八、百薬の谷(1)
重いのは身体だけではなかった。頭もどんよりとして働かない。チャイレンはただ闇雲に山の中を逃げてゆく。追跡者の怒声や足音も遠くの物音のように曖昧だ。しばらく模糊とした世界を彷徨った後、チャイレンの意識は深い闇の中へと沈んで行った。
百里老人がチャイレンを見つけた時には、全身が黒紫色に変色していた。
「やっ、息がある。大した生命力の子供だわい」
老人は驚きを声に出した。谷間を緩やかに流れる川から引き上げられたチャイレンを抱えて、バイリ老人は薬草園を抜けてゆく。白髪を長く垂らした仙人のような姿の老人だ。切れ長の垂れ目は、浮世離れした色を浮かべていた。細身ながらも背は曲がらず、しっかりとした足取りで急斜面を登った。
地面を這うように生える薬草には、薬になる実を付けた木々が影を落としていた。谷を囲む急斜面に茂る草木は、必ず何処かが薬に使えた。川辺に生える草花も、川面や川底に揺れる水草も、どれも薬効のあるものだ。そのため、この谷は百薬の谷と呼ばれていた。
老人は急斜面をジグザグに登って、丈の高い薬草の間を下り、洞窟を抜けて滝壺に出る。滝を臨む岩棚に、竹製の囲いとしか呼べないような粗末な掘立て小屋が見えた。バイリ老人は囲いの中へ消えてゆく。
数日後、救けた子供の肌の黒ずみが薄れた。煎じ薬を手にバイリ老人が寝顔を覗くと、チャイレンは目を開けていた。
「目が覚めたか」
バイリ老人は、静かだが何処か陽気な声だった。チャイレンは見知らぬ場所に警戒して、老人の眼をじっと見上げた。
「嬢や、これに懲りたら、雪国の怪しい虫を無闇に切り刻まないことだ」
チャイレンは瞬きをした。塩龍の加護が効いていない。バイリ老人は、七王女チャイレンが男児には見えていないのだ。
「2、3日もすりゃ、元気になるだろ」
身を固くする子供の背に手を当てて起こすと、バイリ老人は薬を差し出した。チャイレンの腕がゆっくりと上がる。眉間には縦の皺が寄った。
「まだ難しいか」
労わるような口調にも、チャイレンの緊張は解けなかった。陶器の匙で掬われた茶色い液体を、なかなか口にしない。
「寝てる間も呑んだんだ。今更拒んでも無駄だぞ」
老人が眼を細めて、匙を子供の口元に突きつけた。苦そうな匂いが湯気と共に立ち昇る。竹を組んだ簡単な寝床には、薬草染めのシンプルな布団が敷かれている。チャイレンが着せられている質素な服も薬草染めのようだ。元々着ていた錦の服は、枕元の衝立に掛けられていた。水に濡れてごわごわしている。裂けて破れて所々に血のシミが残っていた。
「ほれ」
老人は軽く匙を揺らす。チャイレンが呑むかどうか決めかねていると、老人の懐から黄緑色の何かがにょきりと突き出した。




