伊瀬
目がさめた早紀は、ベッドの上で少しぼんやりした。
不信感の募る真理から、鎧の男へと伸ばしかけた頼ろうとする手を、彼は意地悪に笑いながら拒んだのだ。
「おかあさん…おはよう」
声が沈む。
起きて、自分が独りであるという現実を噛み締めると、こんなうだつの上がらない声になるのか。
ずっと、この家に住みながらも、早紀は独りだった。
だから、その事には慣れていたし、普通だったはずなのに。
多分。
こうしている今も、早紀が真理や鎧の男と、つながってしまったせいだ。
彼女は、独りではなくなったのだ。
なのに、その二人のどちらとも、早紀の心は本当につながらないままで。
その事実が、余計に「独り」を際立たせてしまうのだろう。
起きて。
ああ。
今日が、土曜日だと気づく。
学校はお休みで、どこにも行かなくてもいい。
逆に言えば、どこに行ってもいい。
早紀はこれまでの人生の多くを、この屋敷に引きこもってきた。
一人で外に行きたいと思えなかったし、出てはいけない雰囲気があったのだ。
いまにして思えば、魔族だとか、鎧のイケニエだとか、空から降る涙の色だとか、そういう事情があったのだろうが。
でかけ、よっかな。
母親の写真の前で、ふと、魔がさした。
こんな気分のまま、この屋敷に引きこもっていたくなかったのだ。
よし。
出よう。
憑き魔女は──自分の衝動に、身を任せることにした。
そして、クローゼットを開ける。
自分で服を買い揃えない早紀は、そこが多くの黒で占められていることを知るのだ。
そうだ。
服を買いに行ってみよう。
早紀は、おでこに絆創膏を貼った。
ぺたり。
※
屋敷を出て歩くと。
早紀は、目が覚めるような強い気を感じた。
脳に風が入り、深く息が吸える。
開放感だろうかと思いかけたが──違うと、気づいた。
空気をとりまく粒のひとつひとつに、『魔』を感じたからだ。
これが、あの涙の効果なのか。
少し嫌な幸福感。
無理やり、幸せにさせられる感覚だ。
学校で、真理を取り囲んでいた魔女たちは、これをありありと感じたのだろう。
早紀の心の奥の一箇所だけが、微かな苦さを感じていた。
それでも。
幸福感を消すことは、出来ない。
屋敷にいた時の重さが消えてゆき、早紀は自然に足取りを軽くしていた。
黒っぽい服に黒い髪という、重たい身なりだというのに。
駅前は、人で溢れていた。
その多くの人を見た時、早紀は背筋がひやっとするのを覚える。
もう、自分があの集団の中にいるべき人間ではないと、知ってしまったからだ。
考えないようにしながら、それでも直視できずに、彼女は斜め下を見るようにして歩く。
そんな、下の方を這う彼女の視線に。
靴が。
真新しい、真っ白いスニーカーが。
ん?
ビルとビルの隙間。
小さな小さな路地の入り口に、片方だけスニーカーが落ちていたのだ。
んん?
好奇心でつい。
早紀は、靴から路地の奥へと視線をのばす。
足があった。
地面に横たわる足。
足だけじゃなくて、上にはちゃんと身体もついていた。
要するに──人が、倒れていたのだ。
「……!」
見つけてはいけないものを、見つけてしまった。
※
早紀は──見なかったことに、しようかと思った。
何とヒドイ、と思うかもしれないが、関わってはいけない気がしたのだ。
相手のために、だ。
早紀が、もし自分を人間だと思っていたならば、そんなことは考えなかっただろう。
魔族と関わると、普通の人の方に害がありそうな気がしたのだ。
しかし。
道ゆく人たちは、綺麗な片方のスニーカーなど、誰も気づかないように歩いてゆく。
立ち尽くす早紀の存在も、自分の能力のせいか、同じように空気扱いだ。
早紀は、靴を拾っていた。
せめて様子を見て、この靴を渡してくるくらい、魔族でも許されるんじゃないかと、そう思ったのである。
日の入らない、路地に入る。
「あの…」
意識はあるのだろうか。
声を、かけてみる。
「う…」
微かに、横たわる身体が動いた。
長い髪。
女の人かと一瞬思ったが、拾った靴も大きいし、うめく声もとても低い。
肩幅も骨格も身長も、やはりどう見ても男だ。
「大丈夫ですか?」
靴を側に置きながら、早紀はそぉっとジーンズの足に触れた。
瞬間。
じゅっと。
触れた部分から、水分が蒸発するような湯気が上がる。
びっくりして、手を離してしまった。
熱かったわけじゃない。
痛かったわけじゃない。
自分の指を見るが、何の異変もなかった。
何? いまの?
「う…あ…君は?」
男は、やっと意識がはっきりしたのか、肘に力を入れる。
それで、少しだけ上半身が浮き上がる。
長い髪が、まるで川のように、彼の顔に幾筋もかかった。
赤茶けた、濁流のような色の髪。
一瞬、目を奪われたのは──何でだったのか。
※
「みっともないところを…」
何とか立ち上がった男は、建物の壁を支えにするように手をつく。
大きい。
早紀は、見上げる目をまばたかせた。
2メートル近く、あるのではないだろうか。
それに、倒れたのが不思議なくらい、しっかりした身体だった。
健康そうな、陽に焼けた肌。
髪が長いのだけが、少し違和感があるか。
「あ、いえ…」
魔族の中で暮らしてきた早紀には、まぶしいほどの人だった。
「あ…靴…」
はっと、我に返って、早紀は足元を指差した。
拾ってきたそれは、まだ地面に置いてあるまま。
「あ、ああ…」
男も、それに気付いたようで、無防備な片足を伸ばそうとした。
が。
まだ、身体がつらいのだろう。
その大きな上半身が、ぐらりと傾ぐ。
あっと。
反射的に、早紀は支えようと手を伸ばした。
あっ、あっ!
彼の身体に、触れた手が。
吸盤でもついているかのように、服ごしに吸い付いたのだ。
あーっ。
身体の奥底を、一瞬でかきまわされるような錯覚。
何かが、触れた手から彼に向かって引き上げられる。
な、なに?
手が。
さっきまでの、吸盤ぶりが嘘のように離れる頃。
逆に、早紀は彼に身体を支えられていた。
「おどろいたな…」
頭の上で、感嘆の声があがる。
「君は、先祖がえりかい? こんな子に、こっちで会えるなんて」
早紀の目の前に、赤茶色の髪が流れる。
言われている言葉の意味なんかは、分からない。
ただ――早紀は、慌てて彼から逃れていた。
片方の靴のまま、しかし、彼はまっすぐ立っている。
「よかったら、名前を…」
投げられかけた言葉から、早紀は逃げ出したのだった。
※
足が――もつれる。
絶対!
早紀は、転びそうな前のめりの身体をそのままに、なんとか走った。
恐怖というより、異物感。
絶対……普通の人じゃない!
それだけは、早紀には確信があった。
この世界に、人間以外のものがいるのは、よくわかっていた。
多分、そっち属性の何かなのだろう。
そうと分かれば、関わってはいけない。
「待って!」
なのに。
なのに彼は――早紀を、見失わなかった。
振り返ったら。
片方の靴のまま、彼は追い掛けてきている。
大きい人だ。
そして、人間ではない。
そんな相手に追いかけられるのだから、早紀は恐怖で竦み上がるべきだった。
だが、彼の瞳には、毒をまったく感じない。
人混みの中。
早紀は、走る足を緩めていた。
追い付いて、しかし、少しの距離を残して止まった男。
気付けば、周囲の誰もが、自分と彼を振り返ってもいる。
慌てすぎたせいなのか。
早紀のステルスは、切れているようだ。
この人は、なんなのだろう。
早紀は、いまもなお彼に、何か吸い上げられている気がしながら、その大きい身体を見上げる。
「こわがらないで…」
自分からは触れないことを見せるように、彼は更に一歩下がった。
見ると、さっきまで苦しんでいたのが嘘みたいに、息ひとつ乱していない。
「君は命の恩人だ…そんな人を、ただで帰しては、私は叱られてしまう」
その、整った息から吐き出された言葉は――遠い遠い昔に読んだ、絵本の文とよく似ていた。
※
彼は、伊瀬と名乗った。
置き去りにした、靴を拾いに戻る道すがら、の話だ。
ひょこひょこと、大きな身体が横を歩く。
警戒を解いた訳ではないのだが、早紀の目には、とても悪い人には見えなくて。
それに、変な現象は起きはしたが、害はなかった。
ということは、真反対といわれる天族ではないはずだ。
「あの…恩人って」
早紀は、彼を助けたつもりはなかった。
確かに、様子を見ようとは思ったが、彼女は医者でもなんでもないのだ。
治してやることなど、出来るはずがない。
しかし、いま彼はさっき倒れていたのが嘘のように、生気に溢れている。
「ああ…そうか、自分では分からないのか」
伊瀬は、困った笑みを浮かべた。
説明しづらいようだ。
「君の力をね…少し分けてもらったんだよ…すまない、非常事態だったから」
ひょこ、ひょこ。
片方の靴のせいで、足をつく高さが微妙に違うため、ぎこちない歩き方。
ん? ん?
その縦に揺れる影を見ながら、早紀は眉間を寄せていた。
早紀の力といえば、魔力だ。
その魔力を受けても、平気ということは。
「もしかして…同族の方ですか?」
おそるおそる、彼女はそれを口にしてみた。
魔族にしては、まったく毒がないと思ったが、早紀だって魔族である。
そう考えると、異端児が他にいてもおかしくないではないか。
「え? 君、お仲間かい?」
驚きながらも、何かを嗅ぎ取るように、伊瀬はすぅっと息を吸った。
魔族の匂いとか、するものだろうか。
「そういえば…ほんの少し? そうか、お仲間だったのか」
明るく、崩れる表情。
本当に嬉しそうだ。
早紀も、嬉しくなってきた。
冷たいばかりの魔族の中にも、こんな太陽みたいな人がいるのだと思うと、心が軽くなるのだ。
だが。
「でも、君はよく平気だね…海から、こんなに遠く離れているのに」
がりっ。
レタスに混じった小石のように、続けられた言葉は、早紀の奥歯の間で、嫌な音を立てたのだった。




