149話『空の机と、海の向こう』
火曜の朝。
起きて、顔を洗って、着替える。
朝のルーティンは、もう身体が勝手にやる。
ここ二週間、出社の日々が続いていたせいで、起きる時間も家を出る時間も、もう身体に馴染んでいた。
玄関で靴を履いていると、スーラがぴょんと跳ねてきた。
「はいはい。今日もよろしく」
胸元から服の内側へするりと潜り込み、背中から脇腹にかけて、ひんやりとした薄い膜みたいに収まる。
その冷たさが、少しだけ頭をはっきりさせた。
最近、装備と生活の境目が薄い。
便利だけど、慣れすぎるのもどうなんだろうな、とは時々思う。
「じゃあ、行ってきます」
「……いってらっしゃい」
詩織が返し、コユキは影の中に入る。
僕はそのまま家を出た。
頭の中は静かに今日のやるべきことの整理に切り替わっていく。
出社してすぐ、竹島さんを見つけた。
「昨日はありがとうございました。いい時間でした」
僕がそう言うと、竹島さんは少しだけ照れた顔をする。
「いえ、こちらこそです。来てもらえてよかったです」
「こちらこそ、ありがたかったです」
それ以上は引っ張らない。
会のお礼は、長くなると逆に“締め”っぽくなりすぎる。こういうのは短い方がいい。
自席に戻って、メールを開く。
今日の仕事は多くない。
でも、“最後の礼儀”としてやるべきことはある。
これまで直接深くは関わっていない取引先。
たまにだけやり取りがあった相手。
顔を合わせる機会はなかったけど、名前だけは先方の受信箱に残っている先。
そういう先に向けて、簡潔に退職連絡を送る。
退職すること。後任の連絡先。今後の窓口。必要な情報だけ。
自分がいなくても回る仕組みを、最後にもう一度整える。
メールを送り終えたあと、ローカルのデータを消していく。
引き継ぎ資料は全部サーバにある。
だからPCの中身は、もうほとんど空にしていい。
ブックマーク。
作業メモ。
キャッシュ。
ダウンロードフォルダの細かい残骸。
一つずつ消していくと、机の上が片付くより先に、“自分の席”の輪郭が薄くなる。
引き出しも開けて確認する。残っていたのは、予備の充電ケーブルと、使いかけのボールペン一本くらいだった。
段ボール箱に私物を詰めるほどの大袈裟さはない。
最低限だけを鞄に入れる。
机が空になると、ようやく実感が出る。
(明日で退職か……)
声に出すと軽い。
でも、空になった机はそういう事実だけを静かに突きつけてくる。
午後半休。
会社を出て、そのまま新大阪ゲートへ向かう。
見慣れた道。見慣れた駅。見慣れた現実側の入口。
ゲート前の警備に軽く挨拶をして、軽く簡易施設で準備をして中へ入る。
54階。
ゲートを抜けた瞬間、風の匂いが変わった。
塩気。
湿っているのに、樹海の時みたいな重さはない。開けた場所の風だ。
視界が、一気に広がる。
「……これは」
思わず声が出た。
直径500メートルくらいだろうか。
低い木が点在するだけの小さな島だった。建造物も岩山もなく、砂と草と、少しだけ起伏がある。
その周囲を、一面の海が囲んでいる。
しかも、遠くを見れば、同じくらい小さな島が浮かんでいた。
「……もしかして、向こうの島に行けってことか?」
近いようで遠い。渡れそうで、でも普通には無理な距離。
「海ね」
ブレスレットから出てきたミニディアが、少し楽しそうに言う。
「今日も撮っておくわ。こういう景色は、記録映えするもの」
「そういう問題かな……」
「半分はそういう問題よ」
黒猫仮面をつける。
スーラは服の内側で装甲を整え、コユキも隣に出てくる。
海辺の黒猫仮面。
画としては強い。問題は、その画の中で死なないことだ。
まずは島を一周してみた。
木。
砂。
潮風。
それだけ。
モンスターの気配も、建物も、洞窟も、何もない。
何もないのが逆に不気味だった。
「……ないな」
「何もないね」
コユキが言う。
「逆に、ここまで何もないと答えが絞られるわね」
ディアが上空から降りてきた。
「海を渡れってことか……やっぱ海にモンスターいるよね?」
コユキが、少しだけ楽しそうな声を出す。
海のモンスターはろくでもないのが定番だと分かってる時の声。
「いるのが定番」
「むしろいなかったら拍子抜けよ」
「拍子抜けで済めばいいんだけど」
僕は島の端に立って、海面を見た。
穏やかそうに見える。見えるだけだ。こういう場所で、見た目を信じるのはたいてい間違いだ。
渡る手段はいくつか思い浮かぶ。
スキルがなければ、木を切ってイカダでも作るのが定番なんだろう。
でも僕には、いくつか選択肢があった。
頭の中で、水系の手札を順に並べる。
水面歩行なら水の上を歩ける。
長息保持と水流機動を組み合わせれば、水中を速く抜けることもできる。
水糸拘束は拘束用。
氷牙凍結は部分凍結で足場も作れる。
「……どうするの?」
ディアが聞く。
「長息保持と水流機動、で泳いでいくこともできるけど……」
「水中はやめた方がいい」
コユキが即答した。
「慣れていない水中戦は嫌。秀人、海の下は嫌いでしょ」
「嫌いだね。かなり」
水中移動は、速い。
でも“見えない”のが最悪だ。しかも今回は撮影もある。
「今回は無難にいく。水の上を歩いて渡ろう」
僕がそう言うと、ディアが頷いた。
「無難が一番強い時がほとんどよ」
たぶん今日は、その無難が一番の日だ。
水面歩行――海へ足を出す。
足裏の下に、薄い膜みたいな反発が生まれる。
海の上には立てる。けれど、波の揺れがそのまま脚に来る。歩けるのに、本能が“そこは落ちる場所だ”と言い続けるから気持ち悪い。
「……慣れないな、これ」
一歩。
また一歩。
島から離れるにつれて、陸の安心感が背中の方へ遠ざかる。
海の真ん中って、それだけで少し怖い。
遠くの島へ向かって一直線。
でも、途中で海面が不自然に盛り上がった。
——来る。
影が、水面直下を並走する。
速い。大きい。
「下!」
ディアの声と同時に、海面が弾けた。




