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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第九章:盤上は世界へ、扉は奪還へ

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149話『空の机と、海の向こう』

火曜の朝。


起きて、顔を洗って、着替える。

朝のルーティンは、もう身体が勝手にやる。

ここ二週間、出社の日々が続いていたせいで、起きる時間も家を出る時間も、もう身体に馴染んでいた。


玄関で靴を履いていると、スーラがぴょんと跳ねてきた。


「はいはい。今日もよろしく」


胸元から服の内側へするりと潜り込み、背中から脇腹にかけて、ひんやりとした薄い膜みたいに収まる。

その冷たさが、少しだけ頭をはっきりさせた。


最近、装備と生活の境目が薄い。

便利だけど、慣れすぎるのもどうなんだろうな、とは時々思う。


「じゃあ、行ってきます」


「……いってらっしゃい」


詩織が返し、コユキは影の中に入る。

僕はそのまま家を出た。


頭の中は静かに今日のやるべきことの整理に切り替わっていく。


出社してすぐ、竹島さんを見つけた。


「昨日はありがとうございました。いい時間でした」


僕がそう言うと、竹島さんは少しだけ照れた顔をする。


「いえ、こちらこそです。来てもらえてよかったです」


「こちらこそ、ありがたかったです」


それ以上は引っ張らない。

会のお礼は、長くなると逆に“締め”っぽくなりすぎる。こういうのは短い方がいい。


自席に戻って、メールを開く。


今日の仕事は多くない。

でも、“最後の礼儀”としてやるべきことはある。


これまで直接深くは関わっていない取引先。

たまにだけやり取りがあった相手。

顔を合わせる機会はなかったけど、名前だけは先方の受信箱に残っている先。


そういう先に向けて、簡潔に退職連絡を送る。

退職すること。後任の連絡先。今後の窓口。必要な情報だけ。


自分がいなくても回る仕組みを、最後にもう一度整える。


メールを送り終えたあと、ローカルのデータを消していく。


引き継ぎ資料は全部サーバにある。

だからPCの中身は、もうほとんど空にしていい。


ブックマーク。

作業メモ。

キャッシュ。

ダウンロードフォルダの細かい残骸。


一つずつ消していくと、机の上が片付くより先に、“自分の席”の輪郭が薄くなる。

引き出しも開けて確認する。残っていたのは、予備の充電ケーブルと、使いかけのボールペン一本くらいだった。


段ボール箱に私物を詰めるほどの大袈裟さはない。

最低限だけを鞄に入れる。


机が空になると、ようやく実感が出る。


(明日で退職か……)


声に出すと軽い。

でも、空になった机はそういう事実だけを静かに突きつけてくる。


午後半休。


会社を出て、そのまま新大阪ゲートへ向かう。

見慣れた道。見慣れた駅。見慣れた現実側の入口。


ゲート前の警備に軽く挨拶をして、軽く簡易施設で準備をして中へ入る。


54階。


ゲートを抜けた瞬間、風の匂いが変わった。


塩気。

湿っているのに、樹海の時みたいな重さはない。開けた場所の風だ。


視界が、一気に広がる。


「……これは」


思わず声が出た。


直径500メートルくらいだろうか。

低い木が点在するだけの小さな島だった。建造物も岩山もなく、砂と草と、少しだけ起伏がある。


その周囲を、一面の海が囲んでいる。


しかも、遠くを見れば、同じくらい小さな島が浮かんでいた。


「……もしかして、向こうの島に行けってことか?」


近いようで遠い。渡れそうで、でも普通には無理な距離。


「海ね」


ブレスレットから出てきたミニディアが、少し楽しそうに言う。


「今日も撮っておくわ。こういう景色は、記録映えするもの」


「そういう問題かな……」


「半分はそういう問題よ」


黒猫仮面をつける。

スーラは服の内側で装甲を整え、コユキも隣に出てくる。


海辺の黒猫仮面。

画としては強い。問題は、その画の中で死なないことだ。


まずは島を一周してみた。


木。

砂。

潮風。

それだけ。


モンスターの気配も、建物も、洞窟も、何もない。

何もないのが逆に不気味だった。


「……ないな」


「何もないね」


コユキが言う。


「逆に、ここまで何もないと答えが絞られるわね」


ディアが上空から降りてきた。


「海を渡れってことか……やっぱ海にモンスターいるよね?」


コユキが、少しだけ楽しそうな声を出す。

海のモンスターはろくでもないのが定番だと分かってる時の声。


「いるのが定番」


「むしろいなかったら拍子抜けよ」


「拍子抜けで済めばいいんだけど」


僕は島の端に立って、海面を見た。

穏やかそうに見える。見えるだけだ。こういう場所で、見た目を信じるのはたいてい間違いだ。


渡る手段はいくつか思い浮かぶ。


スキルがなければ、木を切ってイカダでも作るのが定番なんだろう。

でも僕には、いくつか選択肢があった。


頭の中で、水系の手札を順に並べる。


水面歩行(アクア・ステップ)なら水の上を歩ける。

長息保持(ブレス・キープ)水流機動(アクア・フロー)を組み合わせれば、水中を速く抜けることもできる。

水糸拘束(アクア・バインド)は拘束用。

氷牙凍結(フロストバイト)は部分凍結で足場も作れる。


「……どうするの?」


ディアが聞く。


長息保持(ブレス・キープ)水流機動(アクア・フロー)、で泳いでいくこともできるけど……」


「水中はやめた方がいい」


コユキが即答した。


「慣れていない水中戦は嫌。秀人、海の下は嫌いでしょ」


「嫌いだね。かなり」


水中移動は、速い。

でも“見えない”のが最悪だ。しかも今回は撮影もある。


「今回は無難にいく。水の上を歩いて渡ろう」


僕がそう言うと、ディアが頷いた。


「無難が一番強い時がほとんどよ」


たぶん今日は、その無難が一番の日だ。


水面歩行(アクア・ステップ)――海へ足を出す。


足裏の下に、薄い膜みたいな反発が生まれる。

海の上には立てる。けれど、波の揺れがそのまま脚に来る。歩けるのに、本能が“そこは落ちる場所だ”と言い続けるから気持ち悪い。


「……慣れないな、これ」


一歩。

また一歩。


島から離れるにつれて、陸の安心感が背中の方へ遠ざかる。

海の真ん中って、それだけで少し怖い。


遠くの島へ向かって一直線。

でも、途中で海面が不自然に盛り上がった。


——来る。


影が、水面直下を並走する。

速い。大きい。


「下!」


ディアの声と同時に、海面が弾けた。


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