兄弟
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「早紀…オレの子を産まないか?」
時間が──止まった。
止まって当然だ。
いきなり初対面の相手から、ありえない言葉が出たのだから。
早紀は、ただ呆然と相手を見ていた。
「ああ、お前が憑き魔女ってことは知ってる…だから、オレの子だけ産まないか?」
彼女の呆然を、どう解釈したのか。
甲斐は、更に畳みかけてくる。
要するに、プロポーズではないという意味だ。
そんな意味が分かったところで、何の助けにもならないのだが。
この人、頭おかしい。
早紀が、ようやく掴んだ言葉は、それだった。
軽い目まいさえ覚える。
微かに暗くなる視界の中、あけっぱなしになっていた自分の口を、何とかきゅっと引き結んだ。
「悪い風にはしない…子が男なら、イデルグ家の跡取りにさえ、なれるかもしれないぞ」
自信に満ち満ちた目が、早紀の目を覗き込もうとする。
その中を、自分でいっぱいにして、心をむしりとろうとするのだ。
だが、早紀の脳裏は、甲斐でいっぱいにはならなかった。
真理の目の方が、百倍怖い気がしたのだ。
ごくり、と早紀は生唾を飲む。
自分が、言葉に足首を掴まれていないのを、ゆっくりと確認する。
思ったより落ち着いていた。
だから、こう言えたのだ。
「だって…あなた…双子でしょう?」
刹那。
甲斐の目が変わった。
黒い瞳が、猫のように縦長になったのだ。
開いた唇から、牙が見えた。
「勝つのはオレだ…オレにつけ」
手首が、砕かれるかと思うほど強く握られる。
変貌と痛みで、早紀が石像のように硬直した直後。
「うちの憑き魔女に…何か用か?」
声とともに──冷気が足もとを流れた。
※
「ああ、これはカシュメル卿…ご機嫌うるわしゅう」
猫の目を戻しながら、甲斐は声を振り返った。
棒読みに聞こえるのは、この男が真理を敬ってはいないせいか。
しかし、まだ早紀の手は離さない。
後ろ手に、確保したままだ。
「うちの憑き魔女に、何か用か、と聞いている」
真理が、怒っているのはよく分かった。
あー。
早紀は、どよーんとした気分を、胃の奥に味わわされる。
昨日の今日だ。
また余計なトラブルを、引き連れてきたと思われるに違いない。
今日のこれは違うと言っても、通じるとは思えなかった。
「ただの男女の話ですよ…父から聞いたでしょう?」
太くしっかりした声で、甲斐は真理を押し返そうとする。
父親──1stの存在を盾に。
一体、真理はイデルグと何の話をしていたのか。
奇妙な話の流れに、早紀は目の前の大きな身体ごしに、真理を見ようとした。
よく見えないが、足元の冷気が脛の辺りまで上がってきたのは分かる。
「その件は、丁重に断った…その上で、何か用かと聞いている」
声が、甲斐の盾を貫いたかに思えた。
早紀の手を握る指が、大きく動いたのだ。
「イデルグ家を、味方につけておいたほうが得策ですよ…」
咀嚼するように、ゆっくりと紡がれる言葉は、彼の手と連動していた。
おそらく、相当機嫌を損ねたのだろう。
早紀が顔を歪めなければならないほど、時折強い握力が押し寄せるのだ。
「鎧も持たぬ子供が…家を語るか」
真理の言葉は──とてつもなく辛辣だった。
瞬間。
早紀の手は離された。
その手が、大きな拳になる。
「やめとけ…馬鹿」
拳は。
振り出されなかった。
ホールの入り口に、甲斐によく似た男が立っていた。
※
「初めまして、カシュメル卿」
手をひらりと振って、男が入ってくる。
甲斐によく似た男──おそらく、間違いなく双子の片割れだろう。
ただ、甲斐ほど肉体を鍛えることには、執着していないようだ。
髪も綺麗に撫でつけているため、やや落ち着きを感じる。
ただし。
真理に対する態度は、兄弟そろって大差ない。
鎧持ちの男に、ずさんな挨拶なのだから。
そして、真理をかわすと、自分の兄弟の方へと歩みを進める。
兄弟ゲンカでも起きるのかと、早紀がやや身を引いて身構えると。
男は。
甲斐さえも、スルーしたのだ。
そんな彼が、下がった早紀の前で足を止める。
「私は美濃…お前の名前は?」
今日──二度目の出来事だった。
名前を聞かれるという。
この兄弟は、どうして早紀の名前を聞こうとするのか。
甲斐に至っては、更にひどい言葉を続けたのだが。
「おい…どういうつもりだ」
彼女が答える前に、美濃の身体は兄弟に遮られた。
甲斐のたくましい腕が、彼女の前に突き出されたのだ。
「どういうつもり…? それは私の言葉だ…順序も考えられぬサルが」
上背は同じくらい。
早紀より遥かに高い二人が、今にも胸をぶつけあわんばかりに睨みあっている。
え、えーっと。
やはり、兄弟ゲンカに発展しそうな雰囲気に、早紀は周囲を見回した。
真理は、憮然とした表情のまま、イデルグの双子を見ている。
その目が。
早紀の視線に、気づいた。
軽く。
ほんの少しだけ。
顎が動いた。
くいっと、微かに早紀につながる糸を引くように。
あっ。
どきっとした。
いま、真理に──来い、と呼ばれた気がしたのだ。




