1
ひどい雨だった。
真っ赤に染まっていたはずの空の色は、立ち込めた暗雲で跡形もなく掻き消され。降り出した雨はたちまち土砂降りとなり、激しい勢いで地面を叩く。
そんな様子を、俺は。
崩れた屋台の屋根に腰を下し、ただぼんやりと眺めていた。
服を流れ落ちる雨粒はじわじわと体温を奪って行き、髪から垂れる雫は視界を微かに滲ませる。
薄暗い空の下でどこまでも陰鬱に広がるのは、妖怪が残していった爪痕の光景。
倒壊した屋台の柱は、雨水のぬかるみにずぶずぶと沈み込み。無残に踏み潰された市の品々は、泥水の中に散らばっていた。
「これが、結果か……」
ぽつり、と。力の無い声が、自分の口から漏れる。
……分かっていたはずだ。あの兼義が、意味のない掟なんか作るはずがない。それなのに俺は、自分の思い込みに身を任せて、ロクに考えもせずに。
その結果……どうなった?
まゆは、どうなった?
市は――まゆの守りたかった世界は、どうなった?
――『言っただろ。俺が、お前を守ってやるって』
「……何が、守る、だ…………畜生……」
――思い上がっていた。
もう二度と、誰も傷つけないようにと、そう決めたはずなのに。
何も知らずに、馬鹿みたいにあんな言葉を吐いて。
まゆの気持ちも知らないで、あいつの話から目を背けて。
まゆを――傷つけた。
こんな、ことになるなら。
最初から、何も――……
「あ! お~い、わったる~!」
声がした。
それは、聞き覚えのある声。昼間から、ずっと聞いていたはずの声。
……だというのに。
その声は、どこか遠くのものに感じられ。昼間の時とは……まったく違うモノに聞こえた。
「うわっ! お前、全身ずぶ濡れじゃねぇか。笠とか何も持ってねぇのか?」
隼人は俺の姿を見て、いつもの調子でそんなことを訊いてくる。だが、今は返事をする気力も無かった。俺は、水浸しになっている脆い木版に腰を下したまま、僅かばかり首を動かす。
「おいおいなんだよ、シケたツラして。まるでこの世の終わりみてぇな顔してるぞ」
「……あれ? そういえば、まゆは? どこか近くにいるの?」
たぶん本人は、何気なくしたものなのだろう。飛鳥は、そんな質問をしてきた。だが……何の言葉も返すことができない。今、何かを口にしてしまうと、何もかもを吐き出してしまいそうで。だから俺は、固く口をつぐみ、黙り込んだ。
そんな俺の様子を見て、何かおかしいことに気付いたのだろう。二人は、先程よりも真剣な口調で訊ねてくる。
「ねえ、まゆはどうしたのよ?」
「もしかして、はぐれたりしたのか?」
だが、その言葉すらも俺にとっては単なる重みで……。だから俺は、事実を一言だけ告げた。
「まゆなら……もういない」
月詠殿を出た俺にはもはや、巫女と関わる権利などないのだ。
「いないって、どういうことだよ? まゆちゃん、もう帰ったのか?」
隼人は、俺の答えを聞いて、キョトンとしたような表情を浮かべる。だが俺は、これ以上説明する気にも、話す気にもなれなかった。これは、俺たち二人の……いや、俺自身の問題だ。だから――
「……どうでもいいだろ、そんなこと。もう……放っておいてくれ」
――俺は、二人を拒絶した。
「なによそれ? ……はっは~ん、わかった。さてはあんたたち、喧嘩でもしたんでしょ」
「お前たちには……関係ないだろ」
これ以上何か話すと、まゆだけでなく、この二人さえも傷つけてしまいそうで。
「おいおい、いくらなんでも関係ないってのはないだろ。まゆちゃんは俺たちの友達でもあるんだぞ」
「いいから……もう、どっかいってくれよ……」
もう……限界寸前で…………
「まったく、これだから甲斐性なしの男は。何があったかくらい教えなさいよ」
「消えてくれよ…………」
耐えることなんて……できなくて…………
「おい、消えてくれはねぇだろ」
「まったく……、人が折角心配してやってるっていうのに、あんたってやつは――」
だから――
「――だいたい、お前らが連れ回したせいもあるんだろうが!」
気付けば、そう怒鳴っていた。
「…………はぁ?」
飛鳥が、訳が分からないと言った表情を浮かべる。
俺だって、分かっていた。何も、この二人が悪いわけじゃない。飛鳥と隼人は、何も悪くない。これは、全部俺の問題で。だけど――
「こっちは、早く帰らないとって言ってるのに、無視して強引に引き留めやがって!」
――一度口に出してしまった言葉は、もう止まらない。
「あんたねぇ、私たちがいつ強引に引き留めたっていうのよ! だいたい、私が最後までいたらって言った時も、あんた何も言わなかったじゃない!」
「そんなこと、言えるわけないだろうが!」
「だったら、流されて勝手に着いて来たのはあんたの方でしょ! それでまゆと喧嘩になったからって人のせいにしないでくれる!?」
「おい、飛鳥。止めろって」
「何が人のせいだ! お前らがあの時、素直に帰してくれたらこんなことには――」
「渉も。いい加減にしろ!」
「…………っ」
もう、何も見えなかった。
怒りのせいか、髪を流れる雨のせいか、それとも、それ以外の何かが溢れ出したのか。
だから――
「おい、渉!」
「ちょっと、あんた! どこ行くのよ! 話はまだ――」
気付けば、俺は。
二人を置いて、雨の中を走っていた。
これ以上、二人の顔を見ることができなかった。
二人の顔を見るのが、耐えられなかった。
だから、俺は。
少しでもあの二人から離れようとして、雨の中を走った。
――これ以上誰も、傷つけないために。
……気が付けば、雨は止んでいた。空を見上げると、陽はとっくに沈んでおり、ただ、底の見えない濃紺だけが遥か彼方の頭上を覆っている。
「……はぁ、ざまねぇな…………」
あんなみっともない八つ当たりで、まゆだけでなく、あの二人まで傷つけて。
どっちが悪いかなんて、明白なことなのに――
「こんなところで何をしとる?」
ふと、足元に影が差した。足を止め、顔を上げる。
そこに立っていたのは、顎に白髭を蓄えた、妙に小さい初老の男だった。
「あんた……兼義か?」
「いかにも。わしが淡那守、兼義じゃ! ……って、前にもこんなやりとりせんかったかのう?」
雨よけのためか、蓑を着た兼義は相変わらずの調子で、首を不思議そうに傾ける。
「なんで……こんなところにいるんだよ?」
「わしは、ちと野暮用での。昼間、市に妖が現れたと聞いて、様子を見に来たんじゃよ」
土蜘蛛のことか……。結局、俺のせいであれだけ被害を出してしまった。
「おぬしこそ、どうしてこんなところにいる? 月詠殿には戻らぬのか?」
いつもの調子で兼義が訊いてくるその言葉に、俺は苦々しい気分になる。
「俺にはもう……帰る場所なんてない」
俺の言葉を聞き、兼義は人の悪そうな笑みを浮かべた。
「なんじゃ、まるでおぬしの軽率な行動で巫女様を傷つけ、あげく祇鶴から社殿を追い出されたような顔じゃのう」
「…………知ってるなら、わざわざ言うなよ……」
大方、祇鶴から全ての事情を聞いたってとこだろう。まあ、月詠殿の主なんだから、知っているのも当然か。
普段、あれだけ饒舌だったはずの兼義は、なぜか何も言わない。沈黙が続き、雨だれが地面を打つ音だけが、やけに大きく耳に響く。
やがて、兼義はおもむろに口を開いた。
「……のう、渉よ。おぬし、『桃源郷』という言葉を知っておるかの?」
「桃源郷……? それって……理想郷、ってことか?」
俺の答えに兼義は、「ふむ……」と顎に手を当て、
「桃源郷というのは、理想郷の一つにすぎん。『桃花源記』という、宋より伝来した古い詩があってな」
「宋の……古い、詩?」
宋……というと、今の中国のことだろうか。
兼義は、お伽話でもするかのように、その内容を語り始める。
「ある漁師の男が、舟を漕いで沢を上ったところ、突如目の前に、桃の花が一面に咲き誇る林が広がったそうじゃ。その美しさに心惹かれた男は、我を忘れてその奥へと進み、ついに、数百年もの間、世界から隔絶された村を発見した。そこでは、立ち並ぶ家も田畑も見るものすべてが美しく、みな微笑みを絶やさずに働いておったそうじゃ」
微笑みの絶えない……村。居心地の良い理想的な村、ということだろうか。
「数日の間、村でもてなしを受けた男じゃったが、いよいよ自分の家に帰ることになった。男はその後、元来た道を戻り、その途中あちこちに目印をつけておいたそうじゃ。ま、あまりの居心地の良さに、また来ようと思ったわけじゃな。しかしその後、男がいくらその村を探しても、二度と見つけることはできず、その話を聞き村を探した他の誰も、決してその場所を見つけることは出来なかったそうじゃ」
兼義はそう語り終えると、「のう、渉よ」と話を続けた。
「古い物語とは、思索であり、示唆でもある。多くの人が桃源郷を探したが、誰も見つけることができなかった。おぬしは何故じゃと思う?」
「何故って……。そんな場所、最初から存在しなかったんじゃないのか? そもそも、その居心地のいい村自体、男の夢とか幻想でしかなかったんだろ」
兼義は、「ふむ」と頷き、
「当たらずとも遠からず、といったところじゃな。桃源郷は見つからなかった。なぜならそれは、『探した』からじゃよ」
「……探したから?」
「うむ、桃源郷は『探して』も決して見つからん。それは心の内にあるものじゃ。『探す』者は、心の外に桃源郷を見出そうとする。それゆえ、見つからん」
桃源郷は、心の内にあるもの……。
「だったら……そいつを見つけるには、どうしたらいいんだよ」
「そんなものは決まっておる。――己の心と向き合う。ただ、それだけのことじゃよ」
そう言って、兼義は片目を瞑る。
「桃源郷を心の外に見出そうとする者は、己の心と向き合うのが怖いからよ。心の内に向き合うのが怖くて、外を見る。じゃが……そこには何もありゃせん。それはただ、自分の心から逃げておるだけじゃ」
自分の心から……逃げている?
「あんたには……俺が、逃げているように見えるのか」
「そうじゃ、逃げておるとも」
兼義は、真剣な表情で頷いた。
「おぬしは何一つ立ち向かうことなく、ただ逃げ続けてきた……そんな眼をしておる。それは、確かに楽な道じゃ。じゃが、そこからは何一つとして生まれはせん」
逃げてきた……。何一つ立ち向かうことなく、俺は逃げてきたのか……?
「だったら……どうしたらいいんだ」
立ち向かうって言っても、何に、どうやって、立ち向かえって言うんだ。これ以上誰も傷つけないようにするには、どうやって……。
兼義は、そんな俺の葛藤を見透かしているかのように、
「おぬしは――どうしたい」
ただ一言、そう告げた。
「どうしたいってそりゃ……もうこれ以上誰も傷つけないように、俺が――」
「――ふん、ガキめ」
「ガキって……どういうことだよ! それができるなら、それが一番――」
「――できるのか、おぬしに?」
ぴしゃりと。
兼義は、熱した俺に冷水を浴びせるような口調で。どこまでも冷徹な声で、言う。
「できるかどうかじゃない……やらなきゃいけないんだ」
「ではなぜ、巫女様の話から目を背けた」
「っ、それは…………」
「ロクに人の話も聞かず、自分の意志すら突き通せないような臆病者に何ができる」
「意志を突き通すっていうのは、誰かを傷つけるってことだろ! 自分の意志のために誰かを犠牲にするなんて、俺はそんなの――」
「――それがガキと言っておるのじゃよ。誰も傷つけず、自分一人だけで一体何ができると? ふん、おぬしは神や仏にでもなったつもりか」
「……っ」
「思い上がるでない。自身の力量もわきまえずに自分だけで何とかできるなどと抜かすのは、ガキ以外の何物でもないわ」
――『なんだ、楽勝じゃん!』
……変わってない。
変わったつもりでいて、あの頃から何一つとして変わっていない。俺は、自分の力量をわきまえない、何もわかっていないガキのままで。
八年前と。樹を死なせた、あの時と同じ。その事実に気が付き――愕然とする。
俺は……同じ過ちを繰り返していたのか。
誰も傷つけたくないなどと言いながら、本質的には何も変わっていなかった。何も変われず、ただ目の前の現実から逃げて言い訳を重ね、解決しているフリをするだけで。
そんな――卑怯で臆病な人間だったのか、俺は……。
「人一人の力など、ちっぽけなもんじゃ。だが……だからこそ人は、他人を必要とする。それが、人間というものじゃよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭をよぎったのは、一つの言葉。
――『ひとりは……だめだよ』
……そうだ。あいつはあの時、このことを俺に伝えようとしてくれていて。それなのに俺は、その話もちゃんと聞かず、ただ現実から目を背けて――逃げ続けて。
それが一番、あいつを傷つけるんだってことにも、気付かないで……。
何も……分かってなかった。変わってすらいなかったんだ、俺は……。
「……今一度問おう」
そんな俺を試すように。
兼義は、再び、同じ問いを投げかけてくる。
「おぬしが今、一番したいことは何じゃ。自身の全てをかなぐり捨ててでも、やりたいことは何じゃ」
――俺の、やりたいこと……。
「それすらも分からんようなら、所詮おぬしは、いつまでたってもガキのままじゃよ」
それだけを言い残し、兼義は踵を返す。
――自分の全てを投げ打ってまで、やりたいこと……。
考える。これは、大事なことだから。もう、目を背けたくはないから。ちゃんと向き合わないといけないことだから。だから、考える。
下らない思い上がりやプライドを、心の中からふるい落とし、本当に、大事な。自分がやりたいこと、守りたいものを、見定める。
目を瞑り、心を落ち着け、深呼吸。そうして、そこから得た結論。
――まずは……謝らないと。
あれだけ酷いことを言った、あの二人に。
無責任なことを言って傷つけてしまった、まゆに。
まずは、謝らないと。
謝って、許してもらえるかどうかはわからない。けど、それでも――
一人じゃ、何もできないから。一人じゃ、何一つ始まらないから。
謝るのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、傷つけるのが怖くて、それで逃げていては、何も解決しないから。
乗り越えたい。逃げるんじゃなくて、目を背けるんじゃなくて……目の前の現実を、乗り越えたい。
だから――
「おい爺さん! 郷長は……郷長はどこにいるんだ!?」
遠ざかる兼義の背中に、俺は怒鳴らんばかりの声で訊いた。。
「郷長? 郷長なら、村で一番大きな屋敷の――」
「――サンキュー爺さん!」
「さ、さん……きゅう?」
首を傾げる兼義を置いて、俺は走り出す。その足取りは、思っていたよりもずっと軽かった。
――やっと、前へ進めた。そんな気がする。
だから今は、なにも考えず、ただひたすら走る。
もう、やることは決まっていた。