第1部 * 9 *
「行ってらっしゃい」
登園の際に常にショーコの前を歩く貫太が、幼稚園の門を1歩、内側へ入ったところで、ショーコは足を止め、貫太に声を掛けた。
貫太は振り返り、
「いってきまーす」
笑顔で手を振ってから園舎へと走り、途中で、同じく園舎へ向かって歩いていた榊健人と合流。何やらオーバーアクションで話しながら歩く。
今日で、貫太は6歳。ショーコから離れて友達と関わる貫太を見ていると、ショーコは、あらためて、大きくなったな、と思うのだった。
貫太が園舎の中へ入るのを見届けてから、ショーコは、来た道を戻った。
最初の横断歩道を渡って少し行ったところで、突然、ベビーカーが動かなくなった。
(? )
ショーコは、しゃがみ、ベビーカーの下を覗く。
ベビーカーの左前輪が、2つ折タイプの赤い革の財布を踏んでいた。更によく見てみれば、その前輪が、財布についている長くて細い鎖の飾りを巻き込んでしまったために動かなくなっていることが分かった。
ちょっとやそっとでは取れそうにない。その場で鎖を前輪からはずそうとすれば、狭い歩道、他の人の邪魔になる。
ショーコは、ベビーカーを清次ごと持ち上げ、ベビーカーが動かなくなってしまった地点から10メートルほど先の、歩道から少し引っ込んで建つ開店前の金物屋の店先に移動した。
知恵の輪を解く時のように懸命に頭を働かせ、少々イラつきながら指先を動かし、ショーコは、5分ほどかかって、ようやく鎖をはずした そして財布を手に取り、持ち主が分からないかと、中を確認する。
1万5000円の現金と、エンドウのものを含むポイントカード数枚、超有名ハンバーガー屋のクーポン券、それから、有名激安イタリアンレストランチェーンの最寄の支店のレシートが入っていた。その中からエンドウのポイントカードを選んで取り出し裏返してみると、住所と名前。……カヌキミサトさん。家は、住所欄の番地から考えて、ショーコの自宅へ向かう通り道ではないが、今いる、この場所の近くのようだ。
届けようと、ショーコは幼稚園方向へと少し戻り、脇道を入る。
*
電柱や知らない家の塀に取り付けられた番地のプレートを頼りに歩いている最中、ショーコは、偶然、今日の日付……貫太の誕生日と同じ数字に出会い、足を止めた。
(カンちゃんの誕生日と同じだ……)
そう思った瞬間、丁度1年前の映像が頭を過ぎった。…バースデーケーキのロウソクを吹き消す貫太。めったに食べない大きなえびで作ったエビフライにかぶりつく貫太。輝く、笑顔……。
(…これが、あれば……)
ショーコは、手にしていた財布を握りしめる。続いて、昨日の夕食時の貫太の、頑張って作ったに違いない笑顔が思い出された。
(これさえ、あれば……)
財布を握りしめたショーコの手が、そのまま無意識的に上着のポケットへ。
入れてしまって、直後、ショーコはハッとし、
(ダメだ。これじゃあ、ドロボウだよ! )
すぐさまポケットから出そうとするが、ショーコの手は、ポケットの中で財布を握りしめたまま動かなかった。
(……これが、あれば)
また、1年前と同じ、あの笑顔に会える。あの笑顔が、見たい……!
ショーコは、財布を握ったほうの手をポケットに突っ込んだまま、片手でベビーカーを操り、回れ右。自宅へと、逃げるように足早に歩き出した。
心臓の鼓動が、痛いくらいに強く、速い。ノドの奥、コメカミまで、ドクンドクンと脈打つ。全身の皮膚が、高熱を出した時のように、ビリビリ、敏感になっている。
*
一旦、自宅に戻ったショーコは、罪悪感に震える手で、拾った財布の中の1万5000円を自分の財布に移し、貫太の誕生日を祝うための材料を買うべく、エンドウの開店時間に合わせて自宅を出た。
エンドウへ向かう道中、ショーコは、道往く人たちの視線が気になり、自然と早歩き。
ベビーカーの清次は、やはり眠っていた。
早歩きだったため、開店時間より少し早くエンドウに着いてしまい、出入口の前で待つ。その間も、人の目が気になった。いたたまれず、開店と同時、ショーコは店内に勢いよく飛び込んだが、そこでも見られているような気がし、頭が全く働かず、左腕に買物カゴをかけ、右手でベビーカーを押しながら、小走りで、1年前と同じ貫太お祝いメニュー・エビフライの材料と、紙パック入りのコーンポタージュスープ、乾杯用のオレンジジュースをカゴの中へ放り込んで回る。
たった5分でエンドウでの買物を終えたショーコは、エンドウを出、次に、エンドウがある通りと平行に走る、自宅を基準に考えて1本向こうの通り沿いの、引っ越して来てから今まで縁の無かった、地元で評判のケーキ屋まで足を伸ばした。
そこで、6号サイズのイチゴと生クリームのワンホールケーキに、「カンちゃん おたんじょうび おめでとう」と文字を入れてもらい、別売りのケーキ用のロウソクを6本買って、買物終了。
そして自宅まで、また早歩き。
*
買物を終えて自宅へ戻り、いつものように清次を構いつつ家事をやっている間も、幼稚園の降園時間に合わせ、これもまたいつものように清次を連れて園に向かう間も、何となく視線を感じ、ショーコは落ち着かなかった。
園で貫太を待っている時、榊健人の母に、
「どうかした? 元気無いよ? 」
それほど突然にでもなかったのだが、声を掛けられ、ショーコは、ビクッ。少々どもりながら、
「ち、ちょっと、疲れが溜まってて……」
返すと、榊健人の母は、労わるように、
「……そう。 無理、しないでね」
ショーコは曖昧に笑って、その場を過ごした。
やがて、貫太たち園児が昇降口から出て来、それぞれの家庭の都合に合わせて流れ解散。
貫太は榊健人とブランコや鉄棒で遊んだり、追いかけっこをして、その辺を走り回ったり。
普段どおりの貫太の様子を、ショーコは居心地悪く眺める。
30分ほどして、榊健人母子が帰るのをキッカケに、ショーコたち母子も帰路についた。
*
ショーコはエビの殻を剥き、小麦粉をまぶしてから溶き卵の中にくぐらせ、パン粉をつける。余分なパン粉を軽く振って落とし、熱した油の中へ。
相変わらず、落ち着かない。家の中にいるのに、ショーコは、ずっと、誰かに見られている気がしていた。もしも今、調理している、貫太のお祝いメニューの材料を、ネコババした金でなく、貯金や自分が稼いだ金で買えていたら、単純に貫太の喜ぶ顔だけを想像しながら、楽しく調理出来ていただろうと思うと、悔しかった。悲しかった。ネコババした金で買った材料で作った料理なんて、しかも誕生日に、なんて、貫太に対する後ろめたさもあり、惨めで、気分的に沈んでもいた。
だが、どうしても、ごちそうを食べさせてあげたかったのだ。ショーコは、チラッと居間に目をやる。
居間では、貫太が、置き薬屋にもらった風船を膨らめ、落とさないで何回打てるかと、上に向けた手のひらで、ポン、ポン、と風船を操りながら、打った回数を数えていた。
清次は、座った状態で風船を見上げ、キャキャッ、キャキャッと笑う。
ショーコは、まだ、貫太に今日のメニューを知らせていない。今日が誕生日だということも、貫太は、多分、知らない。だいぶ前から質素な食事ばかりだったから喜ぶだろうな、と、ショーコは想像し、一瞬、心が温まるのを感じたが、直後に、それは自分の力ではないのだと思い出し、余計に辛くなった。
出来上がったエビフライをサラダと一緒に皿に盛り付け、レモンとタルタルソースを添えてテーブルに運ぶ。次に、温めたコーンポタージュスープもカップに注いでテーブルへ。
乾杯用のオレンジジュースとグラスを運んだところで、急に、数を数える貫太の声が止み、静かになったのを感じ、
(? )
ショーコが居間を見ると、貫太が口をポカンと開けて立ち尽くし、台所のテーブルの上を凝視していた。
久し振りの思わぬごちそうに、驚いているのだろう。
カーペットの上に落ちた風船に、清次が、じゃれつく。
貫太の分かりやすい反応に、ショーコの罪悪感がボヤける。料理だけで、これだけ驚くなら、ケーキを見せたらどんな反応をするだろう、と、少し楽しくなってしまいながら冷蔵庫へと歩き、中からケーキの箱を取り出した。それをテーブルの中央に置き、蓋を開ける。
貫太は放心状態でゆっくりとテーブルに歩み寄り、ケーキの白く優しいホイップクリームの上の、蛍光灯の明かりを受けてキラキラ輝く真っ赤なイチゴを、イチゴに負けないくらいに目をキラキラ輝かせて見つめた。口はポカンと開けたまま、言葉は何も無い。驚きと喜びの大きさが伝わってくる。
ショーコの中で、何かが壊れた。




