4.ムギが見た、ある一日
──夜明け前
まだ暗い。
商店街は眠っている。
私は窓際で、目を開けた。
澄江さんの寝息が、奥の部屋から聞こえた。
今日も、ある。
それだけ確認して、また目を閉じた。
──六時
夜が明けた。
商店街に、最初の光が差してきた。
私は窓際で、今日の糸の具合を確認した。
いつもの朝だった。
木村さんの赤い糸が、美咲の方向へ、温かく伸びていた。
磯田さん夫婦の白い糸が、五十年分の重みで輝いていた。
芹奈さんの糸が、アパートの窓から、商店街の方向へ伸びていた。
全部、あった。
今日も、あった。
それだけで、今日は始まった。
──七時
澄江さんが起きた。
台所でお茶を入れる音がした。
私は窓際から降りて、台所へ歩いた。
「おはよう、ムギちゃん」
澄江さんが言った。
私はそっぽを向いた。
おはようとは言えないが、鳴いた。
澄江さんが私のご飯を出してくれた。
食べた。
美味しかった。
そっぽを向いたまま、美味しいと思った。
──八時
木村さんが店を開けた。
シャッターを上げる音が、商店街に響いた。
毎朝同じ音だ。
でも、毎朝聞く。
木村さんが野菜を並べ始めた。
今日は大根と、白菜と、みかんだ。
縁くんを抱いた美咲が、店先に出てきた。
縁くんが、みかんを不思議そうに見た。
木村さんが「触るな」と言いながら、縁人の手を優しく引いた。
私は窓から、その様子を見た。
悪くない朝だ。
──九時
磯田さんが店を開けた。
正一さんが、店先を掃き始めた。
右手のしびれは、だいぶよくなっていた。
箒を持つ手が、去年より安定していた。
磯田さんが「また同じ掃き方してる」と言った。
正一さんが「うるさい」と言った。
毎朝同じやり取りだ。
でも、毎朝聞く。
飽きない。
──十時
ほころび庵が開いた。
澄江さんが暖簾を出した。
「さあ、今日も始めましょう」
澄江さんが言った。
誰に言っているのかわからなかった。
でも、私に言っている気がした。
私はカウンターの端に座った。
今日も、ここにいる。
それだけだ。
──十一時
芹奈さんが買い物に来た。
木村さんの店で、大根を買っていた。
「ムギちゃん、今日も窓から見てる」
芹奈さんが私に気づいて、手を振った。
私はそっぽを向いた。
見ていない。
ただ、窓の前にいただけだ。
芹奈さんが笑いながら歩いて行った。
芹奈さんの糸が、今日も色づいていた。
悪くない糸だった。
───正午
澄江さんが昼ご飯を食べた。
私も食べた。
食べてから、窓際で丸まった。
少し、眠った。
夢は見なかった。
ただ、温かかった。
それで十分だった。
──二時
相談者が来た。
三十代の男性だった。
仕事の悩みらしかった。
糸を確認した。
灰色の糸が、少し見えた。
迷っている糸だ。
澄江さんが話を聞いた。
私はカウンターの端で、糸を見ていた。
男性が話すにつれて、灰色の糸が薄くなっていった。
言葉にすると、糸は変わる。
それを、今日また確かめた。
男性が帰り際、私を見た。
「猫、いつもいるんですか」
「いつもいるわよ」
澄江さんが言った。
「なんか、落ち着きますね」
男性が言った。
私はそっぽを向いた。
落ち着いてもらって構わない。
でも、礼は言わなくていい。
──三時
春翔が通りかかった。
さきさんと一緒だった。
二人が仲良さそうに歩いていた。
赤い糸が、二人の間で輝いていた。
春翔が窓の私に気づいた。
「ムギさん、こんにちは」
と言いながら手を振った。
私はそっぽを向いた。
さきさんが「かわいい猫ですね」と言った。
私はそっぽを向いたまま、少しだけ耳を動かした。
それだけだ。
──四時
縁人が泣いた。
木村さんの店の方から、大きな泣き声が聞こえた。
美咲が「どうしたの、どうしたの」と言いながら、あやしていた。
木村さんが「俺が抱く」と言って、縁人を受け取った。
縁人が、少し泣き止んだ。
木村さんが「そうだろ、父ちゃんがいれば大丈夫だ」と言った。
美咲が「さっきまで私が抱いてたじゃない」と言った。
木村さんが「そうだったか」と言った。
私は窓から、その様子を見た。
縁人の糸が、今日も少し太くなっていた。
毎日、少しずつ太くなっていた。
この子がどんな糸を持つ人間になるか、まだわからない。
でも、見守ることはできる。
それだけだ。
───五時
澄江さんが、お茶を入れた。
私の隣に座った。
「今日も、いい一日だったわね」澄江さんが言った。
私は澄江さんを見た。
いい一日だったかどうか、判断するのは難しい。
相談者は一人だけだった。
特別なことは、何もなかった。
でも、木村さんと美咲と縁人がいて、磯田さんと正一さんがいて、芹奈さんが買い物に来て、春翔とさきさんが通りかかって。
商店街の糸が、今日も光っていた。
それだけで、いい一日だったかもしれない。
私はそっぽを向いた。
認めたくないが、いい一日だった。
──六時
澄江さんが店を閉めた。
暖簾をしまいながら、商店街を見た。
木村さんがシャッターを下ろしていた。
磯田さんと正一さんが並んで帰っていった。
芹奈さんのアパートの窓に、電気がついた。
みんな、それぞれの場所へ帰っていく。
そして明日、また来る。
糸は、今日も切れていなかった。
──夜
澄江さんが眠った。
私は窓際で、夜の商店街を見ていた。
静かだった。
でも、糸は光っていた。
赤い糸、白い糸、あの温かい色の糸。
全部、夜の中で、静かに光っていた。
明日も、木村さんがシャッターを上げる。
磯田さんが正一さんに文句を言う。
芹奈さんが買い物に来る。
縁くんが泣くか、笑うか、どちらかをする。
澄江さんがお茶を出す。
誰かが暖簾をくぐる。
私が糸を視る。
それだけのことが、明日も続く。
私は目を閉じた。
今日も、ここにいた。
明日も、ここにいる。
それだけで、十分だった。
番外編も終わりました。
今まで読んでいただきありがとうございました。




