第4話「開眼――飛燕斬」
「開眼――飛燕斬!」
剣が振り抜かれた。
鋭い一閃が、低く走る。
怪物の前方へ伸びた太い腕、その関節の隙間を正確に斬り裂いた。
深い傷ではない。
けれど、巨体が大きく傾くには十分だった。
怪物の足が、横倒しになった荷車へ踏み込む。
車輪が折れ、積まれていた網が一斉に跳ね上がった。
「今だ、引け!」
マークの声。
滑車を通した縄が軋む。
港の男たちが、全身で縄を引いた。
漁網が怪物の脚と腕へ絡みつく。
怪物は吠え、網を引き裂こうとした。
その腕が大きく振られ、縄を支えていた杭が一本、弾け飛ぶ。
「マークさん!」
飛んだ木片が、マークの腕を掠めた。
シャツの袖が裂け、赤い血が滲む。
「平気だ!」
マークは顔をしかめながらも、縄を離さなかった。
「まだ、離すな! 海へ向けろ!」
レフィーナは、怪物へ近づいた。
網に絡まり、苦しそうに暴れる巨体。
濁った赤い目。
その目が、一瞬だけレフィーナを見た。
怒りではなかった。
痛みと、恐怖だった。
甲殻の胸元に深い亀裂が入り、その奥で黒いものが脈打っている。
拳ほどの黒い核。
そこから、瘴気が血管のように広がっていた。
「……苦しいんですね」
レフィーナの言葉に、怪物は低く唸った。
まるで、答えることもできないまま助けを求めているように。
マークが叫ぶ。
「近づくな、レフィーナ!」
けれど、レフィーナは止まらなかった。
剣を下ろす。
そして、怪物の甲殻へそっと手を伸ばした。
額のティアラが、かすかに光る。
森で兎を抱き上げたときのような、小さな光だった。
眩しいほどではない。
黒い核を壊すこともできない。
ただ、荒れ狂う瘴気を、ほんの少しだけ押しとどめる光。
「大丈夫です」
レフィーナは、海魔を見据えた。
「もう、誰も傷つけさせません」
海魔の甲殻の裂け目で、黒い核がかすかに明滅した。
次の瞬間。
核の端から、爪ほどの黒い欠片が砕けて落ちた。
乾いた音を立てて、桟橋の板の上を転がる。
「……これは」
レフィーナは、そっと拾い上げた。
石のように冷たい。けれど、掌の中で、まだかすかに脈打っているような気がした。
海魔は、それ以上暴れなかった。
赤く濁っていた目の奥に、一瞬だけ、海のような青が戻った気がした。
やがて、怪物は網を引きずったまま身を翻した。
壊れた桟橋を越え、海へ戻っていく。
黒い潮が大きくうねる。
巨体は沖へ沈み、夕暮れの水面はゆっくりと閉じた。
残されたのは、折れた桟橋と、濡れた石畳。
そして、港を満たす静けさだった。
◇
しばらくしてから、誰かが小さく言った。
「……行った」
次の瞬間、港のあちこちで息を吐く音がした。
泣き出す子供。
座り込む漁師。
怪我をした者へ駆け寄る人々。
誰かが、レフィーナへ向かって叫んだ。
「助かった!」
「姫騎士さまが、町を守ってくれた!」
レフィーナは、その言葉に戸惑った。
「私は……」
言いかけて、止まる。
一人では、何もできなかった。
逃げ道を知っていたのはマークだ。
網を動かしたのは港の人たちだ。
子供たちを抱えて走ったのは、町の大人たちだ。
レフィーナは、血の滲んだ腕を押さえるマークのもとへ駆け寄った。
「怪我を見せてください」
「これくらい、大丈夫」
「駄目です」
レフィーナは、マークの腕へ両手をかざした。
どうすればいいのか、分からない。
ただ、痛みだけでも消えてほしいと思った。
ティアラが、また小さく光る。
温かな光が、マークの腕を包む。
傷が消えることはなかった。
けれど、マークの強張っていた指が、少しだけ緩んだ。
「……痛く、なくなった」
レフィーナは息を吐く。
「よかった」
「すごいな、レフィーナ」
マークが言った。
レフィーナは首を振る。
「一人では、できませんでした」
港を見る。
網を片づける人。壊れた桟橋を確かめる人。泣いていた子供を抱きしめる人。
「皆さんがいたから、守れたんです」
マークは、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「じゃあ、次も皆で守ればいい」
レフィーナは頷いた。
「はい」
海の方を見る。
沖合には、もう怪物の姿はない。
ただ、黒い泡がいくつか、水面に残っていた。
あの黒い核は何だったのか。
レフィーナは、布に包んだ黒い欠片を荷袋の奥へしまった。
なぜ、あの怪物はあんなに苦しんでいたのか。
レフィーナには、まだ分からない。
けれど、一つだけ分かったことがある。
町には、人がいる。
笑う子供がいる。
明日の魚を売る人がいる。
船を直し、網を繕い、海の向こうへ行こうとする人がいる。
それを壊そうとするものが現れたなら。
自分は、剣を抜く。
誰かを倒すためではなく。
誰かの日常へ、届くために。
レフィーナは剣の柄へ手を添えた。
その手はまだ、少しだけ震えていた。
けれど、もう離さなかった。
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