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極東4th  作者: 霧島まるは
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伊瀬

 目がさめた早紀は、ベッドの上で少しぼんやりした。


 不信感の募る真理から、鎧の男へと伸ばしかけた頼ろうとする手を、彼は意地悪に笑いながら拒んだのだ。


「おかあさん…おはよう」


 声が沈む。


 起きて、自分が独りであるという現実を噛み締めると、こんなうだつの上がらない声になるのか。


 ずっと、この家に住みながらも、早紀は独りだった。


 だから、その事には慣れていたし、普通だったはずなのに。


 多分。


 こうしている今も、早紀が真理や鎧の男と、つながってしまったせいだ。


 彼女は、独りではなくなったのだ。


 なのに、その二人のどちらとも、早紀の心は本当につながらないままで。


 その事実が、余計に「独り」を際立たせてしまうのだろう。


 起きて。


 ああ。


 今日が、土曜日だと気づく。


 学校はお休みで、どこにも行かなくてもいい。


 逆に言えば、どこに行ってもいい。


 早紀はこれまでの人生の多くを、この屋敷に引きこもってきた。


 一人で外に行きたいと思えなかったし、出てはいけない雰囲気があったのだ。


 いまにして思えば、魔族だとか、鎧のイケニエだとか、空から降る涙の色だとか、そういう事情があったのだろうが。


 でかけ、よっかな。


 母親の写真の前で、ふと、魔がさした。


 こんな気分のまま、この屋敷に引きこもっていたくなかったのだ。


 よし。


 出よう。


 憑き魔女は──自分の衝動に、身を任せることにした。


 そして、クローゼットを開ける。


 自分で服を買い揃えない早紀は、そこが多くの黒で占められていることを知るのだ。


 そうだ。


 服を買いに行ってみよう。


 早紀は、おでこに絆創膏を貼った。


 ぺたり。



 ※



 屋敷を出て歩くと。


 早紀は、目が覚めるような強い気を感じた。


 脳に風が入り、深く息が吸える。


 開放感だろうかと思いかけたが──違うと、気づいた。


 空気をとりまく粒のひとつひとつに、『魔』を感じたからだ。


 これが、あの涙の効果なのか。


 少し嫌な幸福感。


 無理やり、幸せにさせられる感覚だ。


 学校で、真理を取り囲んでいた魔女たちは、これをありありと感じたのだろう。


 早紀の心の奥の一箇所だけが、微かな苦さを感じていた。


 それでも。


 幸福感を消すことは、出来ない。


 屋敷にいた時の重さが消えてゆき、早紀は自然に足取りを軽くしていた。


 黒っぽい服に黒い髪という、重たい身なりだというのに。


 駅前は、人で溢れていた。


 その多くの人を見た時、早紀は背筋がひやっとするのを覚える。


 もう、自分があの集団の中にいるべき人間ではないと、知ってしまったからだ。


 考えないようにしながら、それでも直視できずに、彼女は斜め下を見るようにして歩く。


 そんな、下の方を這う彼女の視線に。


 靴が。


 真新しい、真っ白いスニーカーが。


 ん?


 ビルとビルの隙間。


 小さな小さな路地の入り口に、片方だけスニーカーが落ちていたのだ。


 んん?


 好奇心でつい。


 早紀は、靴から路地の奥へと視線をのばす。


 足があった。


 地面に横たわる足。


 足だけじゃなくて、上にはちゃんと身体もついていた。


 要するに──人が、倒れていたのだ。


「……!」


 見つけてはいけないものを、見つけてしまった。



 ※



 早紀は──見なかったことに、しようかと思った。


 何とヒドイ、と思うかもしれないが、関わってはいけない気がしたのだ。


 相手のために、だ。


 早紀が、もし自分を人間だと思っていたならば、そんなことは考えなかっただろう。


 魔族と関わると、普通の人の方に害がありそうな気がしたのだ。


 しかし。


 道ゆく人たちは、綺麗な片方のスニーカーなど、誰も気づかないように歩いてゆく。


 立ち尽くす早紀の存在も、自分の能力のせいか、同じように空気扱いだ。


 早紀は、靴を拾っていた。


 せめて様子を見て、この靴を渡してくるくらい、魔族でも許されるんじゃないかと、そう思ったのである。


 日の入らない、路地に入る。


「あの…」


 意識はあるのだろうか。


 声を、かけてみる。


「う…」


 微かに、横たわる身体が動いた。


 長い髪。


 女の人かと一瞬思ったが、拾った靴も大きいし、うめく声もとても低い。


 肩幅も骨格も身長も、やはりどう見ても男だ。


「大丈夫ですか?」


 靴を側に置きながら、早紀はそぉっとジーンズの足に触れた。


 瞬間。


 じゅっと。


 触れた部分から、水分が蒸発するような湯気が上がる。


 びっくりして、手を離してしまった。


 熱かったわけじゃない。


 痛かったわけじゃない。


 自分の指を見るが、何の異変もなかった。


 何? いまの?


「う…あ…君は?」


 男は、やっと意識がはっきりしたのか、肘に力を入れる。


 それで、少しだけ上半身が浮き上がる。


 長い髪が、まるで川のように、彼の顔に幾筋もかかった。


 赤茶けた、濁流のような色の髪。


 一瞬、目を奪われたのは──何でだったのか。



 ※



「みっともないところを…」


 何とか立ち上がった男は、建物の壁を支えにするように手をつく。


 大きい。


 早紀は、見上げる目をまばたかせた。


 2メートル近く、あるのではないだろうか。


 それに、倒れたのが不思議なくらい、しっかりした身体だった。


 健康そうな、陽に焼けた肌。


 髪が長いのだけが、少し違和感があるか。


「あ、いえ…」


 魔族の中で暮らしてきた早紀には、まぶしいほどの人だった。


「あ…靴…」


 はっと、我に返って、早紀は足元を指差した。


 拾ってきたそれは、まだ地面に置いてあるまま。


「あ、ああ…」


 男も、それに気付いたようで、無防備な片足を伸ばそうとした。


 が。


 まだ、身体がつらいのだろう。


 その大きな上半身が、ぐらりと傾ぐ。


 あっと。


 反射的に、早紀は支えようと手を伸ばした。


 あっ、あっ!


 彼の身体に、触れた手が。


 吸盤でもついているかのように、服ごしに吸い付いたのだ。


 あーっ。


 身体の奥底を、一瞬でかきまわされるような錯覚。


 何かが、触れた手から彼に向かって引き上げられる。


 な、なに?


 手が。


 さっきまでの、吸盤ぶりが嘘のように離れる頃。


 逆に、早紀は彼に身体を支えられていた。


「おどろいたな…」


 頭の上で、感嘆の声があがる。


「君は、先祖がえりかい? こんな子に、こっちで会えるなんて」


 早紀の目の前に、赤茶色の髪が流れる。


 言われている言葉の意味なんかは、分からない。


 ただ――早紀は、慌てて彼から逃れていた。


 片方の靴のまま、しかし、彼はまっすぐ立っている。


「よかったら、名前を…」


 投げられかけた言葉から、早紀は逃げ出したのだった。



 ※



 足が――もつれる。


 絶対!


 早紀は、転びそうな前のめりの身体をそのままに、なんとか走った。


 恐怖というより、異物感。


 絶対……普通の人じゃない!


 それだけは、早紀には確信があった。


 この世界に、人間以外のものがいるのは、よくわかっていた。


 多分、そっち属性の何かなのだろう。


 そうと分かれば、関わってはいけない。


「待って!」


 なのに。


 なのに彼は――早紀を、見失わなかった。


 振り返ったら。


 片方の靴のまま、彼は追い掛けてきている。


 大きい人だ。


 そして、人間ではない。


 そんな相手に追いかけられるのだから、早紀は恐怖で竦み上がるべきだった。


 だが、彼の瞳には、毒をまったく感じない。


 人混みの中。


 早紀は、走る足を緩めていた。


 追い付いて、しかし、少しの距離を残して止まった男。


 気付けば、周囲の誰もが、自分と彼を振り返ってもいる。


 慌てすぎたせいなのか。


 早紀のステルスは、切れているようだ。


 この人は、なんなのだろう。


 早紀は、いまもなお彼に、何か吸い上げられている気がしながら、その大きい身体を見上げる。


「こわがらないで…」


 自分からは触れないことを見せるように、彼は更に一歩下がった。


 見ると、さっきまで苦しんでいたのが嘘みたいに、息ひとつ乱していない。


「君は命の恩人だ…そんな人を、ただで帰しては、私は叱られてしまう」


 その、整った息から吐き出された言葉は――遠い遠い昔に読んだ、絵本の文とよく似ていた。



 ※



 彼は、伊瀬と名乗った。


 置き去りにした、靴を拾いに戻る道すがら、の話だ。


 ひょこひょこと、大きな身体が横を歩く。


 警戒を解いた訳ではないのだが、早紀の目には、とても悪い人には見えなくて。


 それに、変な現象は起きはしたが、害はなかった。


 ということは、真反対といわれる天族ではないはずだ。


「あの…恩人って」


 早紀は、彼を助けたつもりはなかった。


 確かに、様子を見ようとは思ったが、彼女は医者でもなんでもないのだ。


 治してやることなど、出来るはずがない。


 しかし、いま彼はさっき倒れていたのが嘘のように、生気に溢れている。


「ああ…そうか、自分では分からないのか」


 伊瀬は、困った笑みを浮かべた。


 説明しづらいようだ。


「君の力をね…少し分けてもらったんだよ…すまない、非常事態だったから」


 ひょこ、ひょこ。


 片方の靴のせいで、足をつく高さが微妙に違うため、ぎこちない歩き方。


 ん? ん?


 その縦に揺れる影を見ながら、早紀は眉間を寄せていた。


 早紀の力といえば、魔力だ。


 その魔力を受けても、平気ということは。


「もしかして…同族の方ですか?」


 おそるおそる、彼女はそれを口にしてみた。


 魔族にしては、まったく毒がないと思ったが、早紀だって魔族である。


 そう考えると、異端児が他にいてもおかしくないではないか。


「え? 君、お仲間かい?」


 驚きながらも、何かを嗅ぎ取るように、伊瀬はすぅっと息を吸った。


 魔族の匂いとか、するものだろうか。


「そういえば…ほんの少し? そうか、お仲間だったのか」


 明るく、崩れる表情。


 本当に嬉しそうだ。


 早紀も、嬉しくなってきた。


 冷たいばかりの魔族の中にも、こんな太陽みたいな人がいるのだと思うと、心が軽くなるのだ。


 だが。


「でも、君はよく平気だね…海から、こんなに遠く離れているのに」


 がりっ。


 レタスに混じった小石のように、続けられた言葉は、早紀の奥歯の間で、嫌な音を立てたのだった。


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