花火の夜(十)
左手の助走から始まった調べは、やがてカチカチと動く歯車から打ち出される『小さな機械音』を真似て、右手に引き継がれて行く。
いつもならキンキン鳴る高音も、ベヒシュタインのやさしい音色で響く。本当に素晴らしい音色だ。
三人の聴衆はにこやかな顔をして真治のピアノを見守っていた。
確かに、真治が心配することなど、何もなかったに違いない。
そこには、演奏家と観客が共有する『幸せの時間』が流れている。
真治はピアノで『オルゴール』を表現していた。
二つの楽器は『金属音による音色』としては一緒であるが、オルゴールは弾き始めたら、ぜんまいが止まるまで『同じメロディー』を奏で続ける。真治が、パッと香澄の方を見た。
「すいません。これ終わり方、忘れてしまいまして」
その間も『オルゴール』は止まらない。
「おや、それは大変!」
圭太が言った。苦笑いである。
「じゃぁ、素敵なピアノを聞きながら、お寿司、頂きましょうか」
笑いながら恵子は席を立ち、台所へ向かう。
香澄だけは何も言わず、笑顔のままピアノを聴いていた。
実に、何年振りだろうか。
真治のピアノを初めて聴いた『あの日のこと』を思い出す。
これから、楽しみにしていた花火だと言うのに、あの日に帰りたいとさえ、思ってしまう。
帰れたならば、きっと今度は。
真治はぜんまいが止まるように、ゆっくりと演奏を止めた。
拍手をしていたのは香澄だけだったが、真治にはそれで充分だ。
香澄に深々とお辞儀をすると、恵子と圭太は『本当に演奏中に食べよう』としていたのか、ちらし寿司をテーブルに置いて、遅れて拍手をする。
真治は一度上げた頭を、笑いを堪えながら再び二人にも下げる。
そして、ピアノに振り返ると蓋をして、ピアノに一礼した。
「今、お茶淹れますからね。どうぞ座って下さい」
恵子が真治に、笑顔で案内した。真治はテーブルを見て、もう少し時間があると思って言う。
「あ、すいません。お手洗いお借りします」「私もっ!」
すると、香澄も立ち上がる。
真治が驚いて『お先にどうぞ』と手で合図すると、香澄は『二階に行く』と言うかのように、指で上を指した。
あぁ、この家、でかいもんね。
キッチンに向かっていた、恵子が振り返る。
「どうぞー。香澄さん、大丈夫?」「うん」
恵子に促されて、二人は動き始めた。




