3-1
父、ハーゲンの訪問と、アルベルトからの求婚以降、メルセデスは実験の授業が終わると、逃げるように教室から去っていく。当番は事情を説明してエラに変わってもらった。
単位を落とすわけにはいかない為、自主休講にできないところがなんとも痛い。
今日も、終業直後、駆け足で教室から逃げだした。
最近は、実験の授業から逃げるメルセデスは実験棟の名物のような光景だった。
野薔薇寮まで逃げ切れば、教授といえども男子の立ち入りは厳禁である為、ひとごこちつくことができるのだ。
息を切らせて野薔薇寮へ駆け込んだメルセデスの前に、現れたのはマルガとイリーネだった。
「……お疲れ様」
マルガのねぎらいの言葉に、憔悴しきったメルセデスが、
「ありがとう」
と、答えた。
三人で部屋に戻ると、イリーネが言った。
「いいお話じゃないの、アルベルト先生といえば、若手の中では出世頭じゃない、次代の学院長とも噂されているし、その成果についても、評判がいいと聞いているわよ?」
王太子が、妻にするのはユリアーナであると宣言し、学院を去った娘も数人はいたが、来年の弟殿下入学までは在籍すると言って、イリーネは残っている。
「私としては、一人でもライバルは少ないほうがいいわ」
「イリーネって、本当、裏表ないよね……」
ため息をついてマルガがつぶやくと、
「正直なのは私の美点ですもの!」
そう言って、鼻の穴をふくらますイリーネにマルガが続けて言った。
「いや、褒めたわけじゃないからね?」
「マルガ、最近あなた、私の扱いがぞんざいではなくて?」
「うーん、ただ単に慣れただけだと思うけど」
イリーネとマルガのやりとりを見て、思わずメルセデスが吹き出した。
「メルセデス、けど、こんなの、そんなに長い事はもたないよ、何しろ向こうは先生なんだし、……その、実力行使……に、出られたら、……その」
耳年増なマルガの心配も、それほど的外れでは無かった。兄のように慕っていた人間が、ある日を堺に男になったという例は物語の中にも存在する。
「そうよ、メルセデス、あなた、他に好きな殿方はいないの? 好きな人がいます、と、言って縁談を断る事だって」
めずらしくイリーネが相手を思いやって意見を出した。
もちろん、その中には、弟殿下をめぐるライバルは少ない方がよい、という考えが透けて見えてはいるけれど。
「いないよ! そんな人!」
メルセデスが即座に否定した。
赤面し、きっぱり言い切る姿は少し彼女らしくない、と、マルガは思った。
「……ごめんなさい」
イリーネが素直に謝るので、メルセデスもマルガも驚いて目を見開いた。
「イリーネ、あなた、謝罪の言葉を知っていたのね」
思わず口にしたマルガを、イリーネがキッ! と、睨みつけた。
「マルガ! あなた! 失礼ですわよ! 私だって、自分が悪ければ謝罪します!」
という事は、今までは『自分が悪い』と思っていなかったのか、と、入学当初のユリアーナに対する嫌味の数々をマルガは思い出していた。
学院入学当初、イリーネのユリアーナに対する嫌味はすさまじいものがあった。かつて、女王に対して謀反を企てた王妃一族の者という事で、ユリアーナは皆から、腫れ物のように扱われていた。イリーネは、そんなユリアーナの出自について、万座の中言ってのけた、そのやりようは、かさぶたを爪でかきむしって出血させるかのようだった。
その後、マルガや王太子の働きもあって、正式にユリアーナは王太子、レオンハルトの思いに答え、自分自身の気持ちも正直に伝える事ができた。
そんな中、ユリアーナ自身の性格に惹かれたのか、未来の兄嫁とみなしたのか、イリーネのユリアーナへのなつきぶりは見ている人間がしらじらしくなるほどだった。
媚びない!(強者以外には)引かない!(逃げ場がなかえれば)あきらめない!(希望があるかぎり) の、イリーネの姿勢は、それがいいかどうかというよりも、迷いの為さにいっそすがすがしくすらあった。
しかし、メルセデスは否定したものの、このまま有効な手段もないまま、夏の休暇に入ってしまっては、何が起こるかわからない。
エラは既に休暇中、寮に残る事を決めていたが、イリーネは夏は父の別荘で過ごすという、マルガはまだ決めかねている。
王都の実家にメルセデスは行く予定だったが、もし、メルセデスが一人で家に戻れば、メルセデスの父は娘にリボンをかけて婚約者に既成事実をどうぞ、とばかりに、行動に出るだろう。
議論が膠着状態になったところでエラが戻って来た。
「あー、本当に、毎回毎回、メルセデスはどうしたの? と、白々しい」
いまいましい口ぶりでドアを閉めたエラに、メルセデスは心底申し訳なさそうに謝った。
「ごめん、エラ、迷惑をかけて」
「あー、当番を変わることは別にいいのよ、きちんと対価ももらっているし」
エラは、メルセデスと実験室の当番を代わる対価として、野薔薇寮の掃除当番を変わってもらっていた。寮内の掃除の方が範囲が広い為、メルセデスの良心は傷まないよう配慮しているところがなんともエラらしい。
「私が気に入らないのはアルベルト先生の態度よ、メルセデスがアルベルト先生を拒絶しているのは誰の目から見ていてもわかるし、当の先生だってわかってるはずよ? なのに、あからさまに皆の前で追いかけ回すようにしたりして、私、先生がそういう事をなさる方だと思っていなかったのからがっかりだわ」
エラは、畳み掛けるように言いたいことを言って、寝室の方へ着替えに行った。夕方からは食堂の方へ手伝いに行くためだ。
「エラじゃないけと、私もちょっと先生の最近の態度には違和感を感じてるんだよね」
マルガが言った。
マルガは、実験では無く、作文の授業をとっているため、アルベルトの実験の講義は受けていないが、アルベルトは座学の方の算術も受け持っている。理論的な語り口であり、時折雑談も入れて、算術を苦手としていたマルガにもわかりやすい授業だった。
アルベルトは、人を思いやったり、意図を汲み取る事に対して、鈍感な様子は無かった。
マルガは、一時期、メルセデスの意中の君はアルベルトではないのかとすら思っていたほどだ。
「何か、気持ちの変わるようなきっかけがあったって事?」
イリーネが尋ねる。
「そう、アルベルト先生自身が、自分とメルセデスが結婚するのだとい事を公にしたいと思うような事、メルセデスに、何か思い当たる事は無い?」
マルガが聞くと、メルセデスはわずかに考えこんだ。
メルセデス自身も、アルベルトの変節には理由があると思いたかった。しかし、今のところ『これ』という理由は思い当たらない。
けれど、メルセデスはこうも思った。『メルセデスと結婚する』という事は、『メルセデスを愛している』と同義であるとは限らないと。
アルベルトは、何においても学問と国の為と言い切っていた。アルベルトとメルセデスの婚姻には、そういう意味では益があるのではないだろうか。
「多分、外堀を埋めて、退路を断とうとしているんだと思う」
目的の為に手段を選ばない。アルベルトはそういう人だ。メルセデスは、アルベルトの目的はわからないものの、『メルセデスと結婚』する事が、必要な手段であり、その為にはメルセデス自身の意志は関係ないのだと確信していた。
「アルベルトは、先生は、目的の為には私の意志を尊重しないと思う」
きっぱりと言い切るメルセデスに、マルガは答えた。
「……だとすると、メルセデスに思い人がいるとでっちあげるのは逆効果かもしれない……」
「どういう事?」
イリーネが唐突に深刻そうに眉をひそめたマルガにその理由を尋ねた。
「結婚することが目的ならば、そんな相手がいたとして、相手の方を排除しかねない、って事じゃない?」
マルガの言葉に、メルセデスとイリーネが表情を凍りつかせた。
アルベルトというのは、マルガ達が思っているよりもっと、ずっと恐ろしい人なのかもしれない、しかしならばなおのこと、易々と相手の思うつぼになってはならないとマルガは思った。
「唯一、アルベルトを止める事ができる人がいるんだよ」
ぽつりとメルセデスがつぶやいた。
「それは誰?」
マルガが尋ねると、メルセデスが答えた。
「象牙の塔の、嘆きの魔女」