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夕陽亭そば勝負  作者: 杉下栄吉
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越前蕎麦の在来種にこだわった蕎麦店開業までの物語

まえがき 、土石流と夕陽亭の日常

 

 勝山市荒土町、名前の通り荒れた土地で、昔から皿川が激しい流れで上流の山岳地帯の土砂を運び、石や砂が混じった荒れた土地を形成していた。

その日の天気予報は大雨だった。梅雨前線が日本海側に北上し、山陰から北陸にかけて線状降水帯が発生し、大雨による災害を注意する予報がテレビでひっきりなしに出ていた。皿川は激しい流れで、今にも決壊しそうになっていた。しかし、そのころ、上流の山ではもっと恐ろしいことが起きていた。3日以上続く大雨で地盤が緩み、大きながけ崩れが起きたのだ。流れ落ちた土砂は大量の雨水を含み激しい流れとなって一気に荒土町に押し寄せた。川の周辺はほとんどが田んぼと畑だが、夏真っ盛りの成長著しい稲や蕎麦、麦、サトイモなど多くの作物を飲み込んで一瞬のうちに土砂で覆いつくしてしまった。幸いなことにこの川の両岸には民家が少なかったので、人的被害はなかったようである。

豊田憲明は降りしきる雨の中、畑や田んぼを見回っていた。皿川にほど近い畑には蕎麦を栽培していた。その蕎麦畑が見渡せる高台に立っていた憲明の目の前で、皿川が大氾濫を起こした。上流から一気に土石流が押し寄せ、川も畑も田んぼもすべてを飲み込んだ。一瞬の出来事に声も出なかったが、一瞬で流れはおさまり、残されたのは川と道と畑の区別もできなくなった土砂の堆積物だけだった。「地獄だ。悪魔がやってきてすべてを土砂で覆っていった。」何も考えられなかった。

 あれから3年、いろいろあったが夕陽亭は今日も11時開店。60代の夫婦が切りもりするおろしそば専門店である。店主である杉下栄吉と妻のやまねが38年勤めた公立小中学校を定年退職したのを機に開店した店である。自宅をほとんどそのままに、改造もせずにオープンした。夫婦で相談して1日限定30杯、準備した蕎麦がなくなったら蕎麦の営業は終了。蕎麦が終了したら喫茶のみの営業となる。

近年、福井のおろし蕎麦は全国そば人気ランキングでもトップになるなど、県内外の蕎麦通に人気がある。冷たくして食べることや大根おろしと合わせること、そして何より福井県で生産される蕎麦粉がオリジナル品種で蕎麦の風味が強いことが人気の秘訣である。そのため新規の蕎麦屋の開店が増えている。

夕陽亭もその中の一つだが、夕陽亭と言う店名は店の2階の客室から夕方見える景色が素晴らしいからである。店の南側には九頭竜川の堤防が隣接していて、2階からは真下に川が見える。さらに川は東から西に流れていて、下流に向かって太陽が沈んでいくサンセットが川面に反射して見える美しい場所なので、夕日が沈んだら閉店というシステムで営業している。

最近の60代はみんな若いので、この夫婦を老夫婦と呼ぶのはやや語弊がある。奥さんは小学校の低学年の担任を退職の年までしていた。優しさの中に厳しさを備えて、子供たちから信頼される先生だった。ご主人は中学校の校長で退職したが、元気いっぱいでエネルギーが溢れているタイプである。まだ100m14秒台で走れそうな細身の体形をしている。

店の表にかけられた看板には「永平寺の在来品種の蕎麦粉にこだわったおろしそば専門店」と書いてある。九頭竜川に面した風光明媚な店の立地で、夫婦は言葉少なめだが、仲良く店の経営を行っている。お客は多すぎず少なすぎず、人と触れ合うため、社会との接点を保つために開店して、3年目を迎えている。近所の人たちの憩いの場であり、親戚筋の集合場所であり、そば通があこがれる場所である。

 今日も夕方、夕陽が沈みかけ、閉店時間が近づいてきた。蕎麦は3時に完売して、喫茶のみの営業中である。お客は1組、年配の女性2人のグループが2階の部屋からの夕陽の風景を楽しみながら、まったりとした時間を過ごしていた。年齢的には60代後半、すでに仕事はリタイアして、年金を受給しながら裕福に暮らしているマダムといったところである。

完全に太陽が沈みきる前に、そのお客さんたちは腰を上げ、1階へ降りてきた。お会計をするために台所の脇に設置された会計所から暖簾をかきわけて台所に声をかけてくれた。

「お会計ですね。コーヒー2つで800円になります。」と言って主人がレジに近づくと、背の高いほうのご婦人が主人に向かって

「素敵な夕陽、ありがとうございました。コーヒーもおいしかったわ。ご主人、小さいころから、こんな素敵な夕陽を見てお育ちになったの?」

と唐突に聞いてきた。少し驚いた主人は

「ここで生まれておりますので、ガキの頃からこの夕陽を見て育ちました。毎日見てきましたのでそれほどの感動はありませんが、天気のいい日はそれなりにきれいな風景です。しかし嵐の日には川は表情を変えます。特に川が濁流になったときは、見ているだけで怖いですよ。だから、この風景にはいい思い出もたくさんあるけど、つらい思い出もたくさんあります。」

と答えた。この地に住み続けた63年のいろいろな思い出が脳裏によみがえってきていた。ご婦人たちはさらに

「今日はお蕎麦を食べられなかったけど、お蕎麦にもいろいろな思い出があるんですか。」

と聞いてきた。教員あがりの主人はつい説明的に話してしまう癖がある。時々、客を相手に話し込んでしまう事があった。今日もそんな気配がしはじめたことを奥さんも感じ始めていた。

「思い起こせばたくさんの思い出があります。どうぞお時間に余裕があれば、台所のテーブルですけどお座りになりますか。」

と言って普段はお客さんには開放していない台所兼調理場のテーブルに手招きした。

「僕は3年前まで小中学校の教員をしていたんですが、退職して何か始めたくなりまして、妻の反対を押し切って蕎麦屋を始めたんです。でも、おっしゃる通り子供の時から蕎麦が大好きで、蕎麦の思い出がたくさんあるんです。」

と言って子供のころからの蕎麦の思い出を語り始めた。ご婦人たちは4人掛けのテーブルに並んで腰掛け、反対側に座った主人の話に耳を傾けた。店のおかみは流し台で洗い物をしながらまた始まったかという感じで話を聞いている様子だった。


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