回復
(暑くもなく寒くもない。素晴らしく快適だ。地下牢ではない。横になって眠っていたようだが、ここはいったい……?)
スランの脳は久しぶりにまともな思考を始めた。すると、すぐに拷問されていたときの記憶が呼び起こされ恐怖でパニックに陥り、肩で息をした。すると視界の左端からサーシャの顔が飛び込んできた。
「スラン! 意識が戻ったのですね……良かった……。あっ、喉が渇いていますよね?」サーシャは、スランの口元に水差しを近づけた。「水です。ゆっくり飲んでください」
サーシャは、水差しからスランの口へと慎重に水を流し込んだ。その水はスランにはとてもうまく感じられた。あっという間に水差しの水は無くなってしまった。
「水を持ってきますね、待っていてください」空になった水差しを持って、サーシャは部屋を出て行った。
水を飲んで喉の渇きを潤したスランは、何が何だか分からず途方に暮れていた。すると、ガドが部屋に入ってきた。
「これはいったい?」スランはベッドから上体を起すと、ガドに問いかけた。
「スラン様、サーシャ様が単騎でナメ砦からスラン様を救い出し、今まで看病してくださったのですよ」
「本当か、サーシャ様が? 本当に単騎で私を——」
スランが言い終えないうちに、サーシャが水差しを持って部屋に戻ってきた。
「敵軍のほとんどはアブラゲー公国に向かっていて、ナメ砦には名ばかりの守備隊しかいませんでしたから……」サーシャは顔を曇らせ、後悔の念で一杯になったような顔になりながら続けた。「それよりも、私はあなたに謝らなければなりません。私が過去のトラウマを思い出したために、あなたをこんな目に合わせてしまって……」そこまで言うとサーシャは泣き始めた。
「泣かないでください。あなたは私を救い出してくださった。それに体も治ったようですし……」体を起こしてベッドの縁に座り、拷問によって、へし折られたはずの指が正常に動いているのを確認しながら、スランは答えた。拷問されていたのが嘘のように体は回復していた。しかし、記憶が戻り始めると、恐怖と感じるはずのない激痛が頭に走り、体が震え、涙が勝手に溢れ出た。顔を手で覆い呻き始めると、何か温かいものに包まれていくのをスランは感じた。
「これからは、私があなたを守ります、スラン。以前のような失態は二度としないと誓います」サーシャはスランを抱きしめ、背中を摩りながら静かに言った。スランはサーシャの肩に顔をうずめて声を出して泣いた。
しばらくして、女性に抱きついて長時間メソメソ泣いている自分が急に恥ずかしくなったスランは、サーシャから離れた。
「大丈夫ですか?」サーシャが心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫です。抱きついてしまって申し訳ありません……」スランは、あまりにも恥ずかしくて、サーシャの顔を見ることができず、下を向いてボソボソと答えた。
サーシャから離れて、冷静さを取り戻したスランは、彼女が苦しんでいた時に自分も同じようにするべきだったという後悔の念と、エリクサーを飲んだ魔導士の回復力に驚異の念を覚えた。今まで大けがをしなかったため、エリクサーの回復力を目の当たりにするのは初めてだったからだ。
不老不死になるエリクサーを飲んだ魔導士は、不老不死の他に異常な回復力を得ることができた。しかし、その代償として子孫を残すことができなくなるため、兄弟の少ない貴族出身の魔導士は一族の存続のため、家督を継いだ兄弟に後継ぎができるまでエリクサーを飲むことができない決まりだった。
(まぁ、私には継ぐべき名前も領地も無いし……)とスランは自嘲気味に思った。(そもそもそんな決まりがあることも師匠は教えてくれなかった……)
ここまで思ったスランは、今寝ている部屋が幼少期に魔法を学んだ部屋であることに今更ながら気づいた。(そうだ、ポータルを繋いだのは霧の森だ……)
「ガド、お師匠様たちは?」スランは使い魔に尋ねた。
「それが、誰もおりませんでした。長い間、この丘に作られた横穴式住居には誰も住んでいなかったようです。家具だけでなく、床にも埃が分厚く積もっていましたから。ただ、丘の頂に設けられた採光設備は無事でしたので、丘の内部に設けられた室内庭園で作物を作ることはできますし、地下倉庫にも物資の蓄えがありました」ガドが答えた。
(安全だと思って、霧の森に逃がしたのに……師匠がいないとなると……)ここも安全ではないかもしれないと思いながら、スランは、ガドが作物を作ったという言葉に違和感を覚えた。そういえば、あれだけの傷を負ったにもかかわらず、ここまで回復した……。
「今は何月だ、ガド?」
「霧月第一周の安息日です。」
「秋だと!? あの戦争は春に起きたのだぞ! そうだ、戦況はどうなった!?」
「作物を売りに行った北方遊牧民族との国境の街で聞いた話では、ト・ウフー帝国は敗北し、ソイミル河以東の土地を東の連合国家とアブラゲー公国に奪われたそうです。ただし、この霧の森から北側はト・ウフー帝国に残ったようですが……」
霧の森は、ト・ウフー帝国の北東部に存在する広大な森で、森に足を踏み入れたら二度と戻れないと噂されている森だった。しかも、木を切ると呪われるという噂があり、近づく人間もほとんどいない。スランが、生まれ育った村をアブラゲー公国に焼かれた際に逃げ込んだのがこの森だった。本当ならば、森で餓死するはずだったが、顔を全く見せない魔導士と美しく優しい女性に保護され、生き延びることができた。
(そういえば、髪の色は違うが、あの女性はサーシャ様によく似ている……)ガドの報告を吟味しているはずが、関係ないことに思考が向いてしまった。スランは、頭から余計な思考を放り出して現状を把握しようと焦った。
「そうか」思考をガドの報告に戻し、現状を理解したスランは頷いた。(半年も寝込んでいたのか……。まずいな、報告免除期間が切れてしまう……)
ト・ウフー帝国の魔導士は、役人兼コンリュウ教の司祭でもあり、国家に絶対の忠誠を誓わなくてはならない。そのため、魔導士が裏切ったり、逃げ出したりしないように魂の一部が人質として上級魔導士たちによって管理されている。魔導士たちは、一週間に一度、庶民の休日である安息日に仕事の報告と反逆を企んでいないことを証明するために、彼らを監督している上級魔導士に会わなければならなかった。例外として、長期任務や遠方へと派遣される場合には報告義務が免除されたが、その長期任務の報告免除期間は最長でも一年で、スランが左遷されて戦場に飛ばされてから、既に一年近く経とうとしていた。
「今日中に、帝都ニガリに戻り、上級魔導士ハツカダン様に報告しなければ……」
「スラン!」サーシャが悲鳴を上げた。「その体では、まだ無理ですよ! 何か食べないと……。今日まで、ガドさんが採ってきたハチミツと水しか飲んでいないのに……」
「サーシャ様、今行かなければ、私は廃人にされてしまいます」
「……」何も返す言葉が無いサーシャは俯くと、黙って部屋を出て行った。
「ガド、お師匠様のローブを取ってくれ。何着もローブを持っていたから一着ぐらい借りても大丈夫さ」スランは、困惑しているガドに命じると、出仕するために身支度を始めた。
ローブを着終えたスランが玄関に辿り着くと同時に、背後からサーシャが申し訳なさそうに話しかけてきた。
「スラン、私は帝都にはご一緒に参れません。奴隷以下の位に落とされてしまったので……。上級魔導士の許可なく、奴隷が帝都に入ることは許されていませんから……」
「大丈夫ですよ、サーシャ様」スランは後ろを振り返らずに、師匠のブーツを勝手に履きながら答えた。「もしよろしかったら、私が留守の間、ここに居ていただいて構いません。もし師匠たちが帰ってきても、テーブルに置いた私の手紙を渡せば、ここに居られるはずです。そもそも、あなたは私の使い魔でも、所有物でもありません。あなたは自由なのですよ。私になど伺いを立てる必要などないのです。ですから好きな時に好きな場所へ行っていいのですよ」
「ありがとう……。あ、スラン、まだ行かないで。これを持って行ってください」
そのまま玄関を出ようとしていたスランは、サーシャに呼び止められ、大きな背嚢二つと水筒六本を手渡された。
「この中に、乾燥豆とそば粉で出来た兵糧丸、それと着替えに松明などが入っています。大した物は用意できませんでしたが、体に気を付けてくださいね。あと、そ、その、い、いってらっしゃい……」
色々と用意してくれたサーシャから、出かける前の挨拶を言われたスランは、予想もしていなかった事態に驚愕して、しばらく動けなかったが、慌てて返答した。
「あ、ありがとうございます。い、行ってきます……」
これから帝都に赴き、恐ろしい上級魔導士に様々な失態を報告しなければならないはずだが、丘をくり抜いて作られた横穴式住居から出て、帝都郊外に繋ぐポータルを目の前の空間に展開していたスランの心は何故か満ち足りていた。




