花火の夜(九)
時として『目の前で起きていること』が、『現実ではないのか』と、思うことがある。
それは、悲しい時もあれば、嬉しい時もある。どちらが多いとも、少ないとも言えないが。とにかくあるのだ。
それでも、悲しいことであれば夢であって欲しいと願い、嬉しいことであれば、長く続いて欲しいと願う。
人間とは、実に都合の良い生き物だ。
真治は目の前のお茶に『茶柱』が立っているのを、眺めていた。
果たしてこれは『良いこと』が起きる、前兆なのだろうか。
湯呑を覗いていると、そこに在りし日の『父の笑顔』が浮かぶ。
『今のお茶は機械カットだから、枝なんか幾らでも入るわぁぁぁっ』
真治は黙って、お茶を一口飲んだ。
楽しそうに会話する圭太と恵子。そして、その中心にいる香澄。
新調した浴衣を身に纏い、髪をまとめている。
それは、着物とは違う柔らかな木綿と、涼しげな柄。洋装の露出とは、また非なる涼しさ。そして『かわいらしさ』としておこう。
聞いていた赤い帯に、赤いかんざしが、髪に色を添えている。
うん。浴衣姿が、とても『絵になっている』ではないか。
「では、ピアノお借りします」
真治は覚悟を決めて立ち上がった。すると、香澄と目が合う。
何となく、初めて会った時の目よりも、若干大きくなった気がする。それに、階段を走って降りて来たからか、息遣いが荒い。
真治はその息遣いを見ると、ふと思い出して、一人納得した。
真治はピアノの前に座ると、椅子の高さを合わせた。
三人の観客は既にダイニングテーブルに座っていて、こちらに視線を送っている。
その姿を見て、真治はピアノを弾く前の儀式的なことを始めた。
果たして、自分は、この家族を幸せにできるのだろうか。
この家族は、自分を受け入れてくれるのだろうか。
ふとしたことで、悲しませてしまうことはないだろうか。
自分を『人』として、認めてもらえるのだろうか。
深く息をする。
そして、思い浮かぶ事柄をつかまえては、ひとつ、またひとつ、心に広がる紺碧の海に沈め、その光も当たらぬ奥底にある箱に詰め込み、蓋を閉めて施錠する。
全てのざわめきが消え、目を開けると、張り詰めた緊張感だけがそこにある。
真治は、心のぜんまいを巻いた。もう一度、ゆっくりと息を吸う。
そして、鍵束の中から一本の鍵を取り出し、幾つもの箱の中から、何故か間違えずにその箱の前に立つ。
幾つ月も眠っていたその箱を開けると、紺碧の海に光が射す。
そして、真治の両手に合わせてうねり、風が吹き雲が沸き上がる。
真治は『愛のオルゴール』を、嬰ハ長調で弾き始めた。




