おばあちゃんのおろし蕎麦
1、おばあちゃんのおろしそば
杉下栄吉は昭和34(1959)年東京オリンピックの5年前に生まれた。兄弟は7つ違いの兄と3つ違いの姉の3人兄姉。兄と姉の間にもう一人姉がいたらしいが、幼いころに川に流されて死んでいる。この姉が死んでなかったら杉下栄吉は生まれていなかったかもしれない。当時は、両親と祖母と兄弟3人の合わせて6人家族。福井県の山間部で育ち、高度経済成長のさなかに小学生時代を過ごした。杉下の家は祖父の代から続く織物製造業であった。福井では織物製造業のことを機業または機屋と書いてハタヤと読む。特に福井市から吉田郡、勝山市にかけての九頭竜川沿いは機業が盛んで、道路わき両側に企業が並ぶ地域も珍しくない。中小の機業がほとんどで、織機はせいぜいで10台、家族経営でやっている零細企業が軒を連ねていた。
杉下栄吉が小学生の頃は福井県の繊維産業は調子のいい時代だった。父は40歳で銀行から融資を受けて、隣村に鉄骨の大きな工場を立てて勝負に出た。それ以後、父と母は家を出て朝5時から夜10時過ぎまで働き、工場内の部屋で寝泊まりをした。栄吉が6歳の時だった。それからは栄吉は兄、姉とともに平日は祖母に育てられた。週末の日曜日だけは父と母が帰ってきた。
祖母の八ツは明治生まれの豪傑な女性で昭和18年、八ツが40歳の時、夫が突然脳溢血で死んで、18歳を頭に7人の子供を女手一つで育てることになった。機業を経営しながら戦時中から戦後の食糧難の時代に食べ盛りの子供たちを育てることに必死だったらしい。中には16歳で口減らしのため予科練に入隊した二男坊もいた。
長男の父は昭和20年、終戦間際に徴兵されたが、戦地に向かうことなく終戦を迎えて難を逃れた。20歳で軍隊から帰り大学に戻ったが、卒業して家業の機業を継いだ父は20年後に高度経済成長の流れに乗って大きな勝負に出ることになるわけである。
栄吉が祖母と暮らしていた家は、玄関から入ると6部屋。玄関がある部屋は板の間で、部屋の中央には板張りを外すと大きな穴が掘ってあって、それは食料を蓄える穴だった。夏にはジャガイモを入れ、秋にはサトイモを収穫して入れたことを覚えている。板の間に上がる手前の土間はコンクリートが施されていて、12月に餅つきをするときに筵を引いて臼を置き、餅つきをした。栄吉は小学校5年生くらいから杵をもって餅つきをしていた。板の間でつきたての餅を家族みんなで丸めてもろびたにきれいに並べた。祖母はつきたての熱い餅を慣れた手つきで正確に同じ大きさに切り分けるので栄吉は祖母のことを餅ちぎりの天才だと思っていた。
1年に1回、餅つきの作業場となる以外はほとんど素通りするだけの玄関ホールの右が台所兼食堂である。板の間に簡単な敷物をしいて、丸いちゃぶ台を置いていた。当時の流し台はコンクリートにタイル張りで長方形のシンクのような形で水を張ることができた。まな板を置く作業スペースはなかったので桶のようなものを逆さにしてその上にまな板を置いていた。水道の蛇口が流し台に向けて取り付けられていた。右側には昭和30年代まで使っていたかまどが使われなくなってもそのまま鎮座していた。左側にはエネルギー革命によって進出した2口のガスコンロがあった。システムキッチンが購入されるようになる前の過渡的な状態として存在した台所の形態だった。
玄関ホールにしても台所にしても昭和20年代はおそらく土間で、エネルギー革命以後に床張りしたものだと思われる。この2部屋の奥には田の字型に4部屋、和室が繋がっていた。昔の田舎の家は冠婚葬祭を自分の家でできるように、障子を外せば大きな広間ができる和室が4つつながっているのがスタンダードだった。その4つの部屋のうち、手前の左側はテレビを見てくつろぐ部屋、その奥はみんなが寝る部屋、右側は仏壇が置いてある仏間、さらにその奥はお客さん用の部屋として利用していた。2階の部屋は中学生の兄の部屋だった。
祖母が食事の世話をしていたので食卓に並ぶ料理は戦前と何ら変わらない、古めかしいものだった。栄吉はいつも食事の不平不満を言っていたように思う。夏場の食事はほとんど毎日ジャガイモとなすびの煮物。たまに冷やっこや焼きナスが出るとごちそうだと思った。冬は大根の煮物、サトイモの煮物、とにかく畑で作った野菜の煮物ばかり食べていた。時代の変化の中で、祖母が得意料理にしたのがもやしとたまごとかまぼこの炒め物。そして魚肉ソーセージとジャガイモ、たまねぎで作ったカレーライス。
しかし、週に1回、日曜日の夕飯だけ母が台所に立った。その日は少しだけ時代が戦後になった。母は茶わん蒸しが得意だったのか姉と一緒によく作った。そのほかにも母はどこで勉強してきたのか八宝菜とかひとくちカツとかを作った。兄弟で争って食べた。しかし、日曜日も夕食がすんで大河ドラマが終わると父と母はまた工場に帰っていった。だから栄吉はあまり日曜日は好きではなかった。
年末から正月とお盆は工場が休みだったので家族全員がそろって家ですごした。年末の31日の夕方まで仕事して、買い物をしてから父と母は帰ってきた。夕食はいつもより豪華な煮物とお刺身、そして年越しのおろし蕎麦が出た。蕎麦はゆでてある袋麺を近くのお店で買ってきていた。だしつゆは醤油とだしの素で作った濃い口。麺は大きめの鍋で湯を沸かし、竹で作られた麺ゆでざるで茹でて、蕎麦専用の平皿、通称蕎麦ざらに入れ、新鮮な大根おろしをカレースプーン1杯山もりに入れて、鰹節とねぎも散らしてから熱いだしつゆをかけて食べた。七味唐辛子もかけてずるずる音を立てて食べた。父は
「うまいな、やっぱり蕎麦はごっつぉやな。」
と言って蕎麦と共に熱燗を飲んでいる。
栄吉がラーメンを食べるように蕎麦ざらをちゃぶ台に置いたまま食べていると祖母が
「栄吉、蕎麦は皿を口のところへもっていってだしごとずるずる音を立てて食べるんや。そのほうがうまいんや。」
と教えてくれた。当時の家庭でのおろし蕎麦は熱い蕎麦が定番だった。蕎麦屋では昔から冷たいおろしそばが定番だったかもしれないが、家庭では生めんを茹でて洗って冷たくして食べるという手間をかけていなかった。しかし、祖母の蕎麦の食べ方のアドバイスは一生忘れない教えとなった。この蕎麦の食べ方が変わるのは大学を卒業して他地域の文化に触れるようになってからのことだった。
店の調理場で昔話を語り始めた店主だったが、客は
「小さいころからお父さんやお母さんと離れて暮らしていたなんて、かわいそうですね。小学校の低学年のころなんてまだ、お母さんにくっついていて離れないような年頃なのにね。」
と同情してくれた。主人は
「それが、当たり前ではなかったんだという事を知ったのは大学生になってからかもしれません。つらかったのは集金日ですね。集団登校で学校へ行く途中、列から離れて、工場の中に入っていって、母を探し集金袋を渡すと、事務所まで行ってお金を入れてくれるんです。その頃には登校班のみんなははるか先まで行ってしまっていて、追いつくのに大変でした。それに工場に寄るのを忘れてしまうと先生のところで集金忘れましたと言うのがつらかったです。」
と言うと、お客さんは
「中学や高校の時におばあさんと兄姉3人で暮らすっていうのは誘惑も多かったんじゃありませんか。」
そう言われて主人は
「中高生のころは親の目がなかったので好き勝手をやっていたと思います。夜中に家を抜け出して自転車で遠くまで行ったこともありました。でも、責任は自分のところに帰ってくるって思ってましたね。教員になってから家庭環境の難しい生徒なんかを見ていると『自分と似てるな』と思う事もありました。それに親の愛情が不足している生徒なんかの事例でも『おれだってそうだったんだから、甘えるな』とか思ってました。」
と答えると、ご婦人のお客さんは
「子供のころの環境って大事ね。でも自主自立が早かったとも言えるのね。」
と言ってくれた。主人の話は大人になってからの話に続いていった。




