テスト期間(三十六)
「たっだいまぁー」「ただいま戻りました」
いつもの調子で玄関ドアが開いた。
本当に恵子は『香澄が呼び鈴を押した場合』が判るようだ。
「おかえりなさい。ありがとう。あら、一緒に持って来るなんて仲良しなのね。真治さんもありがとうございます」
恵子が玄関で二人を出迎えた。真治は恵子に会釈していると、そこに恵子の手が伸びて来る。
「じゃぁ、ここからはお母さんが一人で持ちましょう」
そう言って買い物かごを受け取った。二人は手が軽くなる。
「あ、大丈夫ですか? 持って行きましょう」
真治は手を離したものの、恵子に声をかけた。
香澄は楽しい買い物が終わって、上機嫌で靴を脱いでいる。
「大丈夫ですよ。これくらい。どうぞトランペットでも、ピアノでも練習していて下さいね」
片手で買い物かごを持ち、もう片方の手で二階の消音室を指した。
「いやいや、お母様!」「え、ピアノの練習?」
真治は驚いて否定したが、香澄が聞き漏らす筈もない。直ぐに振り返った。目が、今まで一番輝いているではないか。
「この間、香澄さんがピアノを弾いてる時に、一階のピアノを弾くには練習しないとダメだって、言ってらしたのよー」
恵子は笑いながらそう言って、リビングへの扉を開けた。
「いやいや」
そうじゃないでしょお母様。
『二階のピアノもベヒシュタインだなんて、聞いていませんよ!』
そう心の中で思っていても、もう遅い。
「そうなの! じゃぁ、私、練習に付き合ってあげる!」
もー、この人には、ちゃんと『練習の練習が必要だ』って言ったよ? あら、二階行くの? お料理手伝うのでは?
「ダメよ。香澄さんは、お母さんのお手伝いね」
香澄の親切を、恵子は許さない。香澄はさっさと階段を昇り始めていたが、恵子に呼び戻された。セーフだ。ギリセーフだ。
「えぇえぇえぇー」
香澄はさっきまでの『上機嫌』から『不機嫌』になって、階段を降りて来た。どうやら『母親の指示』は、絶対らしい。
「ささ、二人共手を洗ってらっしゃい。今日はレシピ見ながらカレーに挑戦しますから」
恵子が笑顔で言う。『レシピィ』と思った真治は驚いた。
「よ、よろしくお願いします」
香澄の後に続いて、洗面所に向かっていた真治がお辞儀する。
「お母さんのシチュー美味しいから、きっとカレーも大丈夫だよ」
先を歩いていた香澄が振り返って言った。不満げな顔である。
「遠慮なく弾いて下さいね」「ありがとうございます」
恵子が言う。真治の礼に恵子は笑顔になって頷いた。そして、リビングに消えて行く。残るのは余韻だけだ。
「えぇっ、私もきぃきぃたぁいぃぃっ」
香澄が駄々を捏ねると、消えた筈の恵子の顔が『シュッ』と戻って来た。その戻り方に真治は驚く。
「駄目よっ。男の人はそういうの、恥ずかしいんだからっ。ねぇ」
ちょっと怒っている顔から、笑顔になって真治に言う。
「あ、はい」
真治は顎を出すように返事をした。そうだ。その通りである。
「夕食できたら内線電話、鳴らしますから」
「判りました」
洗面台に横並びで一緒に手を洗った真治と香澄は、階段の所で右と左に別れた。
真治が笑顔で階段から手を振っても、香澄はそれに手を振り返すことはなく、『膨れつつも笑顔』という不思議な顔のまま、台所へ向かった。




