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プリンセスナイトサーガ  作者: 中津海人
第2章 旅立つ光

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第4話「開眼――飛燕斬」

「開眼――飛燕斬!」


 剣が振り抜かれた。


 鋭い一閃が、低く走る。


 怪物の前方へ伸びた太い腕、その関節の隙間を正確に斬り裂いた。


 深い傷ではない。


 けれど、巨体が大きく傾くには十分だった。


 怪物の足が、横倒しになった荷車へ踏み込む。


 車輪が折れ、積まれていた網が一斉に跳ね上がった。


「今だ、引け!」


 マークの声。


 滑車を通した縄が軋む。


 港の男たちが、全身で縄を引いた。


 漁網が怪物の脚と腕へ絡みつく。


 怪物は吠え、網を引き裂こうとした。


 その腕が大きく振られ、縄を支えていた杭が一本、弾け飛ぶ。


「マークさん!」


 飛んだ木片が、マークの腕を掠めた。


 シャツの袖が裂け、赤い血が滲む。


「平気だ!」


 マークは顔をしかめながらも、縄を離さなかった。


「まだ、離すな! 海へ向けろ!」


 レフィーナは、怪物へ近づいた。


 網に絡まり、苦しそうに暴れる巨体。


 濁った赤い目。


 その目が、一瞬だけレフィーナを見た。


 怒りではなかった。


 痛みと、恐怖だった。


 甲殻の胸元に深い亀裂が入り、その奥で黒いものが脈打っている。


 拳ほどの黒い核。


 そこから、瘴気が血管のように広がっていた。


「……苦しいんですね」


 レフィーナの言葉に、怪物は低く唸った。


 まるで、答えることもできないまま助けを求めているように。


 マークが叫ぶ。


「近づくな、レフィーナ!」


 けれど、レフィーナは止まらなかった。


 剣を下ろす。


 そして、怪物の甲殻へそっと手を伸ばした。


 額のティアラが、かすかに光る。


 森で兎を抱き上げたときのような、小さな光だった。


 眩しいほどではない。


 黒い核を壊すこともできない。


 ただ、荒れ狂う瘴気を、ほんの少しだけ押しとどめる光。


「大丈夫です」


 レフィーナは、海魔を見据えた。


「もう、誰も傷つけさせません」


 海魔の甲殻の裂け目で、黒い核がかすかに明滅した。


 次の瞬間。


 核の端から、爪ほどの黒い欠片が砕けて落ちた。


 乾いた音を立てて、桟橋の板の上を転がる。


「……これは」


 レフィーナは、そっと拾い上げた。


 石のように冷たい。けれど、掌の中で、まだかすかに脈打っているような気がした。


 海魔は、それ以上暴れなかった。


 赤く濁っていた目の奥に、一瞬だけ、海のような青が戻った気がした。


 やがて、怪物は網を引きずったまま身を翻した。


 壊れた桟橋を越え、海へ戻っていく。


 黒い潮が大きくうねる。


 巨体は沖へ沈み、夕暮れの水面はゆっくりと閉じた。


 残されたのは、折れた桟橋と、濡れた石畳。


 そして、港を満たす静けさだった。


     ◇


 しばらくしてから、誰かが小さく言った。


「……行った」


 次の瞬間、港のあちこちで息を吐く音がした。


 泣き出す子供。


 座り込む漁師。


 怪我をした者へ駆け寄る人々。


 誰かが、レフィーナへ向かって叫んだ。


「助かった!」


「姫騎士さまが、町を守ってくれた!」


 レフィーナは、その言葉に戸惑った。


「私は……」


 言いかけて、止まる。


 一人では、何もできなかった。


 逃げ道を知っていたのはマークだ。


 網を動かしたのは港の人たちだ。


 子供たちを抱えて走ったのは、町の大人たちだ。


 レフィーナは、血の滲んだ腕を押さえるマークのもとへ駆け寄った。


「怪我を見せてください」


「これくらい、大丈夫」


「駄目です」


 レフィーナは、マークの腕へ両手をかざした。


 どうすればいいのか、分からない。


 ただ、痛みだけでも消えてほしいと思った。


 ティアラが、また小さく光る。


 温かな光が、マークの腕を包む。


 傷が消えることはなかった。


 けれど、マークの強張っていた指が、少しだけ緩んだ。


「……痛く、なくなった」


 レフィーナは息を吐く。


「よかった」


「すごいな、レフィーナ」


 マークが言った。


 レフィーナは首を振る。


「一人では、できませんでした」


 港を見る。


 網を片づける人。壊れた桟橋を確かめる人。泣いていた子供を抱きしめる人。


「皆さんがいたから、守れたんです」


 マークは、しばらく黙っていた。


 それから、少しだけ笑った。


「じゃあ、次も皆で守ればいい」


 レフィーナは頷いた。


「はい」


 海の方を見る。


 沖合には、もう怪物の姿はない。


 ただ、黒い泡がいくつか、水面に残っていた。


 あの黒い核は何だったのか。


 レフィーナは、布に包んだ黒い欠片を荷袋の奥へしまった。


 なぜ、あの怪物はあんなに苦しんでいたのか。


 レフィーナには、まだ分からない。


 けれど、一つだけ分かったことがある。


 町には、人がいる。


 笑う子供がいる。


 明日の魚を売る人がいる。


 船を直し、網を繕い、海の向こうへ行こうとする人がいる。


 それを壊そうとするものが現れたなら。


 自分は、剣を抜く。


 誰かを倒すためではなく。


 誰かの日常へ、届くために。


 レフィーナは剣の柄へ手を添えた。


 その手はまだ、少しだけ震えていた。


 けれど、もう離さなかった。

お読み頂き、ありがとうございます。

更新は週2~3回を目安に予定しています。

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