【第0話】プロローグ:白い巨塔の階段と、ハーブティーの夢
人間、死ぬ間際に思い浮かべるものなんて、大半はくだらない後悔に決まっている。
「あ……国試、あと一週間だったのに……」
大学病院の自習室へと続く、薄暗い非常階段。
足を踏み外した瞬間、スローモーションのように視界が回転した。手からすっぽ抜けたエナジードリンクの缶が宙を舞い、蛍光灯の無機質な光を反射する。
ゴン、と後頭部に鈍い衝撃。
痛いというより、ひどく冷たかった。
私の名前は朝比奈紬、二十四歳。
国立大学医学部の六年生だった。
父は大学病院の第一外科教授。
母は元看護師で、私のスケジュールを分刻みで支配する教育ママ。
二つ上の兄は、すでに形成外科のホープとして持て囃されている。
そんな「絵に描いたような医療エリート一家」に生まれた私の人生は、生まれた瞬間からレールが敷かれていた。
オシャレ? メイク? 合コン? 恋愛?
そんなもの、青春の辞書には一文字も載っていなかった。
小学生の頃から家庭教師に囲まれ、中学受験、高校受験、そして医学部受験。
入学してからも地獄だった。電話帳のように分厚い解剖学テキストの丸暗記、ホルマリンの匂いが鼻に染み付いた解剖実習、罵声が飛び交う過酷なポリクリ(臨床実習)、そして医師国家試験に向けたエンドレスな模擬試験――。
『紬、朝比奈家の人間が一発で国試に受からないなど、恥晒しにもほどがあるぞ』
『紬ちゃん、お兄ちゃんは現役で上位合格だったのよ。あなたもできるわね?』
耳元でリフレインする両親の声。
直近三ヶ月の平均睡眠時間は三時間。栄養ドリンクとカフェイン錠剤で無理やり動かしていた心臓が、階段の踊り場でぴたりとリズムを狂わせる。
あぁ……もう、いいかな。
頑張ったよ、私。解剖学も、薬理学も、病態生理も、頭が割れるくらい詰め込んだ。
もしも。
もしも神様ってやつが本当にいて、来世ってものがあるのなら。
(……来世は絶対に、働かない)
(誰の期待も背負わず、オシャレな服を着て……日当たりのいい縁側でお昼寝して、ハーブティーを飲むんだ……)
それが、私の前世の遺言だった。
◇
「――ふわぁぁ……ん。よく寝たぁ……」
木漏れ日が、まぶたを優しく撫でる。
目を覚ました私が最初に視界に捉えたのは、埃っぽいコンクリートの天井ではなく、使い込まれた木の梁と、軒下に吊るされた干し草の束だった。
小鳥のさえずりと、葉擦れの音。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、甘く爽やかなカモミールに似た薬草の香り。
起き上がり、のびのびと両腕を伸ばす。
前世のような鉛のように重い倦怠感はない。鏡を見なくてもわかる。今の私は、色素の薄い亜麻色の髪をした、十六歳そこそこの華奢な少女――「エルシャ」だ。愛称はエル。
階段から転落死した私は、気付いたらこの異世界の「魔の森」の縁にあるボロ小屋に転生していた。
拾って育ててくれたのは、心優しい変わり者の薬草摘みのじいさんだった。
そのじいさんも、半年前――。
『エル、ワシの命はもうすぐおしまいじゃ。この小屋とお前の自由をお前に遺す。誰に縛られることもない、お前の好きなように生きるんじゃぞ』
そう言って、穏やかな笑顔で大往生した。
じいさんを庭の大きな樫の木の下に丁重に埋葬したあと、私は小屋の縁側でお茶をすすりながら、一人静かに歓喜の涙を流したのだ。
「自由だーーーーっ!!」
父のプレッシャーもない!
母の過干渉もない!
兄との比較もない!
そして何より、医師国家試験がない!!
辺境の森のボロ小屋。人里からは適度に離れていて、たまに麓の村まで薬草を売りに行けば、一人で細々と食べていくには十分すぎるお金になる。
まさに、前世で夢にまで見た「引きこもりスローライフ」の舞台が、最初から完璧に整っていた。
おまけに、転生特典なのか、私には一つだけ不思議なスキルが備わっていた。
「【診療室生成】――テスト」
私が意識を集中すると、右手のひらに淡い燐光が集まり、カサリと音を立てて手のひらに小さな四角い物体が現れた。
個別包装された滅菌ガーゼが一枚。
包装を破ると、中から現世と寸分違わぬ、無菌の白い綿ガーゼが顔を出す。
「うん、今日も魔力接続は良好」
このスキルは、じいさんの遺してくれたこの小屋と庭の敷地内に限り、前世で私が知識として構造や成分を理解している医療器具や薬品を、魔力で具現化・生成できるというものだ。
注射針、メス、縫合糸、生理食塩水、局所麻酔薬、消毒液……。
もちろん、敷地の外に持ち出せば数時間で魔力に還って消えてしまうし、CTスキャンや人工心肺装置みたいな巨大な電子精密機械は私のショボい魔力量じゃビクともしない。
けれど、ちょっとした怪我の手当てや、自分用の胃薬や湿布を作るくらいなら十分すぎるチート能力だった。
「ま、使う予定なんてないけどね!」
私はガーゼをぽいとテーブルに放り投げ、縁側の特等席に敷いた座布団へダイブした。
今日は雲ひとつない快晴。心地よい微風。
淹れたての野草茶が入ったマグカップを片手に、私は幸せを噛み締める。
「ふふふ……これだよこれ。誰にも邪魔されず、ポカポカ陽気の中で二度寝する……これこそが人類の至高の幸福……」
目を閉じ、意識が心地よい微睡みに溶けかけていった、その時だった。
ズドドドドドドッ!!
大気を揺るがすような地響きと、けたたましい怒号が、森の静寂を暴力的に引き裂いた。
「おい、こっちだ! 薬草摘みの小屋があるぞ!」
「頭を運べ! 急げ、息が止まりかけてるぞ!!」
……ん?
私は片目だけを開け、マグカップを持ったまま固まる。
ドタドタと鳴り響く軍靴の足音。
私のささやかな平穏を粉々に打ち砕く不穏な気配が、猛スピードで玄関へと直進してきていた。
「……嘘でしょ? いま、最高のお昼寝タイムに入ったところなんですけど……?」




