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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第六章 トルファン 遊牧の民 烏孫編
222/222

40、アショーカの腕の中で

 ミトラは神威かむいや杏奈達と簡単な別れの挨拶をして匈奴きょうどの陣を離れた。


 神威は単干ぜんうの思いつきで、跡継ぎのないシャーマンの一族の元で薬学を学ぶ事になった。

 一人前になったら、烏孫うそんの側近として迎え入れられるらしい。


 アショーカが拾った神威にもらった兎の襟巻きは、洗って大事に持っておくと約束した。

 桂香の血が滲み込んだそれは、ミトラにとってこの北の大地の象徴のようだった。


 杏奈と女達は、意外にも「酷い事をしてごめんなさい」と謝ってくれた。


 烏孫の妻の座を捨てたミトラは、もう女達の敵ではなくなったのだ。

 今の状態であれば気持ちのいい友情が築けたかもしれないと思うと少し残念だったが、きっともう生涯会う事もないだろう。


 この地はヒンドゥからは、あまりに遠い。


「俺はお前の第五のマギだ。勝手に指名したからには責任を取ってもらうぞ。今よりもっと強くて凄い男になってお前を迎えに行く。これは別れじゃないからな」


 烏孫は捨て台詞を吐いてから、翔靡しょうび蘭靡らんびを従えてさっさと行ってしまった。

 蘭靡と狛爺は一度だけ名残惜しそうに振り返って、ミトラに一礼して去っていった。




 ミトラ達一行は、黒服の男達に護衛されてイシク湖半にあるという月氏げっしの城を目指した。


 チャン氏にも再会し、道々、月氏族の不思議な力をアショーカやヒジムに聞かされ、タキシラやパータリプトラの面々の元気な様子も一通り聞いて一息ついた。


 そのまま月明かりのあるうちに、もう少し陣を進めようと夜の荒野を進んだ。


 冷たく澄んだ空には星がひしめいて輝く。


「暖かい……」

 ミトラはアショーカの腕の中にいた。


 二人乗りの馬の背で、チャン氏の用意してくれた新しい毛皮に包まれている。


 ゲルの中のかまどの前でも、これほどの暖かさは感じなかった。

 ここだけ別世界のようにポカポカする。


「シェイハンやヒンドゥでは考えられないような寒さだっただろう?」

 アショーカは毛皮を広げて、もう一度ミトラを腕の中に包み直した。


 慣れない土地の厳しい寒さで、ますますはかなくなったような気がする。


「でもここは陽だまりのように暖かい」

 ミトラはゆったりとアショーカの胸に背を預けた。


 以前にはなかった打ち解けた振る舞いに少し面食らう。


「お、俺様に会いたくて泣きべそをかいてたんだろう」


 バカ言うなと言い返されると思っていたのに、ミトラは「うん」と肯いてアショーカの腕に頭をもたせかけた。


「失くしてみて初めて分かった。ここがどれほど居心地のいい場所なのか……。そなたにもう会えないのだと思った時は、心が砕けそうに痛かった」


「えっっ!」

 アショーカは素っ頓狂な声を上げた。


 そんな事を言われるとは思ってもみなかった。

 放してくれと悪態をつかれるものだとばかり思っていたから、予想外の言葉にどうしていいか分からない。


「アショーカの腕の中は本当に暖かい……」

「ど、ど、どうしたのだ、ミトラ? 悪い物でも食ったか?」


 ヒジムがふふふと笑いながら馬を並べる。


「ヒンドゥでは無駄に暑苦しかったアショーカの熱血も、この北の大地では暖をとるのに丁度いいって事だよ。役に立って良かったね、アショーカ」


「ヒジム……。そ、そうか、分かったぞ。前にもこんな事があった。ミトラをティシヤラクシタに殺されたと思った時見た夢。あの時もヒジムが出てきて俺に都合の良い事ばかり言っていた。これも夢だな。どうもミトラが可愛い事ばかり言うと思った」


「何言ってんのさ、アショーカ」

 ヒジムが呆れる。


「さあ、ミトラ。俺を上機嫌にさせてどうしたいのだ? お前の要求を申してみよ」

「要求?」

 ミトラは背のアショーカを見上げる。


「私はこんな辺境にまで迎えに来てくれた事に感謝している。こうして共にタキシラに帰れるだけで満足だ」

 感謝を込めて微笑んだ。


「愛らしい……」

 アショーカはミトラの笑顔を堪能するように肯いた。


「うむ。たまらなく愛らしいぞ、ミトラ。そして突然突き放すのだろう?」


「突き放す?」

 ミトラは怪訝な顔でもう一度背を見上げる。


「そうだ! 暴言を吐く男は嫌いだと言うのだろう?」


「アショーカ、何言ってんのさ」

 どんな夢を見たんだとヒジムが呆れる。


「私はアショーカの暴言すら懐かしくてたまらなかった。案外そなたに怒鳴られるのが嫌いではないのかもしれない」

「なっ!」


 またしても予想外な事を言われ、アショーカは意表を突かれる。


「う……うむ。いちいち言う事が可愛いな。それでお前の要求は何だ?」


「何のことだ?」

 もちろんアショーカが勝手に見た夢の事など知るはずもない。


「だ、だから、シリアに行きたいのだろう?」

 せっかちなアショーカは思わず自分から口に出す。


「い、いいのか? こんなに迷惑をかけたのだから、もうダメかと思っていたのだが、許してくれるなら、もちろん行きたい!」


「うむ。俺は一度約束した事は必ず守る。その為の下準備も進めている」


「本当に? ありがとうアショーカ!」

 ミトラは破顔して喜ぶ。


「他にもあるのだろう?」

 アショーカは怪しんで続ける。


「他?」ミトラは何かあっただろうかと考えを巡らす。


「そういえば、あの夢では学校ダッカに入りたいと言ったな」

「ダッカ? 入ってもいいのか?」


 今度はミトラの方が驚いた。

 一度手ひどく却下されている。


「確か病弱な少年のフリをすれば、剣技も水練も免除に出来るという話になったな?」

「本当に?」


 そんな話をしただろうかと思ったが、そう言ってくれるなら断る必要はない。


「まあ、あの時はお前を失うぐらいなら許してやると言った」

「アショーカ! 大好きだ!」

 ミトラは思いがけない申し出に大喜びする。


「あーあ、知らないよ、そんな安請け合いして。サヒンダの怒る顔が目に浮かぶよ……」

 ヒジムは墓穴を掘り続ける主君を本気で心配し始めた。


「それで兄上と結婚すると言うのだろう?」

「スシーマ殿と?」


 これにはミトラも驚いた。


「スシーマ殿と結婚して欲しいのか?」


「そんな訳ないだろう!!」

 話が噛み合わない。


「そんな事になったら、どこまでも妨害して邪魔しまくってやる!」

「アショーカは……私が側にいても迷惑ではないのか?」


「だから何で迷惑なんだ!」

 さっきもそう思い込んでいた。どうしてそう思うのか。


「だって……こんな辺境まで迎えに来る破目になったり、何度もそなたを危険に晒している」

「ふん! 俺様を見くびるなよ。お前を失うぐらいなら、こんなぐらい屁でもないわ!」


「私は命を狙われる割に、何の力も無いぞ?」

「お前が無力な事ぐらい最初から分かっている」


「ミスラ神の呪があるから、まともな結婚も望めない女だぞ?」

「分かってる。それはこれから二人で考えていけばいい話だ」

「それに……」


 ミトラは思い詰めた顔で口ごもる。


「まだあるのか? それに何だ!」


「……絶望的な……貧乳だぞ?」

 遠慮がちに呟く。


「ばっ!……なっ……!!」

 唐突な告白にアショーカは顎が外れそうになった。


 ヒジムが隣で大笑いをしている。

 アッサカは凶悪さを増した顔を俯ける。


「お、お、俺がいつお前の貧乳を問題にした! そんなもの見れば分かる!!」

「知ってたのか……。じゃあやっぱり問題だと思ってたんだな?」


「ちっ……ちが……俺は……別に……」

「違うのか? じゃあ巨乳より貧乳の方がいいのか?」


「い、いや……それは……出来れば……巨乳の方が……いや、そうじゃなくて……」

「やっぱり巨乳の方がいいんだな……」

 ミトラは肩を落とした。


「烏孫の村では女の価値無しだとひどく気の毒な目で見られた」


「う、烏孫のやつめ! ミトラにくだらぬ事ばかり言いおって。あいつやっぱり一発ぐらい殴ってやるんだった」

 アショーカは頭を抱えて憤る。


「ミトラってやっぱりいいね。しばらく会わない間に、一段と面白くなって帰ってきたね」

 ヒジムだけが手放しで喜んでいる。


「いいか、ミトラ。烏孫のつまらぬ戯言ざれごとなど信じるな! 俺はジャスミンの小花のようなお前の胸で充分、夢を膨らませられるぞ」


「ジャスミンの小花? 誰がそんな事を?」


 アショーカはしまったと口を押さえた。

 タキシラでは想像が暴走して鼻血まで出した。


「もう鼻血出さないでよ」

 訳知りのヒジムが一人、笑い転げている。


「だ、だ、だいたいお前は人の言葉を簡単に信じすぎるのが問題なのだ!」

 苦し紛れにアショーカはミトラに説教を始めた。


「誰にも彼にも呆気あっけなく騙されおって! 守る方の身になってみろ! 安心して眠る事も出来ぬわ。シリアに行くならもっと人を疑えるようになれ! わかったか! おい!!」

「……」


 返事がなかった。


「聞いてるのか? おいっっ!!」

「ぷふ……」


「? ……ぷふ? なんだそれは?」

 アショーカは不審を浮かべて腕の中を覗き見る。


 ミトラは口を半開きに開けて無防備な顔で眠りこけていた。


「な! な……な……なんで寝てるんだあああ!!!」


 ヒジムがいよいよ苦しいとばかりに腹を抱えて笑っている。


「アショーカの怒鳴り声を聞きながら眠る女なんて世界中捜してもミトラだけだろうね」

「く、くそーっ! なんなんだ、こいつは!!」


 人の心配をよそにすこやかな寝息を立てている。


「アショーカに会えて安心したんじゃないの?」

「うー。安心してるのならいいのか、くそっ!」


 その穏やかな寝顔にふっと微笑んだ。

 そうして、ついイタズラ心が湧いてくる。


「どれ、無防備な間にキスの一つぐらいしておくか」


 どこまで封印とやらに耐えられるのか、一度試してみたかった。

 みんなが騒ぐほどに、封印の縛りを感じた事はない。

 今まで手出し出来なかったのも、ミトラの抵抗とアショーカの理性の賜物たまものだと思っている。


 自分はもしかして封印を破れるのではないか?

 そんな気がするのだ。


 不安定な態勢の馬の背で、そっと腕の中の少女を右腕に仰向ける。


 大国の王子として育ち、美しい女は見慣れている。

 キス一つにドキドキするような年でもない。

 そもそも子供が三人もいる男だ。


 それなのに、ひどく心が騒ぐ。

 これは封印のせいなのか?

 それとも相手がミトラだからか?


「寝てる間に卑怯と思うなよ。俺の腕の中でそんな可愛い顔で眠るお前が悪い」


 アショーカはゆっくり顔を近付けた。

 そしてその繊細な唇に触れる……と思った瞬間。


「いたっっ!!!」


 不意にアショーカの顔面に痛みが走った。


「な、なんだ?」


 見ると、ハヌマーンがミトラの懐から顔を出して爪を立てていた。


「な! なんだ? こいつは兄上の猿じゃないか! いつの間にこんな所にっ!!」

「さっきからずっと睨んでたよ。ミトラしか見えてないから気付かなかったんでしょ?」

 ヒジムがやれやれと肩をすくめた。


「スシーマのやつ、こんな所まで邪魔をしにくるかっ!! くそ――――っ!!」


 北の草原にアショーカの雄叫びが響き渡った。




 ヒンドゥ史上、最も偉大な王の一人、アショーカ。

 数々の偉業を成し遂げたその王だが、その歩みは決して平坦なものではなかった。

 どの王よりも多くの失敗と波乱が、この王を人間臭く、魅力的な王へと成長させた。

 だが彼を光の道へと導いたのが一人の少女だった事は……


 ……歴史がいつか証明するだろう。

 


                     


 


長い間お付き合い下さりありがとうございました。

たくさんのブックマークや評価、感想やレビューとても嬉しかったです。


私の頭の中では、まだこれは序章でしかないのですが、しばらくは章完結のままになっている他の作品を完結させることや、新作を優先させようと思います。


そして最初の章を書き始めた頃はWEB小説にも慣れてなく、読みにくかったり未熟な部分もずいぶんあるので、一度、大工事をできたらいいなと思っています。


工事の度合いによっては、一旦取り下げて書き直すか、しばらく非公開にして改稿することもあるかもしれません(できればそうしたい)


時期などはまだ未定ですが、アクセス数が落ち着いて私に時間の余裕ができた頃にしようと思います。


まずは今書こうと思ってるものを全部書ききった後で、のんびりゆったりこの続きを書けたらいいなと思っています。老後の楽しみぐらいの感覚です(笑)


その時お付き合い下さる方がどれほど残っているかは分かりませんが、次を書くのは当分先になりそうなので、アショーカとミトラが再会できて、なんとかもやもやが残らない程度のここで一旦完結とさせて頂きます。


ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] ものすごく、ものすごく面白かったです! インドを舞台の中心にしているお話は、なろうでは非常に珍しくて新鮮。 あまりにも熱い展開に引き込まれて、一気読みしましたが、もう続きが読みたくて読みたく…
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