをぶつけてしまう。後悔も反省もしているのに、繰り返してしまう。

 情けない自分に溜息を吐きつつ、ショーコがふと清次に目をやると、清次は再び目を半開き状態、口だけは、やはりジュッジュッと音をたてながら忙しく動かしていた。

 清次は一瞬、乳首を吸う口を休め、半分寝ている状態の中で何か面白い夢でもみたのか、ニカッと笑う。

 つられてショーコも、自然と笑みがこぼれた。

(…あったかい……)

ショーコは、今、自分の周りに存在する全てを、温かく感じていた。






            * * *






 ショーコの目の前に、果てしなく開けた、風景……と言っていいものかどうか、髪が洗われる程度の心地よい風が吹いている以外には何も無い空間。頭上には、輪郭のボヤけた、クリーム色の太陽。眼下の白い雲の隙間には、太陽の光を受けてきらめく、青く大きな宝石の一部のような、優しい丸みを帯びた海面が見えた。ショーコの故郷・青のあおのくにの、風のかぜのふちからの景色に似ている。

 青の国は、月空界げっくうかいという、ショーコが現在暮らしている地表界ちひょうかいとは次元を異にする空に浮かぶ4つの国々から成る世界の中で、最も国土面積が小さく人口も少ない小国であり、月空界と地表界、それぞれの次元同士を重ねて考えるとすれば、丁度、ショーコの現在の自宅のある日本の上空に位置する。

 ショーコは、月空界、特に青の国と、地表界の国々のうち日本との間に、何となく縁を感じていた。違う次元に在りながら、驚いたことに、月空界に住む人々・月空人げっくうじんと日本に住む人々は、ほぼ共通の言語を用い、外見の特徴もよく似ている。しかも、青の国などは、次元同士を重ねて考えた時に、日本の真上に在る。

 ショーコだけではない。言語や容姿、それぞれの国の存在する場所から、青の国民あおのこくみんと日本人は祖先が同じとの説を唱える学者もおり、また、それを信じる青の国民も多い。



「ショーコ様ー! 」

 遥か後方からの呼び声に、ショーコは振り返った。背後は見覚えのある深い森だった。今、ショーコがいる、ここは、風の縁としか思えない。

(どうして……? )

 ショーコは辺りを見回した。深い森を正面にした時の左手側には、小さな古い教会。その手前に木製の壊れかけたブランコ。右手側には、大きな岩山にポッカリと開いた、「立入禁止」の立札が立てられた洞穴。足下には、桃色、水色、黄色の、小さな小さな野の花々。どこをどう見ても、やはり、風の縁だ。

「ショーコ様ーっ! 」

呼び声の主は、月空人の 一番の特徴である背中に生えた黒い翼で、森の上をショーコの前まで飛んで来、舞い降りた。

「ショーコ姫様! 」

 その人物は、紺色のロング丈のワンピースの上に清潔感のある白いエプロンを身につけた、優しげな細い目をしたふくよかな初老の女性。

(うそ……)

ショーコは目を疑う。 

 女性は、もともと細い目を更に細くして微笑み、

「ショーコ様。王様が、お呼びでございますよ」  

(……ホントに)

「バアヤッ! 」

 ショーコは、懐かしさのあまりバアヤに抱きついた。バアヤは、ショーコが貫太を出産する際に、地表界まで手伝いに来てくれた。その時には特に変わった様子も無く元気だったのだが、青の国に帰って間も無く病気のため亡くなったと、親友から聞かされていた。

 ショーコの涙が、バアヤの服を濡らす。

「…会いた、かった……! 」

 バアヤは、ショーコの背をトントン、と、宥めるように叩いてから、そっとショーコの両肩に手を添えて体を離し、自分のエプロンの裾でショーコの涙を拭った。

「あれあれ、いかがなされたのでございましょうね、この姫様は。会いたかった、などと。バアヤは小1時間前に、姫様のお召し替えをお手伝いしたばかりでございますよ」

(……え……? )

 キョトンとするショーコを、バアヤは、

「さあさ、王様がお待ちです。参りましょう」

促す。

 ショーコは全く状況が掴めないまま促されるまま、森の上を移動するため、地表界での生活には支障を来すという理由から普段は仕舞ってある翼を出そうとして、

(? )

既に出ていることに気づいた。同時、自分の身に着けている服の肩の部分の若草色の生地が視界に入る。

(? ? ? )

 この色の服は、持っていない。ショーコは、自分の着ている服を確認すべく、まず、腕を視界まで持ってきた。肩の部分と同じ若草色の長袖、袖口に同色のフリル。次に、首を曲がる限り下に向かって曲げた。全体が肩の部分や袖と同じく若草色の、地面につきそうなほど長い丈のワンピース。少し高めの位置にウエストが作られ、裾と胸元にも袖口と同じフリルがついている。

(……この服! )

 それは、ショーコがまだ青の国で暮らしていた頃の、お気に入り。一番よく着ていた服だった。

(…どうして……? ) 

「さ、参りましょう」

バアヤが繰り返し促す。

 ショーコは、いくつもの疑問を抱えながら、バアヤの斜め前を、実家である青のあおのしろへ。



 青い屋根に白い壁の青の城は、ショーコの身長の倍ほどの高さの高い塀に囲まれ、国土のほぼ中央にドッシリと構えている。

 青の城の、開け放たれた大きな正門を、一般開放された庭で食事をとるつもりらしい、弁当と思しき荷物とゴザを手にした何組かの一般の国民の家族連れ。青の城正門前に到着したショーコは、その中にまじり、バアヤと連れ立って通り抜けた。

 何だか、懐かしい。今のところ目にした限り、ショーコが暮らしていた頃と何ひとつ変わらない青の国。一緒に正門を通った家族連れや、正門前を行き交っていた人々の、本当に久し振りに見た、色もデザインも控えめな、実に青の国民らしい服装も……。


 父王の私室へ向かうべく、ショーコは斜め後ろにバアヤを従えて、車が通れそうなくらい広い廊下の、赤い絨毯の上を歩く。

 壁に掛けられた、くどいくらいの装飾が施された鏡を、その前を通り過ぎざま何の気なく見、ショーコは、あっ、と声を上げ、立ち止まった。

「いかがなされました? 」

バアヤの問いに、

「何でもない」

ショーコは短く答え、歩き出す。

(そういうことだったんだ……)

 鏡に映ったショーコは、若かった。今も、一般的には、若者、と呼ばれるような年齢だが、鏡の中のショーコには、現在のショーコには、もう無い、はちきれんばかりの若さがある。疑問は、全てキレイに解決した。……これは、夢だ。「ショーコが暮らしていた頃と変わらない」、も何も、今、ショーコは、ショーコが暮らしていた頃の青の国が舞台の夢をみているのだ。

 と、その時、鏡が掛けられた壁とは反対側、窓の外から、小さな子供の泣き声が聞こえ、ショーコは再び立ち止まって、外を覗く。

 そこは、色とりどりの花々が咲き乱れる中庭。1つ年下の弟・ユウゾと、その幼い頃からの友人2人、それから、近所に住む小さな子供たち数人がいた。

(ん、やっぱ 夢だ)

 ユウゾも、その友人たちも、ショーコと同じく若かった。もう長いこと会っていないが、夢でないなら、ユウゾも友人たちも、今、ショーコの目の前にある、この姿よりは、少しくらい大人っぽくなっているはずなのだ。

 若いユウゾの前で、1人の女の子が、丁度その子の手のひらくらいの大きさの赤い花・ルンルン草の花を手に、泣いている。

「ごめんなさい おうじさま……」

しゃくり上げながら女の子は、花があまりに綺麗だったため触ったら、折れてしまったのだと、説明した。

 ユウゾは優しく笑み、

「大丈夫だから、泣かないで」

地面に膝をついて女の子と目の高さを合わせ、彼女から、折れたルンルン草を受け取ると、

「このお花さんはね、きっと、君の髪飾りになりたかったんだよ」

言って、彼女の髪に、それを飾った。

 女の子は涙を拭い、笑顔になる。

 ショーコは、胸がホッと温かくなるのを感じながら、視線を廊下の前方に戻し、歩を進めた。

 


 父王の私室前で足を止め、ショーコは、一度大きく息を吸って吐いた。父王とは6年前、現在の夫・慎吾しんごとの結婚のことで気まずくなったまま城を出て以来、会っていない。夢だと分かっていても緊張する。

 木製の大きく重厚な観音開きのドアをノックし、

「ショーコです」

「入れ」

ドア越しの父王の声を待ってからドアを開ける。

 父王は、部屋の中央に置かれた、すっかり地表界での生活に慣れたショーコの感覚からすれば1人で寝るにはもったいないような、大きなベッドに横たわっていた。

 起き上がろうとする父王にバアヤは駆け寄り、手を貸し、その肩にガウンを掛けてから、父王が寄り掛かれるよう、その背の後ろ、ベッドのヘッドボード部分に枕を立て掛ける。

 ベッドの上に上半身起き上がった父王は、バアヤに外してくれるよう言い、ショーコに自分の傍まで来るように言った。

 言われるまま、ショーコは父王のベッド脇へ。

 バアヤが会釈をして部屋から出て行くのを待ち、父王は、立て掛けられた枕に凭れ、腹の上で10本の指を組み合わせて一度大きく息を吐いてから、真剣な眼差しをショーコに向け、口を開く。

「ショーコ、お前は次期王位について、どう考える? 」

(あの時? )

ショーコは、この場面に憶えがあった。

 父王が続ける。

「私は、お前に継いでもらいたいと考えている」

(やっぱり、あの時のことを夢にみてるんだ)

この場面は昔、現実にあった場面。健康に自信があり大きな病気の経験が無かった父王が、生まれて初めて寝込むほどの病に罹ったため弱気になり、自分亡き後の青の国について、真剣に頭を悩ませていた時だ。

 青の国の王位は代々、男子が継いできた。そのような決まりは無いが、慣習として、そうだった。慣習からすれば、次期王はユウゾだ。……ショーコは何の疑いも無く、そう思い込んでいた。おそらく、城の召使たちや国民たちも。 

 父王の言葉に、この、今、夢にみている場面が現実だったあの時、ショーコは驚いた。

 父王はショーコを王にと考えた理由を2つ挙げる。 

 1つは性格。

 この場面より少し前、ショーコとユウゾが共に受けた王位継承者候補としての学習の中で、他国の紛争で犠牲になった乳飲み子の実話を取り上げた。その際、心優しいユウゾは涙し、悲しみに暮れ、平和を祈った。対してショーコの反応は、悲しみより、むしろ怒り。如何にすれば幼い命が犠牲にならずに済むのか考えた。そのショーコの反応は、出来ることがあるならば実行するということを意味すると、その時の学習内容の報告を後から担当の家庭教師より受けた父王は、受け取ったらしい。 父王は、君主の務めを、国民を幸せにすることであると考えている。そのためには平和な暮らしが第一、と。それ故、父王はユウゾの反応についても否定はしない。平和を祈る気持ちが無ければ、世の中は平和になどならない。この世に生きる全てのものが優しい気持ちで他者と接し、心から平和を望んだとき、初めて、本当の平和が訪れる。平和への祈りも優しい心も、とても大切であるためだ。とは言え、優しいだけでは何も守れず祈るだけでは何も変わっていかないのが現実。父王は、ショーコの前向きで行動的な性格を買ったのだ。

 もう1つは、能力の種類による向き不向き。

 月空人は皆、月空力げっくうりょくと呼ばれる能力を持っている。特に、王家の者の月空力は強い。月空力はバリエーションに富んでおり、それぞれ違うため、同じ王家の姉弟の能力を力の強さという観点で比べることは不可能だが、父王は、単純に、能力の派手さから、ショーコのほうが王に向いていると判断したらしい。時々は派手な能力で力を顕示する。王にはカリスマ性も必要と、父王は言う。父王自身の月空力のタイプがショーコと同じく派手なタイプであるため、余計にそう考えるのだろう。

 ショーコは父王の挙げた理由に首を傾げた。

 性格については、本当にショーコが父王の考えているとおりの性格だとしたら頷けもするのだが、父王は、完全に勘違いをしている。ショーコは、前向きでも行動的でもない。先の学習の際の怒り、如何にすれば幼い命が犠牲にならずに済むかとの考えは、その場だけのものだった。と、言うより、その怒り自体が、学習の時間を遣り過ごすためポーズ……? のような……。子を持つ母となった現在のショーコであれば、もう少し違ったであろうが、当時のショーコは、気の毒な話だ、くらいに思った程度。正直、顔や態度に出るほどの強い感情は湧かなかった。ただ、何かしらの反応を見せなければならないような気がして……。

 一方、ユウゾは、おそらくポーズなどではなかった。学習の時間だけでなく、学習の時間が終わった後も、悲しみに暮れながらも1歩踏み出し、ショーコがポーズで口にしただけの、「如何にすれば幼い命が犠牲にならずに済むか」をテーマに、真剣に考え続けていた。父王の望む、前向き、という性格に近いのは、ユウゾのほうではないのか。……もっとも、ショーコは、父王から、この、次期王位についての話をされるまで、自分はユウゾの学習に付き合わされているだけであると思っていた。自分もきちんとした王位継承者候補であると知っていれば、もっと真面目に取り組んでいたかもしれないが……。

 前向き・行動的という性格を抜きに考えたとしても、ユウゾが子供からお年寄りまで多くの国民から慕われている事実は無視できない。

 能力の面でも、ショーコは、自分の派手な能力より、地味だがユウゾの能力こそ王に相応しい能力でははいかと思う。ショーコの能力は、物に直接手を触れずに動かすタイプの能力。目にはっきり見えるため派手だが、便利なだけの能力だ。無ければ無いで自分の体を動かし、場合によっては道具を使い、同じことを行えばよいだけのこと。当然ショーコのものよりは弱いが、似たようなタイプの能力を持つ人は大勢いる。だが、ユウゾのようなタイプの能力は、非常に珍しい。と、言うより、おそらく他にいない。ユウゾの月空力は、人の心を癒す。ユウゾにそっと手を握られるだけで、怒りや悲しみはどこかへ行ってしまう。ユウゾの微笑みひとつで、満ち足りた幸せな気分になる。比較的分かりやすい能力としては、一瞬で他人を眠らせたり、他人の記憶を操作したり……考えようによっては恐ろしい能力だ。だからこそ、優しく穏やかな性格のユウゾが持って生まれてきたのではないかと思う。能力を正しく使い、未来の青の国を幸せに導くため王家に生まれた、生まれながらの王者なのではとさえ思える。 

 自分よりユウゾのほうが王に向いている。ショーコは、所詮は夢の中だが、現実のあの時と同じく、父王の顔色を窺いつつ、しかし、キッパリと、

「父上。私は自分よりも、ユウゾのほうが王に相応しいと考えます。国民も、女である私を王とは認めないでしょう」

 青の国民は、伝統を重んじる向きがある。

 父王は、ウム、と低い声で頷き、

「国民の反応については、私も考えた」

それから一呼吸置いて、

「そこでだ。お前に、地表界に行ってもらいたい」

唐突な言葉が続く。

 現実のあの時には驚いたショーコだが、今回はもう2度目のため驚かない。無論、地表界へ行く理由も知っている。

 父王は、もともと地表界びいきであった上に、数年前、忍んで地表界へ1人旅をした際、地表界に住む人……地表人ちひょうじんから多大なる恩を受けたという。

 この夢の当時、地表界の、父王が恩を受けたという人が暮らす、丁度、風の縁の真下に位置する地域一帯は、日空界にっくうかいによる侵略の危機に瀕しており、父王は、何とかしたいと考えていた。しかし、自分は病床にある。そのため、ショーコに地表界へ行き、日空界から送り込まれた軍隊を退却させるよう命じたのだ。それだけのことが出来れば、国民もショーコを認めるであろう、と。

 王位の件はさて置き、ショーコは、病床の父王を気遣って地表界侵略の阻止を引き受け、この後、地表界に向かうことになる。



 日空界とは、月空界とも地表界とも次元を異にする世界。存在する正確な位置は分かっていないが、そこの住人である日空人にっくうじんを、侵略の危機以前から、頻繁に、地表界上空で見かけることがあったらしい。

 月空人が黒い翼を持ち、黒髪、こげ茶色の目、黄色がかった肌色をし、口から音声として言葉を発して会話するのに対し、日空人は白い翼に金髪、青色の目、白い肌、と、全体的に色素の薄い外見で、白い一枚布を全身に巻きつけただけのような変わった服装をし、特定の言語を持たず、頭の中に直接語りかけてくる。

 ショーコは、あまり日空人が好きではない。この夢の当時の時点では、そのように考えてはいなかったが、この後、地表界へ行き、日空人と会話を交わし、その気質故、そう思うようになった。勘違い気質とでも言おうか、自分たち日空人が、異なる次元も含めた全ての世界のリーダーであるとでも思っているようだ。

 地表界侵略に関しても、そう。日空界には大地が無く、人々は特殊な方法で固めた雲の上で生活していると聞く。大地が無いのだから、日空界の農作物は、全て水耕栽培であると思われる。大地で育まれたほうが美味しい種類の作物は多いだろう。地表界へ出掛けた青の国民が地表界上空で見かけた日空人のほぼ100%が地表界産の農作物を手にしていた点からの憶測に過ぎないが、日空人は大地で育まれた作物を好み、大地を欲している。日空界が地表界を狙う理由をそう考えたため、ショーコたち王家の者も含め、青の国民は、日空界による地表界への一方的な攻撃を侵略と呼んでいた。……そのほうが、まだまともに思える。この後、ショーコが地表界で出会う日空界の軍人たちは、自分たちが地表界に攻め込んだ理由として、

「地表界ハ環境・治安トモニ悪化ノ一途ヲ辿ッテオリ、ソノ影響ハ他ノ次元ニモ及ビカネナイ。全テノ世界ヲ守ルタメ、人格的ニモ技術的ニモ先進シテイル我々ガ指導スベキ」

との大義名分を掲げ、本気でそう考えているようだった。ただ、更に後になって、地表界における日空界の軍隊の責任者と話す機会があり、大義名分は間違いなく国としての方針だが、地表界の大地を手に入れることについて、全ての世界を守るために戦ったことに対する当然の報酬と位置づけ、当初から大地を手に入れることが念頭にあったと知ることになった。結局は侵略だった。しかし、侵略と知れば異を唱える者が現れるためだろうか、一般の軍人には伝えていなかったのだ。だが、話してみて、やはり、その勘違い気質が、どうしても本物であるとも知った。


 悪いことに日空人は、地表人の思い描く神の御使いたる天使に、姿が似ている。そのため、日空界の地表界侵攻はスムーズに進んでいた。

 事態は急を要する。

 ショーコは、バアヤの手を借りて大急ぎで、携帯できる簡単な食糧と飲料水・父王が地表界を旅行した際に使用した日本の通貨の残り・汚れたり破けたりした時のための着替えを1組、と、最低限の荷物をナップサックに詰め、出来るだけ目立たない服装をとの考えから、父王からの地表界土産……それまで一度も袖を通したことのなかったTシャツとジーンズに着替え、最後に、ショーコが降り立つ地表界の地点は寒い季節であると聞いたため、上にコートを羽織って仕度を済ませた。




                    *



 風の縁から、ショーコは飛び下りる。

 どういった仕組みかは分からないが、風の縁から飛び降り重力に任せて5秒経過した地点で1回宙返りすることで、月空界の次元と地表界の次元の間にある壁のようなものを越えられると、先人が偶然気づいたそうだ。

 ショーコも、下からの風に邪魔されながらクルッと1回転。直後、眼下の景色が変わった。月空界の次元では海のはずの場所に陸が現れた。……日本だ。

 頬を打つ風が冷たい。耳が千切れそうに痛い。ショーコは翼を使ってスピードを徐々に緩めながら、地上に降り立つ。

 地表界に於いて黒い翼は良いイメージではないため 地表界に着いたら先ず翼を仕舞うように、との父王の言葉に忠実に従った現実の時と同様、ショーコは真っ先に翼を仕舞った。

 この夢の時点のショーコにとっては初めての地表界。だが、今のショーコにとっては、降り立ったその場所は、特に珍しくなどない場所。自宅から歩けないこともない距離に在る寂れた商店街。祭りの時は歩行者天国になるため一時的に賑わう、(慎吾曰く)元・繁華街だ。

 車が1台も通らない。歩いている人も1人もおらず、いつもにまして静か。崩れた建物がいくつも見受けられ、電柱も倒れ、道路標識のついたポールが根元から折れ、車道の真ん中に転がっている。 空き缶や枯れ葉、シワになった新聞紙なども散乱する、そんな元・繁華街を、ショーコは歩道に立ち、何の気なく見回す。 現実の時のショーコは、もの珍しさと状況把握のためキョロキョロしていた。

 その時、

「見タゾ! 」

ショーコの頭の中に直接、誰かの声が響いた。

 ショーコは声の主を捜して視線を走らせる。

 バサバサッという羽音。

 羽音のしたほうにショーコが目をやると、丁度、ショーコの立ち位置から車道を挟んで向かい側、2階建ての楽器店の上に、背に白い翼を持つ5人の人物。日空人だ。全員が20代前半と思われる(日空人が、月空人や地表人と同じような成長過程をとるかどうか不明なため、また、仮に同じであったとしても、年齢の数え方が同じとは限らないため、実際の年齢は分からないが)、若そうな日空人。

 ショーコは咄嗟に身構える。

 日空人たちは、ゆっくりとショーコの前、車道中央に舞い降り、そのうちの1人が、

「オ前ハ、月空人ダナ? 」

ショーコの頭の中に語りかけてきた。

 そこへ横から、革のブルゾンにジーンズ姿、茶色い短髪の、見覚えのある広い背中が、ショーコと日空人との間に割り込んで来、

「逃げろっ! 」

肩越しに振り返った。少し若いが、慎吾だった。

 日空人たちは、ショーコと同じような、手を触れずに物を動かす能力を持っており、崩れた建物の大小の瓦礫やその辺に転がっている空き缶などを、その能力で、前面に立つ慎吾に向け、手当たり次第に投げつけてきた。

(あ、同じ……)

今のところ この夢は、自分の意識が作用している部分以外、現実の時と全く同じであると、たった今、ショーコは気づいた。

 現実の時のショーコは、この場面では、慎吾を戦いの邪魔としか感じず、彼の前に割り込み返して背に庇い、少々乱暴に、

「それは、こっちの台詞! 逃げなさい、地表人っ! 」

などと言い放ってから日空人に向かって行った。

 しかし今は、慎吾が日空人と戦うのに充分な能力を持っていると知っており、また、夢の中ということもあって、日空人に立ち向かって行く彼を、後方から安心しきって眺める。

 慎吾は、日空人が投げつけてきた瓦礫などを掻い潜り、日空人まで50cmというところまで間合いを詰めると、素早く、足下に転がっていた標識のついた重そうなポールの端、標識のついていない側を両手で掴み、持ち上げ、力任せに振り回して、5人のうち4人をいっきに薙ぎ払った。

 4人は地べたに蹲る。 残る1人は寸前でポールをかわし、慎吾の頭上に舞い上がって、2階建ての建物の屋根の高さと同じくらいの高さで静止。

 慎吾は、その、宙に静止しショーコと慎吾を見下ろしている日空人を仰ぎ、睨みつける。 

 ショーコが背後でゴトンと音のしたのを聞き、

(? )

振り返ろうとした、瞬間、その音の正体であろう物がショーコの頬をかすめて慎吾の後頭部めがけ、勢いよく飛んでいった。

 それは、枯れかけたアロエが植えられた大きく重そうな鉢だった。 ショーコは慌てて、月空力で鉢を割る。

 自分を狙う気配を感じ取ったらしく振り返った慎吾は、目の前で勝手に鉢が割れるのを目撃し、それがショーコの仕業であると気づいたようで、ショーコを見、目を丸くした。

 ショーコは、割った鉢の破片を全て、宙に浮かんでいる日空人に向けて飛ばす。

 破片は日空人の服を裂き、肌や翼を傷つけた。

 日空人は痛そうに顔を歪め、自分を抱きしめて地面に降り、頭の中に直接であっても、苦しい時はやはり苦しげになるらしく、

「…我々ハ、オ前ガ地表界ニ来タ目的ヲ確カメ、警告シヨウトシタダケダ……。 地表界ハ環境、治安トモニ悪化ノ一途ヲ辿ッテイル。ソノ影響ハ他ノ次元ニモ及ビカネナイ。 全テノ世界ヲ守ルタメ、人格的ニモ技術的ニモ先進シテイル我々ガ指導スベキナノダ。我々ノ邪魔ヲスルナ、ト。 …ダガ、今ノデ オ前ノ立場ハ ハッキリシタ。死ヌ、ガ、イイ……」

途切れ途切れ伝えるだけ伝えると、ガクンと膝を折った。

 ショーコが地表界に来た目的など気にするということは、この5人の日空人たちは軍人だったと考えられる。

(ホント、どうにかならないのかな? この勘違い気質って……)

ショーコは小さく息を吐いた。

 そこへ、四方八方から羽音が、初めは遠く、次第に近く。 

 羽音に空を仰いだショーコの視線の先、ショーコと慎吾を囲むように、宙に円を描く形で、後から後から、日空人が集まって来る。

 数秒後、集まりきった最終的なその数は、ざっと30人を超えている。が、ショーコの知る限り、たまに例外はあるが、日空人は30人集まってもショーコの敵ではない。現実の時にも、地表界に来て早々、同じくらいの人数に同じように囲まれ戦ったが、傷ひとつ負わなかった。

 現実の時には、新たに集まってきた日空人について、最初の5人より強いのではと警戒し、初めのうちは様子見をしながら戦い、その力の程を見極めた後で本気を出して一蹴したショーコだったが、今回は、その力量を分かっているため、最初から本気。いっきに片をつけることにした。

 本気の力を出そうとすると、どうしても、仕舞ってあった翼が飛び出してしまう。

 ショーコは翼を動かし、宙に舞い上がって、日空人たちと目の高さを合わせた。そして一度、深く息を吸い、腕を左右に突き出して、

「ハアッ! 」

声とともに、右足を軸に回転。月空力で、周囲にいる日空人たち全員を、いっぺんに攻撃。

 ある者は姿が見えなくなるほど遠くまでふっ飛び、またある者は翼に強いダメージを受けて地に落ちる。

 深手を負いながらも辛うじてその場に留まっている数名に向かい、

「私は月空界・青の国の王女、ショーコです。我が父・青の国の王の命を受け、日空界の軍隊の方々に 地表界より引き揚げていただけるようお願いに参りました。あなた方の上官に伝えて下さい。今すぐ、地表界から撤退されるように、と」

そこまでで一旦、言葉を切り、挑む感じで目に力を込め、声は低く、

「これは、警告です」

ショーコの口から、静かに、自然に、現実の時と一言一句変わらない台詞。

 言い終えてから自分で驚き、口元に手をやるショーコ。そして、思った。この夢の中では、特に意識しなければ、自分の言動さえも現実の時と全く同じに進んでいくのかも知れない、と。

 その場に残っていた数名の日空人たちは、怯えた目でショーコを見ながら2・3歩後退り。逃げるように飛び去った。

 ショーコが地面に降りるべく下を見ると、慎吾が呆然とショーコを見上げていた。






 ショーコは、慎吾が1人で暮らす県営団地の一室、現在ショーコの自宅である部屋に世話になり、暫く地表界に滞在することにした。

 ショーコは、慎吾が日空人を地表界(地表人は、自分たちの住んでいるこの地を、地表界、とは呼ばないらしいが)から撤退させるという、ショーコと同じ目的を持って活動していると聞いた。先にも触れたが、日空人は、地表人の思い描く神の御使いたる天使に姿が似ているという理由から、スムーズに侵攻、多くの地表人を何処かへ連れ去っていた。日空人が甘い話で誘えば、一部の地表人は簡単について行く。残りの単純でない多くの地表人には、目の前で、天罰と称し、地表人からしてみれば不思議な日空人の持つ能力を使い、大きめの建物の1つでも破壊して見せれば、大人しく従うようになるというわけだ。慎吾は疑問を持ち、抵抗した。慎吾はどちらかと言えば単純なほうだが、神の使いが暴力で人を従わせようとすることに、どうしても違和感があったのだ。慎吾は自分と同じ考えを持つ人々を集め、自分をリーダーとして日空人に抵抗するグループを結成し、日空人が地表人を連れ去ろうとしているところを邪魔したり、日空人の行く先を阻んだり、日空人について「神の御使いなどではないから、ついて行くな」といった内容のビラを撒いたりと、細々と抵抗を試みてきた。日空人は、抵抗する者に容赦ない。当初、慎吾を含め20人いたメンバーは、作戦の中で次々と、その尊い命を落とし、ついに慎吾が残るのみとなってしまった。目的として掲げていても、慎吾にとって、日空人を撤退させるなど、夢のまた夢だった。しかし、ショーコの戦いぶりを目の当たりにし、この人の協力が得られれば夢が現実になると確信したと話してくれ、協力してくれるのであれば、必要であれば、自分の部屋を提供すると申し出てくれたのだった。ショーコにとっても、先程の警告くらいで日空人が撤退するとは思えず、(この夢の時点では)勝手の分からない地表界で戦いを続けなければならないのであれば、地表界に住む人の協力は有り難い。また、月空界から地表界に行くには重力に任せればよいだけで何も大変なことは無いのだが、逆は自力で昇って行かなければならず、何度も行き来するのは辛いと想像できたため、慎吾の家に身を寄せることを決めたのだった。


 玄関のドアを開けて入る慎吾に、ショーコは続いた。

 家の中は、玄関からして現在と比べてかなり殺風景で、当然のことだが、玄関の正面奥の開け放たれた襖の向こうに見える6畳間にも、玄関からは見えないがその隣、襖で仕切られた4畳半にも、貫太と清次はいないのだろう、玄関を入って左手側の台所の冷蔵庫の音がハッキリと聞こえるくらい静まり返っている。何となく違和感。ああ、そうだ、こんな感じだった、と、今も同じ家に住んでいるにもかかわらず、懐かしくも感じ、ショーコは周囲を見回す。

 慎吾が靴を脱いで玄関を上がり、右手側の襖を開け、

「この部屋、オレ、使ってないから、自由に使っていいよ」

 そこは3畳間。現実だった時にもそうだったが、使っていないどころか、物置にすらなっていない。

 慎吾が6畳間に入って行くのを待って、ショーコも靴を脱いで上がり、3畳間に入って襖を閉める。

 隅に月空界から持ってきたナップサックを置き、ガランとしすぎていて何となく居心地の悪い3畳間の真ん中に腰を下ろしながら、ショーコは、現実の時には考えなかったことを考えた。さっき日空人たちに対して、自分は月空界・青の国の王女であると名乗り、自分が地表界へ来たのは王の命によるものであると発言したが、それは不味かったのではないか、と。王の名を出してしまえば、国対国の問題になってしまう。自分はただの月空人の娘で、自分の考えのみで地表界に来たのだということにしておくべきだったのではないか、と。考えてみれば、父王は「君主の務めは国民を幸せにすることであり、そのためには平和な暮らしが第一」との考えを持っていながら、何故、自己中心的に過去の恩に報いる道を選んだのだろうか。何故、日空界との間に争いの種を蒔くようなことをしたのか。日空界とは国交も無く、月空人が日空界の在る場所を知らないのと同様、日空人も月空界の在りかを知らないと思われるが、万が一、日空人が月空界の場所を何らかの方法で突き止め、攻め込んでくれば、父王が第一に考えていた青の国民の平和な暮らしは壊れてしまう。月空界の他の3国に被害が及べば、その3国との関係も危うくなってしまう。過去に恩を受けたとは言え、国交が無いのは地表界も同じだ。放っておいても何ら問題は無かったはず。関わりあいにならないほうが良かったのではないか。……父王の考えはどうあれ、自分が青の国の王女であると名乗ってしまったことは、あまりに軽率だったと、今になって思う。何も考えていなかった。怖いものなど何も無かった。若かったのだな、と思う。それに比べ、今は、本当に怖いものだらけだ……。

 ショーコは小さく息を吐き、首を横に振るう。

(…今さら気にしてもね……。実際に言っちゃったのは、6年も前だし……)

 親友が、時々、青の国の様子を知らせてくれるが、幸いなことに、ショーコの軽はずみな発言の影響は無かったようで、平和な日々を過ごしているらしい。



                  *



 対日空人の戦いは、ショーコの予想以上に長引いた。

 ショーコは、地表界に出発する前から、自分がどう戦うか決めていた。

 日空界の軍隊がどれほどの規模のものか分からないが、こちら側は自分ひとり。数の上で不利であることは分かりきっている。予定外に慎吾が味方についたが、やはり人数的に不利であることに変わりは無い。と、なれば、とるべき戦法は1つ。日空軍の陣地を突き止め、目標を軍の最高責任者1人に絞る。出来れば話し合いで、それが無理であれば力ずくで、軍を引き揚げてくれるよう責任者を説得するのだ。 

 ただ、実際に地表界に来てすぐ、話し合いは不可能かもしれないと感じた。自分を助けようとしてくれた慎吾の身を守るためショーコが日空人を傷つけたことで結論を急ぎ、攻撃を仕掛けてくるような人種と話し合いなど出来るわけがない。日空人が皆そうとは限らないが、その時の相手は、上の命令で動く軍人だ。30人という人数のうち1人として異論を唱えなかったということは、命令に忠実に従っての行動であったと考えるのが自然。つまり、ショーコが、出来れば話し合いでの解決を、と望んでいた相手である日空軍の責任者が、話しの出来ない人物かもしれないということになる。

 話し合いなのか力ずくなのか、手段はとりあえず置いておき、先ずは陣地を突き止めなければならないのだが、これが苦労した。

 当初の計画では、日空人が1人でいるところを捕まえて陣地の場所を聞き出すはずだったが、実行に移したところ、捕まえた日空人に、答えを得る前に自殺されてしまい、その方法に慎吾が強い拒絶反応を示したため、急遽変更。尾行で突き止めることにした。

 頭の中に直接語りかける方法で会話する日空人には、近くで何かハッキリと考え事をしていたりすると聞こえるらしく、尾行は困難。それでも、他に方法が考えられないため、出来るだけ無心になって、ショーコは空(初めのうち、ショーコは良いイメージではい黒い翼を気にして徒歩だったが、スピード面でどうにもならず、日空人を退却させればすぐに青の国へ帰る身だからと開き直り、翼を使うことにした)、慎吾は自転車に乗り地面の上で、それぞれ幾度も尾行を繰り返す。

 抵抗する者に容赦ない日空人だが、先の戦闘でショーコの力量を知ってか、尾行に気づいても撒くだけにとどめ、一切、攻撃してくることはなかった。




                  *



 ショーコが地表界に来てから3ヵ月が経過した頃、ようやく、慎吾の家より翼で飛んで30分ほどの場所に建つ公立小学校を、日空軍が陣地としているのを、ショーコが見つけた。

 その時までに、地表人は見事なまでに日空人によって連れ去られ、少なくとも、慎吾の家の周辺では、全く地表人を見かけなくなっていた。

 陣地を突き止めても内部の様子など全く分からず、作戦をたてようがないため、即日、ショーコと慎吾は乗り込むことにした。

 移動手段が自転車の慎吾にとって、家から日空軍の陣地への道のりは遠い。ショーコは、自分が飛びつつ慎吾を月空力で飛ばせて、陣地へと向かう。



 日空軍の陣地上空に到着し、陣地を囲うフェンス内側にゆっくりと降りたショーコと慎吾は、あっという間に50人ほどの日空人に囲まれた。

 ショーコは自分たちを囲む日空人たちを見据えつつ、慎吾に向かい、

「伏せてっ! 」

慎吾が素早く地面に伏せるのを目の端に確認し、左右の腕をそれぞれ真横に突き出し、

「ハアアッ! 」

右足を軸に回転。月空力で、日空人50人をいっきにふっ飛ばした。

 回転を止め、小さく息を吐くショーコ。

 慎吾は身を起こし、近くに仰向けに転がった日空人に歩み寄って、片膝をつき、その顔を覗き込む。

 覗き込まれた日空人は、恐怖からか飛び上がるように上半身起き上がり、いざる格好で後退り。

「ここの責任者は、どちらにいらっしゃいますか? 」

との慎吾の言葉に、その日空人は後退りを続けながら、震える手で校舎を指さした。同時に、その日空人のものらしい、パニック状態、完全意味不明の声が、ショーコの頭の中に響く。どうやら日空人は、近くでハッキリと考え事をしている人の思考が聞こえるのと同様、日空人のほうも、興奮し、大声(? )で何かを考えると、伝える意思が無くとも周囲の人に伝わってしまうようだ。  

 直後、その日空人は、体の中身を全て吸い取られたようにフウッと目を閉じ、一瞬ユラッと不安定になった上半身は、再び、力なく空を仰いだ。

 慎吾はショーコを見、親指を立てて校舎を指し、

「あの中だって」

立ち上がって校舎のほうへ向き直る。

「行こう」

ショーコは頷き、慎吾の横に並んで校舎へと歩いた。



 昇降口を入ると、8人の新手の日空人が、ショーコと慎吾の行く手を阻んだ。

 ショーコは、すぐに動けるよう身構え、その隣で慎吾は、昇降口を入ってすぐの壁に立て掛けてあった、昇降口の清掃に使用すると思われる1.2メートルほどの柄のワイパーを逆さに掴み、構えた。

「コレ以上進マセルナッ! 」

興奮している日空人の声は、頭痛がしてくるくらいの大音量で、ショーコの頭の中に響く。

 8人を倒して進んだ後も、ポイントポイントで現れる日空人たちは、皆、一様に興奮し、頭の中への直接の大音量で、的確に、ショーコたちを責任者のもとへ導いた。

「階段ヲ上ラセルナ! 」

「4階ヘ行カセルナ! 」

「左ニ行カセルナ! 」

「音楽室ニ行カセルナッ! 」



 階段を4階まで上り、階段から見て左手側へ進むと、突き当たりに音楽室はあった。

 ショーコは、いっきにドアを開け放ち、音楽室内へ踏み込んだ。慎吾が、すぐ後ろに続く。

 音楽室の中では、強めのパーマがかかった短髪の日空人が1人、窓辺に立ち、オレンジ色に染まり始めた窓の外を眺めていた。

 窓辺の日空人が、ショーコたちを振り返る。年齢は30歳くらい(やはり、実際の年齢は分からないが)に見えた。

 ショーコ、

「あなたが、地表界における日空界の軍隊の責任者ですか? 」

 窓辺の日空人は頷き、

「指揮官ノ、ターク デス」

「私は……」

ショーコが自己紹介しようとしたのを、指揮官・タークは、両手のひらを見せ、止めた。

「ソチラノ地表人ノ青年ハ存ジマセンガ、アナタノ事ハ、部下カラ聞キ、存ジ上ゲテオリマス。月空界・青ノ国ノ姫君、デスネ? ゴ要件モ存ジテマスガネ……」

そこまでで一旦、ショーコの頭の中へ流れ込んできていたタークの言葉は止まる。タークは表情を隠すように下を向いた。

 と、すぐ次の瞬間、タークは腰に差してあった小剣を抜き、逆手に持ってショーコに襲いかかった。踏み込みが速い。

 一瞬で間合いを詰められ、ショーコはギリギリ皮一枚でかわす。

 これまで戦った日空人たちとは、明らかにレベルが違う。

 素早く体勢を立て直し、タークは再びショーコに切っ先を向けた。

(避けきれない! )

固まるショーコ。

 慎吾が、ショーコを後ろから二の腕を引っ張って強引に自分の背中に隠し、ワイパーの柄で、タークの小剣を握る手を打つ。

 タークは小剣を床に落とした。

 すかさずショーコが、月空力でタークを壁に叩きつける。

 壁からズルッと床に崩れるターク。

 ショーコは軽く息を吐いた。

 タークは補助的に床に手をつき、ガクガク震える脚で立ち上がろうとするが、出来ずに膝をついた。

 ショーコはタークに歩み寄り、片膝をついて視線を合わせる。

「殺すつもりはありません。地表界の人々を解放し、軍を退いて下さい」

 タークは無言で視線を逸らした。

 ショーコ、背後に気配を感じる。タークが他の日空人と同様の、手を触れずに物を動かす能力で、ショーコの背後の机を動かし、ショーコに狙いを定めていることに気づいたのだ。

 慎吾も気づき、

「ショーコさん! 危ないっ! 」

叫ぶ。

 同時、ショーコはタークを見据えたまま、月空力で、背後の机を出来るだけ派手に破壊した。

 先程、タークに小剣を向けられた時には、本気で危なかったのだが、ショーコ、

「無駄です。あなたは、私たちに勝てない」

視線に力を込め、はったり。

 タークはガックリと項垂れ、

「何故、全テノ世界ノ タメニ戦ッテイル我々ノ邪魔ヲ スルノデスカ? 」

 ショーコはその問いには答えず、逆に問う。その大義名分は、先に戦った軍人も語っていたが、国としての方針なのか、自分たち青の国民は、日空人の地表界への攻撃を、大地を手に入れるためのものと考え、侵略と位置づけていたが、それは完全な間違いなのか、と。

 タークの答えは、

「全テノ世界ヲ守ルタメノ戦イ デス。大地ハ当然ノ報酬デス」

 ショーコは、軽く吐き気を覚えた。



 その後すぐに、ショーコと慎吾の立ち合いのもと、地表界の人々は解放され、日空軍も去り、ようやく、対日空人の戦いは終わりを迎えたのだった。



                *



 一度、慎吾の家に戻って荷物をまとめ、月空界に帰るため、ショーコは、慎吾の家のベランダに出た。

 慎吾も、見送りに出る。

 慎吾、

「本当に、ありがとう。元気で……」

 返してショーコ、

「こちらこそ、ご協力、感謝します。お元気で……」

 別れの言葉を交わしたものの、別れを惜しんで慎吾を見つめるショーコ。数分の後、思い切り、

「じゃあ……」

背を向けた。

 だが、すぐに肩越しに振り返り、

「あの……」

「ん? 」

「あのね……」

言おうとして、躊躇う。

 実は、1週間ほど前から、ショーコは、自分の体の異変に気づいていた。

 妊娠している、と。

 物に手を触れずに動かす能力に比べ、一応持っている、程度の弱い能力であるが、ショーコは、透明でない入れ物に手を触れることで、その中身を透かして見る能力を持っている。

 少し体調を崩していた1週間ほど前のある日、ショーコは何の気なく自分の下腹部に触れ、見たのだった。……腹の中に、自分とは別個の生命体が存在しているのを。

 まだ、小さな小さな、しかし、もう、しっかりと人間の形をした、胎児だ。

 間違いなく、慎吾の子供。

 慎吾に言うべきかどうか、この1週間、ずっと悩んでいた。

 自分と慎吾は、同志以外の何ものでもない。

 あの夜、成り行きで、一度限りの関係を結んだだけなのだから……。




 ショーコが地表界に来てから丁度1ヵ月が経った日の、あの夜、昼間の出来事のショックから慎吾が眠れずにいるのを、ショーコは気配で感じ、気になって寝つけなくなってしまっていた。


 昼間、地表界の少女が1人、ショーコと慎吾の目の前で命を落とした。

 日空軍の陣地を突き止めるため、慎吾が尾行をしている最中の出来事。

 慎吾と別行動をしていたショーコが、その場に居合わせたのは、偶然だ。

 尾行するにあたって、ショーコと慎吾、2人で決めた決まり事が、1つだけある。

 それは、尾行にのみ徹すること。

 向かう先は陣地であろうとの推測から、日空人が地表人を連れている時を狙って尾行していたのだが、連れて行かれる人を助けようとしてはならない、ということだ。

 理由は、抵抗する者に容赦ない日空人たちが、捕まえた地表人が逃げようとした時、どんな酷い仕打ちをするか分からない、最悪の場合、殺すことも考えられるため。

 連れて行かれた後も、どんな仕打ちを受けているか分からないが、生き延びていてくれると信じ、地表界における日空軍の最高責任者に解放を求める方法が、最も安全であると考えたからだ。もっとも、連れて行かれる途中の地表人の多くは、納得の上で連れて行かれているため、何処の何者とも知れないショーコや慎吾が助けようとしたとしても、素直に助けられてくれないであろうが……。

 ただ、昼間の少女は違った。

 慎吾は、少女を片腕で抱えて海の上を飛んでいる日空人を、海沿いの道、自転車で追っていた。

 ショーコは、自分が追っていた、地表人を連れた日空人に撒かれ、諦めて、新たに追うべき日空人を探している最中だった。

 少女は慎吾を見つけ、助けを求めた。

 悲痛な声で叫び、日空人の腕の中でもがき、慎吾に向かって腕を伸ばす。

 一瞬、日空人が不快な表情を見せたような気がした。

 直後、日空人は空中に直立の姿勢で静止し、無表情で、体ごと慎吾を振り返った。

 おそらく状況が掴めず、警戒する意味で停まり、自転車から降りた慎吾。

 日空人は徐に少女の頭に手をのせた。そして、横方向に力を加える。

 鈍い、嫌な音がした。

 少女の頭と四肢は力を失い、ダランと垂れた。

 日空人が少女を抱える腕を放すと、少女は人形のように海へ。

 慎吾は自転車を放り出し、素早く服を脱ぎ捨てながら、おそろしく冷たいはずの海へと走り、飛び込んだ。

 日空人は、宙に止まっているショーコを一瞥してから飛び去った。

 ショーコは、慎吾が飛び込んだ地点、狭い砂浜の上に降り、慎吾が脱ぎ捨てた服を拾い集め、両手で抱えながら水面を見つめる。

 ややして、少女を抱えた慎吾が海から戻った。

 砂の上に少女を寝かせ、慎吾は思いつめた表情で、少女の鼻に手のひらを近づける。次に胸に耳を当て、最後に、首に手で触れた。

 慎吾の目から、パタパタと涙が零れる。

「…ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……、ゴメン……」

全身を震わせながら、かすれた声で小さく繰り返す慎吾。

 少女は、首の骨が折れていたのだった。


 その場を動こうとしない慎吾を、ショーコは、夕暮れ時になってやっと、何とか家まで連れ帰った。

 家に帰ってからも、慎吾は食事も摂らず、6畳間に籠りっきり。

 夜、ショーコが床に就き、静かに横になっていると、6畳間で慎吾が溜息を吐くのが時々聞こえ、それは、夜中になっても続いた。

 ショーコは悪いと思いつつも、6畳間と3畳間の間の壁に手を触れ、慎吾の様子を窺う。

 カーテンが開けっ放しのため外から入ってくる薄明かりの中、窓際のベッドの上で、慎吾は膝を抱えていた。

 ショーコは、ふと思いつき、台所に立って、片手鍋でミルクを温める。

 昔、ショーコが落ち込んで自分の部屋に閉じこもっていた時に、バアヤが温かいミルクを持ってきてくれ、そのおかげで少し気持ちが落ち着いたことを思い出したのだ。

 ミルクを慎吾のカップに注いで持ち、閉まっている6畳間の襖の前で、ショーコは慎吾の反応を気にしつつ、そっと、声をかける。

「シンゴさん、開けていい……? 」

 慎吾の応答は無いが、入ってくるなという空気も感じられない。

 ショーコ、

「入るよ……? 」

静かに襖を開けて、慎吾に歩み寄り、

「ミルクを持ってきたの」

慎吾にカップを差し出した。

「飲んで。温まるから……」

 慎吾は受け取り、沈んだ声で、ショーコと目も合わせず、

「…ありがとう……」

 ショーコは、慎吾がひと口飲むのを見届けてから、

「おやすみなさい」

3畳間に戻ろうと、慎吾に背を向け、襖へと歩いて、襖に手をかけた。

 と、

「ショーコさん」

 名を呼ばれ、ショーコは振り返る。

 慎吾は、カップを手にしたまま、ベッドの縁に畳の上に足を下ろす形で座りなおし、ショーコを真っ直ぐに見ていた。

「少し、話さない? 」

 小動物のような臆病な瞳で縋るように見つめられ、ショーコは首を横に振ることが出来ず、自分と話すことで少しでも気が紛れるのなら、と、慎吾の隣に腰を下ろした。

「…昼間の女の子、歳はもっと上だけど、最初に犠牲になったオレの仲間に、よく似てたんだ……」

慎吾は宙を見据え、ポツリポツリと話す。

「仲間が犠牲になるまで、オレたち、分かってるつもりで、本当は、全然分かってなかった……。大きな勢力に抵抗するって、どういうことなのか……」

慎吾は小さく息を吐き、視線を落とす。

「…本当に、そっくりだった……。オレに向かって腕を伸ばして、『助けて』『助けて』……。…また、助けられなかった……」

そしてギュッと目を瞑った慎吾の表情は、見ているショーコまで辛くさせた。

 ショーコは立ち上がって、慎吾の正面に回り、心の中で、

(ユウゾ、今だけ、ユウゾの能力を貸して)

呟き、そっと腕を伸ばして、慎吾の頭を自分の胸に引き寄せる。

 慎吾の全身の筋肉が、ビクッと緊張したのが分かった。

 しかし、ショーコが静かに慎吾の髪を撫でると、その緊張は、スウッと解けてなくなった。

 カップが畳の上に転がる。

 ショーコがカップに気をとられた瞬間、慎吾はショーコのウエストに腕を回し、そのままベッドに押し倒した。

 ショーコは驚いたが、拒もうとはしなかった。

 初めてだった。

 だが、慎吾ならいいと思った。

 組み敷いた形でこちらを見下ろす慎吾に、小さく頷く。


 腹の中の子供は、そうして関係を結んだ結果だ。




 ショーコは、首を軽く横に振るう。

(やっぱ、言わないにしよう)

シンゴさんには、きっと迷惑。……そう考えたのだ。

 ショーコは笑顔を作って見せ、

「ん、何でもない。間違えただけ……」

言って、顔を正面に向け、空を仰いだ。

 仕舞ってあった翼を出し、もう一度、慎吾を頭だけで振り返って、

「それじゃあ」

バササッと翼を動かし、宙に浮く。

(…これでいい……。子供は、シンゴさんと出逢えた記念に、大事に育てよう……)

 手摺から斜め上方へ1メートルほど離れたところで、ショーコは止まり、もう一度、と、振り返って慎吾の顔を見た。

 そして、三たび前を向いて翼を動かす。

 と、突然、左足首が何かで固定され、進めなくなった。

 見れば、慎吾が手摺から身を乗り出し、腕を伸ばして、ショーコの足首を掴んでいた。

 慎吾は、ショーコの足首を掴む手にグッと力を込め、いっきに引っ張る。

 ショーコはバランスを失い、慎吾の腕の中に落ちた。

 慎吾はショーコを腕から下ろしてから、

「『何でもない』って感じじゃ、ないんだけど? 」

真剣な表情でショーコの目の奥を覗く。

「話してよ」

 真っ直ぐにショーコを見つめ、言葉を待つ慎吾。

 ショーコは、その視線に負け、話した。

 妊娠していること、間違いなく慎吾の子供であること、月空界に帰って産み、ひとりで育てようと考えていたこと……。

 ショーコが話し終えると、慎吾は無言で、ギュウっとショーコを抱きしめた。

 ショーコは息が出来ずに、

「シンゴさん! 苦しいっ! 」

もがく。

 慎吾は慌てて、ゴメン、と言い、腕を緩めた。

 そして再び、しっかりとショーコを見つめ、緊張気味の声で、

「結婚しよう、ショーコさん」

 唐突な言葉に、ショーコは驚く。

 慎吾は、

「結婚、して下さい」

繰り返す。

 驚きすぎて声が出ないショーコ。

 慎吾は、あの夜のことを成り行きだなどと思っていないと言った。ショーコが愛しいと言った。「ショーコさんと離れたくない」慎吾の願いを神様が聞き入れて、離れなくてすむよう子供を授けてくれたに違いないとまで言った。

 ひとつひとつの言葉を大切に、丁寧に、慎吾はゆっくりと語りかける。

「子供を、一緒に育てさせてほしい」

 驚きは治まったが、代わって、感動がショーコの声を奪っていた。

 ショーコは慎吾の首に両腕を絡め、何度も何度も、ただ、頷いた。 



                   *



 ショーコは、対日空人の戦いについての報告、そして、ショーコにとっては、もっと重要な話を父王にするため、一旦、青の国へ帰った。

 ショーコが地表界へ出発した時には病床にあった父王は、完全に健康を取り戻し、書斎にて執務中だった。

 ショーコの対日空人の戦いについての報告を受け、父王は大変喜んだ。

 椅子から立ち上がり、ショーコの肩を叩いて労をねぎらう。

「ご苦労であった。やはり次期王は、ショーコ、お前だ。国民も、お前を王として認めるであろう」

 満足げな笑みを浮かべる父王を前に、ショーコは、戦いの報告よりも、ショーコにとって重要な話、慎吾との結婚の話をなかなか切り出せずにいた。

 父王の満ち足りた気分を、粉々に打ち砕くものと分かっているからだ。

 それでも、

「…父上、そのことですが……」

言わないわけにはいかない。

 重々しく切り出したショーコの態度に、父王は、

「ん? 何だ……? 」

スッと笑みを消し、ショーコを見つめる。

 ますます言い辛くなるショーコ。

 だが、言わないわけには……。

 ショーコは一度、目を伏せ、深く息を吐いて腹を据えた。

「私は、地表界の男性を愛しました。既に、彼の子供も身籠っています。彼と結婚し、地表界で暮らそうと考えています」

 父王はわなわなと震え、

「…何と……」

絶句。その状態のまま数分の後、懸命に自分を落ち着かせ、

「お前は、王位継承者候補である自分の立場というものを、理解していなかったのか……? 」

低く、言葉を紡ぐ。

「…私は、確かに地表界が好きだ。仮にお前が王女などではなく、一般の国民の娘であったら、そして、やはり私も、王ではなく、一般国民の父親であったら、地表界の男性との結婚を喜んで認めていたであろう……。だが、お前は王女なのだ。王位継承者候補なのだ。王家の血、純粋な青の国の血統を守っていかねばならぬ立場なのだぞ」

 ショーコは、真っ直ぐに父王を見つめ、

「分かっています。ですから、私に王の資格はありません。王位は、ユウゾに譲ります」

 慎吾と結婚し、2人で子供を育てることは、もう、決めたことだ。それ以外の道は考えられない。

 父王に、理解してほしかった。祝福してほしかった。

 ショーコには母がいない。ただひとりの血の繋がった親に祝ってもらえないのは、寂しすぎる。

 祈りにも似た気持ちで、ひたすら父王を見つめるショーコ。

 父王は吐き出すように、

「私は、お前に継いでもらいたいと言っておいたはずだぞ! 」

言ってから、ショーコから顔を背け、首を横に振りながら深く溜息を吐き、

「…もうよい……! 出て行け! 二度と私の前に姿を見せるでないっ! 」

「父上っ! 」

 父王の肩に縋りつき、強引に視界に入り込んだショーコの手を、

「出て行けっ! 」

父王は手で乱暴に振り払いざま、その手を足下の絨毯、自分の立っている位置とショーコの立っている位置、丁度、その中間に向けた。

 父王の手が向けられた位置から、火が出る。

 その火は、勢いよく燃えさかる炎の柱となった。

 炎の柱によって分けられた、ショーコと父王。

 すぐ次の瞬間、

(っ! )

炎の柱はショーコに襲いかかった。

 ギリギリで、何とかかわすショーコ。

 しかし、炎の柱はショーコの動きに合わせて動き、執拗にショーコを追い回す。

 たまらず、ショーコは転がるように書斎から出、背中でドアを閉めた。

(父上……)

 ドアに寄りかかった姿勢で項垂れるショーコに、

「…ショーコ様……」

バアヤが遠慮がちに声をかけた。

「王様も、いつか、きっと分かってくださいます」

「バアヤ……」

 バアヤはショーコの手をとり、自分の両の手で、そっと包む。

「バアヤは、いつでもショーコ様の味方でございますよ。どうか、地表界でお幸せに。そして、元気なお子を……」

「ありがとう、バアヤ……」

 

 ショーコはバアヤに見送られ、風の縁から地表界へと旅立った。

 父王から、二度と姿を見せるなと言われた以上、もう、青の国へは帰れないかもしれないという覚悟と、父王に理解してもらうためにも、必ず、慎吾と腹の中の子供と一緒に、幸せに暮らすのだという決意を胸に。




                   * * *




「まま」

 遠くで、何だかとても懐かしい声。

「まま、みてー」

 声は近づいて来、右肩から上腕にかけて、これもまた懐かしい重みと温もり。

「まま」

 声は耳もと。

 ショーコは、ハッと目を覚ました。

「まま、みてー」

 重みと温もりの正体は、貫太。立ち膝をして、腹でショーコの上腕に寄りかかっている。

(そっか、夢だった……)

夢の中で既に夢であると分かっていたはずだったのだが、いつの間にか夢であることを忘れ、浸りきってしまっていた。

 清次は、ショーコの腕の中で気持ち良さそうに寝息をたてている。

 ショーコは片手で、胸がはだけたままだったシャツを直した。

(懐かしい夢だったな……)

青の国、バアヤ、父王、ユウゾ、結婚する前の慎吾。そして、何より自分自身……。

 小さな何かが、チクリとショーコの胸を刺した。

 それは今朝のショーコの、慎吾に対する態度。


 今朝、慎吾は仕事に出掛ける際、ショーコに、

「行ってくるよ……」

遠慮がちに声を掛けた。

 ショーコは清次のオムツを替えながら、無言で、背中で見送った。…いつもならば、慎吾が仕事に出掛ける時には、ショーコは何をしている最中でも、中断して、ちゃんと玄関まで見送りに出るのだが……。

 特に何があったわけでもない。いつもと変わらない朝。

 自分で起きる自信の無い慎吾を、ショーコは前夜に頼まれていた時刻に起こす。

 現在、貫太の幼稚園は春休みで、ショーコの起床時刻は、慎吾を起こす時刻次第。

 慎吾は絶対、頼んであった時刻どおりには起きない。30分から1時間ほど、遅く起きる。

 そう分かりきっているため、最近は、ショーコも、慎吾を起こす時刻に朝食の仕度が間に合うようになど起きないようにしていた。

 それでも、頼まれている以上は、頼まれたとおりの時刻に、とりあえず声を掛けるため、起きなくてはならない。

 起きないと分かっている慎吾に、とりあえず一度、声を掛け、それから朝食の仕度を始めても、時間が余る。

 暫くの後、「ヤバイ」と独り言を言いながら、予定時刻より少なくても30分遅れで起き上った慎吾は、朝食も食べたり食べなかったり。しかも、その朝食は、トーストとミルクだけで簡単に済ますショーコと貫太とは別メニュー。慎吾だけのために用意したものだ。

 いつものこと。

 確かに普段から、慎吾のそういうところを不満に思ってはいた。

 本当に起きる時間を教えて欲しい。朝食を食べない日は、前日のうちに、朝食はいらないと言っておいて欲しい。そうしたら、自分も、あと30分なり1時間なり多く眠れるし、朝から、別メニューの仕度など余計な労力を使わずに済むのに、と。

 いつものこと。

 だが、今朝は許せなかった。

 清次の深夜の授乳時、上手に飲めずに、清次は、そのままグジュグジュ言いながら明け方まで起きていて、ショーコも眠れなかったのだ。

 やっと清次が静かになり、ショーコもうつらうつらしていたところへ、目覚ましが鳴った。

 その後の、いつもと変わらない朝。

 慎吾が起きてきて以降、ショーコは腹立ち紛れに慎吾と目も合わさず、無視し続けたのだった。


 慎吾だって、仕事で疲れているから起きれないのに、何故、不満が先にきてしまうのだろう。疲れを心配してあげられないのだろう。今みた夢の中で、落ち込んでいた慎吾に温かいミルクを持って行った優しさは、どこへ行ってしまったのだろう。

 今になって、反省。そして、そうだ、と、思いつく。

(晩ゴハンは、何か、シンゴさんの好きなものにしよう)

 慎吾は、あまり食べ物の好き嫌いが無い。

 何にしようかと、メニューを思い巡らせるショーコ。

 そこへ貫太が、

「みてー」

何度呼んでも自分のほうを向いてくれないショーコの正面に回る。

 ショーコは、ようやく完全に現実世界に引き戻された。

「ほら」

貫太は、手にしていたお絵かき帳の絵を見せ、

「なんの え でしょーか? 」

 貫太は、とても絵が上手い。そのため、何の絵かなど、見てすぐに分かるのだが、ショーコは、わざとらしく考える素振りを見せ、

「カンちゃんが、キーちゃんを抱っこしてあげてる絵? 」

 貫太はニンマリ、得意満面。

 その時、パササッと微かな羽音がし、1羽のカラスがベランダに降り立つのが見えた。

 怪我でもしているのか、その様子が何となく不自然なように感じ、気になって、ショーコは腕を伸ばして窓を開ける。

「ショーコ姫…様……」

 カラスは、ヨロヨロとショーコに歩み寄った。やはり怪我をしている。しかも、かなり酷い。

 月空人は、カラスと話が出来る。地表界に来たばかりの頃、ショーコは、カラスの言語も月空人や日本人と共通だと思い込んでいたが、ショーコがカラスと話している時にたまたま居合わせた慎吾から、カラスの言葉は地表人には通じない、と言うより、そもそも聞こえていないと教えられた。気味悪がられるおそれがあるため、地表人の前ではカラスと話さないほうがいい、とも。

 酷く傷つき弱ったカラスの姿に、ショーコは驚き、反射的に腰を浮かせ、

「ハナコさんっ? 」

悲鳴を上げる。

 ハナコ、と呼ばれた、その傷ついたカラスは、ショーコの親友。

 ハナコは、月空界と地表界を頻繁に行き来する。バアヤの死も、彼女から知らされ、また、時々青の国の様子を知らせてくれるのも、彼女だった。

 ショーコは一旦、清次を座布団の上に寝かせ、ハナコを、壊れやすいものを扱う時のように、そっと両の手の上に抱き上げる。

 ハナコは懸命に嘴を動かし、ショーコに何かを伝えたがっているように見えた。

 体に障るから喋らないほうがよいとのショーコの言葉に首を横に振り、息も絶え絶えにハナコが伝えた内容は、衝撃的なものだった。

 青の国が日空界から攻撃を受け、壊滅状態。国土は占領され、生き残った人々は捕虜となった。父王は死亡が確認され、ユウゾは行方不明であると言うのだ。

(…そんな……)

 何とか伝えたいことを全て伝えきった様子のハナコは、ショーコの手の上で息を引き取った。

(…ハナコ、さん……)

ショーコは、グタンと力を失い重さを増したハナコの体に、頬を寄せる。

(…父上が、死んだ……。ユウゾが、行方不明……。青の国が壊滅……。ハナコさん、も……。…どうして……? どうして、どうして……? )

ハナコから伝えられた内容、そして、たった今、目の前で起こった現実だけが、ショーコの頭の中をグルグル回る。あまりのことに、何の感情も湧かない。

「まま? 」

貫太が不思議そうにショーコの顔を仰いだ。

 そこへ、バササッと大きな羽音。

 ショーコはハッと顔を上げ、外に目をやる。

 こちらを、ベランダの手摺の向こうから見据える、羽音の主と目が合った。

(ターク! )

実際には、以前戦った時に会っているだけな上に、当然、少し年もとっているが、間違いない。先程、夢の中で会ったばかりだ。


 タークはゆっくりとベランダに降り立つ。

 ショーコは、ハナコを片腕に移して、清次をもう片方の腕に抱き上げ、貫太を自分の後ろに隠すようにして立ち、タークを見据えた。

 不敵な笑みを浮かべたタークの言葉が、ショーコの頭の中に響く。

「オ元気ソウデスネ、青ノ国ノ姫君」

「ターク……」

何の用か、と、ショーコは警戒する。

 青の国は日空界の攻撃を受けて壊滅状態であると聞いた。

 タークは日空界の軍人。自分は青の国の王女。お茶を飲みに来たのでないことだけは分かる。

「アナタノ オ子サン デスカ? 可愛イ デスネ」

 ショーコの清次を抱く手に、力が入る。

 5歳児でも不穏な空気が分かるのか、貫太は、キュッとショーコのウエストにしがみついた。

「日空界が青の国を攻撃したと聞きました。本当ですか? 」

 ショーコの問いに、ターク、

「本当デアッタトシタラ、ドウナサル オツモリ デスカ? 」

ニヤニヤ笑いながら返す。

「理由が知りたい」

 タークは、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべたまま、イイデショウ、と言い、答えた。

 当初は、平和的な交渉であったという。日空界は再び地表界に軍を進めることを決定したため、青の国に出向き、前回のような妨害工作をしないでいただきたい、と。しかし、交渉は決裂。戦争になったそうだ。そして、青の国は壊滅に追い込まれた。

(…前回のような、妨害工作……? )

それは、間違いなく、6年前の日空界による地表界侵攻の際に、ショーコがとった行動のことだ。

(私の、せいだったんだ……! )

ショーコは、一度、大きめに息を吸い込んだのを最後に、呼吸が出来なくなってしまった。

 自分が6年前、青の国の王女であると名乗り、王の命を受けてのことだなどと発言したばかりに、父上は、ユウゾは、青の国は……。

 先程の夢の中でのショーコの不安が、現実のものになってしまった。

 あの夢は、ただの夢ではなかったのだ。…虫の、報せ……。 

 苦しい。

 ショーコの目に涙が滲む。

「ツイ先程、私ヲ含メ、私ノ率イル小隊ハ、地表界ニ到着シマシタ」

 話し続けるタークの言葉に集中出来ない。

 タークは、フッと真顔になり、

「今回、私ハ、指揮官デハ アリマセン。偶然、アナタノ思考が聞コエ、辿リ、見ツケルコトガ 出来タタメ、立チ寄リマシタ。上ノ命令デハ アリマセン。私ノ」

目に暗い影を落として、

「個人的恨ミヲ晴ラスタメデス! 」

腰に差した小剣を勢いよく抜いた。

 小剣の刀身が太陽の光をキラッと反射した瞬間、ショーコの意識は、ハッと、タークに集中。呼吸もふつうの状態に戻った。

 判断力及び動作を鈍くするおそれのある、頭の中にモヤっと残るショックを一時的に振り払うべく、ショーコは頭を横に強く振る。

 タークの踏み込みは速いと知っている。

 特に、貫太と清次のいるこの状況では、先手を打つ必要がある。

 ショーコは、清次とハナコを何とか右腕と肩だけで支え、今からとび出す予定の、長年仕舞いっ放しになっていた翼にぶつからないよう、貫太を少し下がらせてから、左手をタークに向けて構えた。

 ショーコの背から、翼がとび出す。

 タークを弾き飛ばすべく、ショーコは本気の力をタークの胸あたりに集中させ、

「ハアッ! 」

放出した。

が、タークは空いているほうの手をグッと握っただけで、その場に踏み止まった。

 ニヤリと笑うターク。

(どうしてっ? )

一瞬、ショーコは月空力を緩めてしまった。

 その隙をついて、タークは小剣を逆手に持ち、笑いながらショーコに向かって突進。

 ショーコは、今度は手を使わず、タークの進路を阻むべく、テレビを、ちゃぶ台を、本棚を、ゴミ箱、新聞紙まで、部屋中の動かせる物を全て、タークに投げつける。

 タークは、それらを軽くかわした。

 ショーコは咄嗟に、タークに背を向け、左腕で貫太を自分に引き寄せ、貫太・清次・ハナコを胸に庇うように身を屈める。

 タークが終始薄ら笑いを浮かべていたのは、自信からだったのだと悟った。

(お願い! カンちゃんとキーちゃんだけはっ! )

ショーコは、ギュッと目を瞑る。

 その時、玄関のドアの開く音、玄関から台所を経由して4畳半への短い距離をこちらへ向かって走る足音。

 直後、

「ヒッ、ウアッ! 」

パニック気味のタークの声が頭の中に響いた。

(……? )

ショーコが顔を上げ、振り向いて見ると、慎吾がタークに跳びかかったところだった。

 慎吾とタークは揃ってカーペットの上に転がり、代わる代わる、上になったり下になったり、揉み合う。

 慎吾は、自分が上になったタイミングで、必死にタークを押さえつけながら、ショーコを仰ぎ、

「子供たちを頼むっ! 」

「…でもっ……! 」

ショーコは途惑った。

 タークは以前に戦った時にも強かったが、今は、その時とはレベルが違う。慎吾ひとりを残して逃げるなど出来ない。

 しかし、

「早くしろっ! 」

 普段めったに声を荒げることのない慎吾に噛みつくように叫ばれ、その迫力に圧されて、ショーコは頷き、貫太と清次とハナコを連れて隣の6畳間に入り、襖を閉め、逃げるべく、窓に手を伸ばした。

 が、やはり慎吾が心配だ。

 ショーコは伸ばした手を引っ込め、6畳間内の押入れへと歩き、開けて、押入れ下段の荷物を少し引っ張り出して小さな隙間を作ると、その隙間に貫太を座らせて清次を抱かせ、貫太の隣のダンボールの上にハナコを横たえた。

 そして、

「カンちゃん、ママがいいって言うまで、出てきちゃダメだよ」

言って、不安げな貫太の顔を見つめる。

 死ぬ覚悟でいるわけではない。自分がいなくなってしまったら、貫太も清次も困るだろう。それ以上に、自分が、もっと貫太や清次と一緒にいたい。必ず、戻ってくる。……そう心の中で呟きながらも、以前とは比較出来ないくらい強くなったタークを相手にすると思うと、不安が消えない。名残は尽きない。

 と、4畳半からガラスが割れる音。

 こうしている間にも、慎吾の身が危険に晒されている。

 ショーコは首を横に強く振って、ほとんど無理やりに不安を振り払い、両腕を伸ばして、貫太をキュッと清次ごと抱きしめた。一度、深く貫太を呼吸してから、ゆっくりと体を離し、静かに押入れを閉める。


 6畳間と4畳半の間の襖を、思いきり開け放ったショーコの目に、真っ先に飛び込んできたのは、体中にガラスの破片が刺さり仰向けに倒れている慎吾の姿だった。

(……っ! )

ショーコは声になりきらない悲鳴を上げ、慎吾に駆け寄って、その脇に膝をつく。

 慎吾は目を見開いた状態で身じろぎもしない。

 ショーコは慎吾を見つめ、恐る恐る手を伸ばし、その頬に触れた。

 温かい。だが、動かない。

 ショーコは震える指先を滑らせるようにして、ゆっくりと慎吾の頬から鼻へと移動させる。慎吾は、息をしていなかった。

「タワイナイ デスネ」

ショーコの頭の中に、タークの声。

 顔を上げて見れば、タークはニヤニヤ。

 と、その時、背後で、

「ままー? 」

貫太の声。

(……! どうして出て来ちゃったのっ? )

 ショーコは貫太を振り返って叫んだ。

「来ちゃだめっ! 」

 清次を重たそうに抱えて、貫太は途方に暮れたようにショーコを見、

「…だって、さみしかった から……」

その目を涙でいっぱいにする。

「アナタヲ 苦シメル タメニハ、先ズ、オ子サンヲ 狙ウベキ ノ ヨウデスネ」

(! )

タークの言葉に、ショーコはタークに視線を戻して立ち上がり、貫太と清次を背に庇って、キッとタークを見据える。

 タークは、ニタァーと口を横に広げて笑った。

 瞬間、ショーコの背後でパササッと羽音。

 ショーコが振り返ると、ほんの少し前まで貫太に抱かれていたはずの清次の背から、小さな黒い翼がとび出し、彼を宙に浮かせていた。

(キーちゃんっ? )

ショーコは驚く。

 清次に翼など、初めて見た。

 貫太も驚いた様子でポカンと口を開け、宙に浮いた清次を見、ややして驚きから立ち直ったらしく、自分の背中に短い腕を回し、両の手のひらで確かめるようにペタペタ触った。

 その時、

「ふえええええっ! ほえええええっ! 」

清次が、周囲にある物がビンビンと震動するくらい大きな声で泣き出した。

 これまで聞いたことのないほどの大声に、ショーコは面食らい、貫太は耳を塞ぐ。

 そして、最も強い反応を示したのは、タークだった。

 両耳を塞ぐような形で頭を抱え、カーペットの上を、のたうち回る。

 タークの混乱しきった思考が、ショーコの頭に流れ込んできた。

 泣き続ける清次。

 タークは苦しげに顔を歪めながら立ち上がり、頭を抱え、前傾姿勢でヨタヨタと窓まで歩いてから、力を振り絞って、といった様子で、

「今日ノ トコロハ、ココマデ デス」

 フラフラとベランダに出、弱々しく翼を動かし、去っていった。

 タークを追い払ったのは、間違いなく清次の泣き声。清次の月空力だ。

 翼を見たのが初めてなら、能力を見たのも初めて。

 ショーコと貫太には、うるさいだけで特に影響が無かったが、おそらくタークには、体の内部を傷つけたか、あるいは、精神に作用して苦痛を与えたかの、どちらかなのだろう。

 当然まだ上手には飛べない清次は、不安定に宙に浮き、泣き続けている。

 ショーコは腕を伸ばし、清次を抱き取った。

 両腕で包み込むように抱き、少し揺すってやると、清次は泣き止み、疲れたのか、スウッと眠った。

 貫太が、アッと小さく声を上げた。

 困ったように、泣きそうに、

「ままー」

ショーコのシャツの裾を引っ張る。

 その視線の先には慎吾。

 ショーコは、清次を右腕だけで支え、空いた左手で貫太の頭を引き寄せて腹に押しつけることで、その目を塞いだ。

 と、部屋の隅、台所との境に、コンビニエンスストアの小さなビニール袋が転がっているのが目に留まる。

 その中から、カップ入りのレアチーズケーキが覗いていた。……ショーコの、好物。

(…シンゴさん……)

 それは、今朝のショーコの態度に対しての慎吾の気持ちに思えた。

 ショーコの不機嫌の原因が自分だと気づいていたかは分からないが、そこにあるのが、ショーコを気遣う優しさであることは分かる。

 ショーコが慎吾に持てなくなっていた、優しさ。

 鼻の奥が、ツンとなった。

 涙が、後から後から……。止まらない。


 貫太と清次を抱いたまま、溢れ落ちる涙もそのままに立ち尽くすショーコの脳裏を、色々なことが、ハッキリとした形を持たず、浮かんでは消え、浮かんでは消え……。

 慎吾に優しくしてあげられなかった後悔と、今さら強く感じる愛情。

 父王のこと、ユウゾのこと、青の国のこと、その全てが自分のせいであること。

「今日ノ トコロハ」と言い残して行ったターク。

 これからの、自分たち母子のこと……、そこまでで、ショーコの涙は止まった。

 ハッキリと形を持ったものが、頭に浮かんだのだ。

 それに取り憑かれたような感覚で、ショーコはベランダへと歩く。

 ショーコに頭を抱えられたままの貫太が、引きずられそうになって、焦って足を動かしながら、

「まま? 」

不思議そうにショーコを仰いでいるのが、目の端にチラリと映った。

 ベランダの手摺の前で、ショーコは翼を仕舞い、手摺の向こうの地面を覗いた。

 ここは4階。下は硬いコンクリート。

 翼無しで飛べば、シンゴさんと一緒に行けるかもしれない。カンちゃんとキーちゃんも、一緒に……。

 …家族みんなで、穏やかに暮らそう。ハナコさんは、もう、向こうに着いたのかな? バアヤに会ったら、キーちゃんを紹介しよう。きっと、可愛い可愛いって頬ずりするね。父上には、どんな顔をして会おう? ちょっと気まずいな……。ユウゾには、会えないことを祈るけど……。

 夢見心地で、右腕の清次を手摺の外へ差し出そうと、そっと、自分の胸から少し離した。

 瞬間、ショーコの頭を、ふと、慎吾の言葉が過ぎった。

「子供たちを頼む」

 ショーコはハッとする。

 自分は一体、何をやっているのだろう、と。せっかくシンゴさんが命懸けで守ってくれたのに……、と。

(私が、しっかりしなきゃ! )

清次を、元の通りに抱きなおし、腰を屈めて、貫太も、しっかり胸に抱きしめた。

(カンちゃんとキーちゃんを、守らなくちゃ! )


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