対策特別室の男
「ヒビトさん、起きてください。」
肩あたり、一点に集中した鋭い痛みを感じる。
「んん?」
ぼやけた視界に女が立っている。後ろで一つにまとめた黒髪、丸い眼鏡、そのミサキの手には、俺を刺したであろう、蛍光ペン。
「もっと優しく起こしてくれよ。」
「何言ってんですか。甘えないでください。
そもそも寝ないでくださいよ。」
軽快な言葉の反面、その顔は呆れている。
◆
ここは、国内で起こる人智を超えた様々な出来事に対応する「特殊事件対策庁」、の、末端の、さらに末端にかろうじて残っている「スプーン対策特別室」通称・スプ室。文字通り、主に国内における「スプーン」現象の調査、対策の提案と実施が主な役割だ。
しかし、国内の「スプーン」は、約十年前を最後に、そこから全く起こっていない。その状況に合わせ、以前には充実していたスプ室の予算、人員、待遇、といった諸々は、年月の経過とともに、目に見えて削られていった。
立派な現庁舎、その脇の庭木の奥に、外観からその歴史を感じさせる、言い換えればオンボロで、なぜ取り壊さないのかが七不思議のひとつとされる、旧庁舎がある。今では、廃棄予定の使わなくなった備品、古い書類、使用頻度が年数回の用具等が乱雑に積まれる倉庫と化している。現在のスプ室は、その地下のさらに奥の一室を拠点として与えられていた。つまり、窓のない窓際の、鼻つまみ部署だ。
◆
ヒビトは、寝起きも相変わらず息も絶え絶えな空調の低く響く音を耳にして溜め息をついた。この部屋は年中、嫌な湿度で満ちている気がする。
「それと、私のお土産、いい加減に食べてくださいよ。」
ミサキは、蓋をとった固めの紙箱を突き出している。中には、紙で個別包装された丸い物が、所々抜けて並んでいる。
「お饅頭です。皮がお餅みたいで、おいしいですよ。」
(どうしてこの女は、俺にお餅みたいな饅頭を、そんなに食べさせたいのか。)
「いや、遠慮しとく。」
ミサキは、その返答に驚いたリアクションをとり、
「そういうとこですよ。」
と、恨めしそうな顔で言う。
饅頭の押し問答を続けていると、奥の扉、その内側から内線の呼び出し音が微かに聞こえた。音が途絶えると代って、室長の「いやー」や「はい、わっかりました」といった大袈裟な声が響く。
奥の金属製の扉が、鈍い音を立てて開くと、細身で無精ひげを生やした、それなりの年齢なのだろうが妙に飄々とした雰囲気の室長が、頭を掻きながら出てきた。
「参ったね、部長に呼ばれちゃったよ。」
「あっ、室長。室長もどうですか? お饅頭。」
ミサキが身体の向きを変え、勧める。
「えっ、なに。お饅頭? もう貰ったよ。」
「もうひとつ、どうですか?」
勧める圧が強い。しかし、室長はそんなこと一切お構いなしに、
「いや、いらない。それ、そんなに美味しくなかったよ。」
とサラッと言った。
打撃を受けたようによろけたミサキは、
「ほんと、デリカシーがない。」
とブツブツ言っている。
「ヒビトくんも一緒にきて。あと、そのまま昼食べに行こう。ミサキちゃんも、どう?」
俺は、「ハイ」と立ち上がる。
ミサキは、まだ根に持っているのか、「私、お弁当なんで。」と口を尖らすように言った。
ヒビトが「先に行ってて」という室長の指示に従い、部屋のドアを開け外に出る際、大柄な男とぶつかった。
「おおっと。ごめん。」
大柄な男である、モロさんは姿勢を直しながら謝る。
「こちらこそ、すみません。でも、モロさんのワガママボディーのおかげで助かりました。」
モロさんの腹に突き飛ばされる姿勢になった俺は、ニヤリとした表情で応戦する。
「もう。今度から有料だよ。」
と気にせず笑うモロさん。
俺は冗談を言いつつも、そんなモロさんを先輩として慕っていた。
「お饅頭? いいの? 食べる、食べるー。」
という声を背に、改装されたばかりの現庁舎へ向かった。
◆
室長について行ったものの、結局、部長室には入れず、扉の前で待つことになった。
比較的短い話し合いが終わり、室長と俺はそのまま、いつもの定食屋に来ていた。
この定食屋は、狭い生活道路に面しており、その場所の分かりにくさと、入るのに勇気のいる店構えのおかげで、庁舎で通う人もほとんどおらず、昼時でも店内はいつも空いている。
日替わりの薄いカツを齧る俺に、室長は、おろし蕎麦をすすりながら、何の気なしに、
「どう最近。仕事は順調?」
と質問した。
「そうですね。いろんな部署の手伝いが出来て、それなりに充実してます。」
その自嘲気味で皮肉混じりの返答を気に掛けず、
「それは良かった。」
と室長はテーブルに落としたネギを指で拾い上げた。
◆
約十年前「スプーン」の光景を目の当たりにした俺の怒りは、何事もなく過ぎる年月によって、はっきりとその勢いを失いつつあった。特に近年は、目を見張る失いっぷりだ。
その当時、高校生だった俺は、将来に向けた打倒「スプーン」のため、理系の学部に入学し、「スプーン」をはじめとする超常現象を専攻した。
その被害者をゼロにしたい。その一心で研究に没頭した。
就職活動の際は、「スプーン」対策に専念できるという理由で、民間ではなく、公務員として特殊対策庁の試験合格を目指した。
特殊対策庁での配属先は、第一志望が通らず「スプーン」の部署ではなかったが、それでも諦めなかった。
その後、紆余曲折を経て、予想外の形で今のスプ室への転属となったわけだ。だが、国内だけでなく、世界中で大規模な「スプーン」の発生は、ここ約十年確認されておらず、その重要性は、増加の一途をたどる他の超常現象と比べ低くなり、結果として年々、注目されること自体少なくなっていった。
◆
「じゃあ、ヒビト君の仕事にもっと彩りを添えなきゃね。」
と室長は俺に、「特殊事象部」の手伝いをするように指示を出した。
例の建物に穴が開けられるという事件の。