30、ライガとソグド
「イスラーフィル殿!
先ほど門兵が月色の髪の娘を見たと申しておったが……」
部屋になだれ込んできた年配の一癖も二癖もある集団は、イスラーフィルのベッドに座るミトラを見て、みな一様に目を見開いた。
「伺いもたてず部屋に入るとは無礼であるぞ、エラン殿、アキム殿」
イスラーフィルがさっとミトラを隠すように立ちはだかったが、もう遅かった。
「いや!
これはどういう事か説明してもらわねばならんぞ!」
「月色の髪といえば、そなたらが奪還を叫んでいたミスラ神の聖大師ではないのか」
「まさか極秘の内にマガダの王と取引したのではあるまいな」
口々に貴族とおぼしき重鎮達が問い詰める。
「ワシらを謀ったか!
反乱を煽動しておきながら、まさかその女を連れて今更逃げ出す気ではあるまいな!」
ミトラは青ざめた。
アショーカを助けるどころか、自分はまたここに争いの火種を作ってしまっているのではないのか?
「待たれよ。誤解されては困る。
もしそのように密かに画策していたのなら、こうも目立つ場所に連れて来るはずがないだろう。
私も驚いているのだ。
マガダの王子が自ら逃してくれたとの話だが、新太守の任につくというアショーカ王子をご存知か?」
イスラーフィルが問うと、貴族達は俄かにどよめいた。
「アショーカ王子だとっ!!」
一番偉そうにしているエランがシワを深めて叫んだ。
「まさか新太守にアショーカ王子を寄越そうとは!」
次に偉そうなアキムは苦々しく呻いた。
「乱暴で無慈悲な男という噂だ」
「チャンダ(暴虐な)・アショーカの異名を持つ王子ではないか」
貴族達は口々に罵った。
「各地の反乱を鬼神のごとく成敗する残忍な王子だと聞いているぞ」
「アショーカ王子の通った後には草木も生えぬという話だ」
「違う!
アショーカは無慈悲な王子などではない!
本気で万民を思う正しき王子だ。
タキシラの太守となればきっとこの地を平和に治めてくれる!」
ミトラは思わず叫んだ。
「なんと!
この女、囚われていた敵国の王子の味方をするか」
貴族の一人が大仰に驚くと、エランはいやらしく頬を歪めて微笑んだ。
「ふん、女の申す事はこれだからあてにならぬ。
おおよそアショーカ王子に身も心も捧げてしまったのだ。
女はすぐに色恋で物事を判断する」
アキムもすぐに同調する。
「さてはアショーカ王子め。
うまく手なずけたこの女を使って我らを懐柔しようと謀ったのだな?
なんと浅はかな王子よのう」
「なんっっ……!!」
ミトラはあまりの怒りに喉が震えて言葉が出なかった。
アッサカは剣を握る手を必死に堪えている。
「エラン殿、アキム殿!
シェイハンの巫女姫をこれ以上侮辱したら許しませんぞ!」
イスラーフィルが呻くように叫ぶと、男達はしぶしぶ口を閉ざした。
ミトラはその貴族達を呆然と見やる。
(私の発言力などこの程度なのだ。
誰もまともに聞いてなどくれない)
ふと。
脳裏に、高らかに笑うアショーカが浮かんだ。
(だから言ったであろうバカ者が!
そなたは大人しく俺の言う通りシェイハンの者達とシリアに行くがいい。
わかったか!)
鼓膜に響く大声が聞こえた気がする。
ふふ……と笑みがこぼれる。
さっき別れたばかりなのに懐かしさが込み上げる。
離れてみて初めて分かる。
その傲慢で温かな笑顔が隣りにない寂しさを。
もう永遠に見る事が出来なくなるかもしれない恐怖を。
(ミスラの神よ力を下さい。
この寂しさと恐怖の中で生きるぐらいなら、この身など燃え尽きてもいい。
どうか私に力を……)
ミトラはぐっと奥歯をかみ締めた。
「そなたらっっ!!
アショーカ王子がこのまま攻めて来たらどうするつもりだっ!」
ミトラは渾身の大声で貴族達に怒鳴った。
エラン達は突然のミトラの剣幕にぎょっと身を引いた。
「アショーカの軍は噂通り鬼神のごとく精鋭揃いだぞ!
数の利があれども、やがて鎮圧されるであろう。
さすればここにいる首謀者は真っ先に死罪だ」
貴族達の顔が一斉にひきつった。
「わ、我等は首謀者などではない。
シェイハンの反乱軍が現太守を幽閉したゆえ、民をこれ以上混乱させぬように従っているのみ」
エランの返答にミトラは微笑んだ。
その笑みは、さっきまでの頼りなげな小娘から一転、神宿る月の精のようだとイスラーフィルは思った。
「本心を吐いたな。
最初からどちらに転んでもいいようにイスラーフィルを首謀者に担ぎ上げ、いざとなれば脅されて従ったとでも言うつもりであったのであろう」
「む……それは……」
貴族達は口ごもる。
そんな事はイスラーフィルも分かっていた。
分かっていてミトラを奪還するため反乱を起こしたのだ。
「されど我々シェイハンの軍は、私と共にこれよりシリアに逃げる」
「な! なんだとっ!!」
貴族達ばかりかイスラーフィルとアッサカも驚いた。
「我らがいなくなれば首謀者は誰になるのかな?
そなたか? エラン殿」
エランは名指しされてブルブルと首を振った。
「何を言う。
私はアキム殿に従ったまでだ」
「な、何を!
エラン殿こそふんぞり返って我々に命令していたではないか」
わが身の保身の為ならプライドすらない腐った貴族達だった。
「そ、そんな事はさせぬぞ!
タキシラの衛兵達がそなたらを捕らえてやる」
貴族達はそうだそうだと息巻いた。
「ほう。我らを捕らえると?
イスラーフィル。
そなたの指揮する兵はこの者らに捕らえられるほどに弱いのか?」
ミトラは隣りに立つイスラーフィルに尋ねた。
「いいえ。
今やタキシラの衛兵も我が傘下にございますれば、この者達の命令に従う兵は僅かばかりかと……」
イスラーフィルはにっこりと言い切った。
貴族達がゴクリと生唾を飲む音が聞こえた。
「ま、まさか……この期に及んで逃亡すると申すか。
われらがタキシラの地を混乱の渦に巻き込んでおきながら……」
「いま一つ。
そなたらに道を与えよう。
反乱を治め、新太守を迎え入れるのだ」
「ば、ばかな……。
我ら貴族や豪族が納得しようとも、民の大多数を占める農民や商人が納得せぬ。今更そのような翻意を命じれば暴動で我らが嬲り殺されるわ」
「そ、そうだ!
農民や商人にシェイハンの逃亡を伝えようぞ。
民の怒りは増し、そなたらは行く手を阻まれるであろう」
「農民と商人か。
ではその者らを説得すればよいのであるな」
「ははっ。そなたが説得するつもりか!
ここはシェイハンではないのだぞ。
誰が女のそなたの言う事など聞こうものか」
しかしエランの言葉を受けて、部屋の外から鼓膜を突く大声が響いた。
「いいえ。
しかと受け止めましてございます!」
聞いた事のある野太い大声だった。
熊のような巨体に使い込んだ甲冑をつけた猛々しい男が部屋に入ってきた。
そしてもう一人、キトンを洒落者風に粋に身に着けた頭の切れそうな男。
「そなたは……」
熊のような男に見覚えがあった。
「ライガ、遅かったではないか!
王子を討ち取る奇襲作戦とやらはどうなったのだ」
「大将さえ討てば総崩れと大口を叩いておきながら今まで何をしておった」
貴族と豪族達が口々に大男を責め立てる。
「我ら農民軍の頭を集め協議をしていたため遅くなりました」
「して、総大将の王子は討ち取ったのか!」
豪族の一人が意気込んで問う。
「いえ、残念ながら……」
言いながらライガはミトラを見た。
「偉そうに言いながらなんというザマだ。
そうじゃ。そなたらこの女を捕らえよ。
シェイハンの軍を率いて逃亡を図ろうとする裏切り者だ」
「そうだ!
そなたが命じれば百万の農民が味方につこうぞ。
この者を捕らえよ」
ライガはにやりと微笑んだ。
「この方は、もしやシェイハンの軍が血眼になって捜索していた巫女姫様ではありませんか?」
「そうだ。
その巫女姫が手に入ったからと今更シリアに逃げようとしておるのだ」
「先ほどから外で聞いていますれば、そのようには聞こえませんでしたがね」
「な、な、なんだとっ!」
「私は実はつい先日、この方にお目にかかっています」
「なに? 先日だと?」
「はい。悪名高きアショーカ王子が、わが命を顧みず大切に守られていたお方。
さようでございますね? 巫女姫様」
ミトラは問われるままに頷いた。
「なぜ今ここにおられます?」
「アショーカが逃がしたのだ。
薬で眠らせ、無理矢理に」
「なにゆえ今更逃がされましたか?
あの方のそばほど安全な場所はないでしょうに」
ライガの視線が鋭く光った。
隠しても無駄だろうとミトラは思った。
「私はマガダの皇太子の婚約者となった。
その私がアショーカの軍に紛れ逃亡を謀ったため、王子は逆賊となり皇太子の十万の正規軍が背後に迫っている」
「じ、十万だとっっ?!」
貴族達が蒼白になって呻いた
「やはり我らを謀っておったかっ!」
「それでアショーカ王子はどうするつもりなのですか?」
ライガに問われ、ミトラは迷ったが、すべて正直に言う事にした。
この男に嘘やごまかしは通じないだろう。
「アショーカは……勇気ある反乱民よりもマガダの腐った正規軍を討つ事にしたと……」
「嘘をつくな! この女!」
言葉の途中でエランが噛み付く。
「我らより十万の正規軍を迎え撃つというのか!
御しやすい我らを討って正規軍に立ち向かう方がまだ勝算があるに決まっているだろう!」
「アショーカはそもそも反乱民を討ちたくはなかった。
王の命令で仕方なく従ったのだ」
「はん!
そんな綺麗ごとを信じろと?
バカバカしい!」
「いいえ、私はその言葉、すべて信じましょう」
ライガは静かに言い放った。
「ライガ殿……」
ミトラは鷹揚に微笑む目の前の男を見つめた。
「我ら農民軍は協議を重ね、先ごろ出会ったアショーカ王子が本当に新太守になられるのであれば、反乱を治め新太守殿に従うと決め、ここに報告に参りました」
「な、なにを言っているのだ」
貴族達は信じられないという顔でライガを見た。
「この女の言う事を鵜呑みにするつもりか!
こんなバカバカしい話を!」
「いいえ。
私の出会ったあの方であるなら、そのような決断をされても不思議はありません。
むしろ、この巫女姫様の話を聞き、一点の曇りもなく信じる事が出来ました」
「そんなバカな!
なにゆえ……」
「王子は正しき統治者の目をしておられた。
そして苦境の中で急所を外して下さった故、我ら農民軍は一人の死者も出なかった。
あの方が反乱民を討ちたくないというのは本心でしょう」
「ライガ殿。
ほんとうに……?」
ミトラの目に涙が溢れた。
「私の率いる者達もアショーカ王子様が新太守であるなら従うと決めて参りました」
今まで黙って横にひざまずいていた洒落者の男が初めて口を開いた。
「ソ、ソグド!
そなたまでなぜ?」
「ソグド殿?」
ミトラは人当たりの良さそうな粋な男を見つめた。
「お初にお目にかかります。
私は商人連合を広くまとめておりますソグドと申します。
アショーカ王子様の庇護のもと、我ら商人はずいぶん安全な商いが出来るようになり、恩義を感じている者はこの地にも大勢います。
新太守がアショーカ王子様であるならば、我等は喜んで迎え入れると満場一致で決めて参りました」
「ソグド殿ありがとう。
感謝する」
ミトラの目からとめどなく涙が溢れる。
ソグドは清らかに涙を流す巫女姫に目を細めた。
「あなたがミスラの巫女姫様なのですね。
お噂はアショーカ様より聞いていました。
あの方が上機嫌に贈り物をするご寵愛深き姫はどのようなお方かと思っていましたが、なるほど月妻ローヒニーのごとく美しく清らかなお方。
納得致しましてございます」
「アショーカが私の事を?」
「はい。それゆえシェイハンの巫女姫様のお気に召す品を求めギリシャの地に向かっておりますれば、此度のアショーカ王子の危機に駆けつけるのが遅れてしまいました。
ギリギリ間に合って、ほっと致しましてございます」
(なんと! ミトラ様がこれほどまでに守ろうとし、ライガが一目で敬服し、ソグドが信頼を寄せるアショーカ王子とは……)
イスラーフィルは会ってみたいと思った。
次話タイトルは「アショーカと側近」です




