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カスミトシンジーノ(九)

 古い宝石箱は薄汚れて空っぽであるが、師匠にはこの箱に、沢山のアクセサリーが入っている姿が、容易に想像できた。

 それを嬉しそうに見つめ、今日はどれにしようか、迷っている姿も想像できた。


 そして、長きに渡って大切にされ、何度も開け閉めされたことは、自分がくたびれた蝶番を直したので判っている。


 きっと、オルゴールも、何度も演奏されたことだろう。


 そう思って、師匠は蓋を閉じると、箱の裏にあるハンドルでゼンマイを巻く。

 箱も随分傷んでいる。ただ、内装も外装も、直すことは依頼されなかった。師匠は、その通りだと思って頷く。


 思い付いて、師匠はオルゴールを振ってみる。


 カラカラと二本の鍵が、箱の中で踊り出す。

 その時師匠は、突然波の音が聞こえ、愛しい人と走った江ノ島の浜辺を、思い出した。


 驚いて、もう一度振る。

 すると今度は、初めて連弾した時のことがよみがえり、幼き日の愛しい人が、触れ合った指を見て恥じらいながらも、とびきりの笑顔となってゆく瞬間が、鮮明に浮かび上がる。


 指が暖かい。久し振りだ。息遣いも聞こえる。


 自分の顔が、真っ赤になったのを自覚して、師匠は大きく息を吸う。天井を見た。何故か、涙が止まらない。


 涙を拭きながら、師匠はオルゴールを机上に置き、そっと蓋を開ける。すると、自分で直した仕かけが順調に動き始め『愛のオルゴール』が、再び鳴り始めた。


 それはとても澄んだ音で、ゆっくりと部屋全体に、広がり始める。


 しかし師匠は、前奏の二小節目の所で蓋を閉じた。

 作業場に、静寂が戻る。




「これ、直さなくても、良かったんじゃないかなぁ」




 椅子の背もたれに大きく寄りかかり、両腕を使って伸びをする。


 暫く伸びた後、ゆっくりとその両手を頭に降ろし、そのまま、窓から夕焼けを眺めた。


 真治は下唇を噛んで、笑った。



 (了)

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