テスト期間(三十九)
目の前の電話が鳴るまで、ピアノを弾いているつもりだった。
それが、横目に見えていたドアが、ゆっくり、ゆーっくり開くのが見えて、真治は思いっきり吹き出した。
慌ててピアノに掛かってしまった唾を、ハンカチで拭く。
やっべぇ。もうピアノなんて、弾いている場合じゃない。
すると、入り口のドアが『チョン』と動いた。
なるほど。寝そべって、下の方から入って来るらしい。
今のは、ちょっと当たってしまったに違いない。その内にあの角から、香澄の顔が覗くだろう。
一体、どんな顔をして覗くのだろうか。
真治はにっこり笑って、その角を見つめていた。
すると予想通り、頭が見え、おでこが見え、やがて目が見えて、目が合った。
吹き出しそうになって尚も見ていると、今度はゆっくりと引っ込み、向こうに隠れて行く。
しばらくすると、ドアから普通に香澄が入って来た。
『ごはんできましたー』
元気良く悔しそうに笑って、右手の拳をあげている。
多分そう言っているに違いない。
真治も消音室で右手をあげ「はーい」と返事をした。
しかしそれが香澄に届いていたかは、定かでない。
真治は、かわいい姿の香澄に腕を引っ張られ、揺れるスカートから目を逸らしつつ、にやけながら家の中を歩いた。
食卓では、かわいい笑顔を振りまかれ、にやけながら頷いた。
無事美味しいカレーを頂き、楽しいおしゃべりをして、にやけた。
そして遅くない時間に、名残惜しくも明るく手を振って、香澄の家を後にした。
にやけていた。
もちろん帰り道も、ずっとにやけていたのは間違いない。
そんなこんなで、上機嫌の内に家に帰ったのであるが、そこから先はいつも通りだった。
両親から、あれやこれやと散々言われ、にやけは一つ、また一つと、どんどん亜空間に滅却されて行った。
自室に戻るまでに大声で『はいっ』と答えた数、丁度百八回。
偶然にも『今日の煩悩の数』と、まったく同じだった。
故に、香澄のかわいい姿も、かわいい仕草も、かわいい笑顔はもちろん、ちょっと尖がったかわいい唇も。
しゅっとしてパタパタしていたおみ足も、ぴょんと見えた足先も。
うなじから滑らかな曲線を描くなで肩からの二の腕も、良い香りのする揺れる長い髪も。
柔らかな手も、その手を握った温もりも、握り合った手の中で踊っていた指の感覚も。
全てと言ったら全て滅却して、昇華した。
ララー。
そして、健やかなる中学生として、静かな夜を迎えた。
真治はカレンダーで日付と曜日を確認し、明日の時間割を見た。六教科分の教科書とノートをカバンに入れ、体操服も準備した。
間違いがないか二度確認すると、静かに微笑み、穏やかな気持ちになって眠りについた。
お陰でその晩、真治はめでたい『富士』の夢を見た。
それは神田市場にある、一番静かな競り場でのことだ。
クラウンメロン生産者番号二桁台の『富士』。六個入り一箱。
伝説の一品を、仲卸強豪三社に競り勝って、ものにしたのだ。
それは夢の中で、香澄にプレゼントした。
すると香澄は凄く喜んでくれて、瞳を輝かせて抱き付いて来た。
そして、何度も何度も柔らかな唇で、キスをしてくれた。
合掌。




