五
那津は一人、泣いていた。
人目を気にせず村の真ん中を走り抜けた先、五年前の記憶を頼りに那津の家の裏に回る。そこにある、大きな柿の木の根元で、那津は箒を手に俯いていた。
美和が見ている先で、透明な雫が一つ、地面へと吸い込まれていく。乾いた木の葉が、美和の来訪を知らせるかのようにかさりと音を立た。
髪を乱した美和の姿に気付くと、那津は慌てたように着物の袖で涙をぬぐった。
「ど、どうしたの?」
赤い目で、問う。
美和は何を言ってよいのか、わからなかった。わからなかったから、駆け寄り、その肩を抱いた。それだけで、那津は美和が事情を知っているとわかったようだった。
「……秘密にして行こうと思ってたのに。やあね、誰よ、美和に言ったの」
明るく、でもわずかに震える声を、美和は聞き逃さなかった。
「どうして、秘密にしようだなんて」
「だって美和は気にするじゃない。私が、太郎さんと一緒になれないって。美和のせいじゃないのに」
「那津……」
戸惑い、体を離すと、那津は小さく笑った。
「大丈夫よ。私なんか、領主様に選ばれないわ。もっと美人がたくさんいるわよ。それに私、手は荒れてるし、作法も知識もないし、文字の読み書きも、できないもの」
北の方様としては失格よ、と那津が呟く。そしてすぐに気分を変えるように、溌剌と続ける。
「もし、万が一のことがあっても、領主様の妻になれるのよ。この村も覚えがよくなって、年貢の額を減らしてもらえるかもしれない。たくさんの使用人を顎で使えるかもしれない。悪いことばかりじゃないのよ。だから」
「那津」
話し続けようとする那津の言葉を、美和は遮った。
那津が美和を見つめる。
美和は、その美しい顔を覗き込む。
カラスの羽のような黒髪も、潤んだ瞳も、彼女の美しさに拍車をかけていた。
沈黙が落ちた。
やがて那津の瞳から、玉のような涙がするりと落ちた。口からこぼれる声は、かすれていて聞き取りづらい。
「その目、嫌よ。時々、とても怖いの」
那津の箒を握る手に力がこもる。美和は俯き、頷いた。那津の声がひび割れる。
「どうしてあなたじゃないの。あなたは村長の娘で、独り身でしょう……」
「うん」
「私には、太郎さんがいるのよ。それなのに、こんなのひどい……誰も、味方になってくれなかったの……太郎さんに別の娘をあてがえばいいって……」
「うん」
那津は箒を取り落すと、両手で顔を覆った。美和は跪き、そっとその体を抱きしめる。泣きじゃくるその細い体は、痛々しいほどに震えていた。
強い風が吹き、柿の木から枯れた葉が舞い落ちる。風は家の戸を鳴らし、集めた枯葉を散らして、駆け抜けていった。
「那津、私が代わるわ」
静かに、決意を込めて美和は言った。
那津は濡れた目を瞬かせる。親友の肩に両手を置き、美和は力強く頷く。
「私が那津の代わりに、宴に出る。領主様の屋敷には、大勢の女の人が来るのでしょう? 顔を覗き込まれなければ、目のことはわからないわ。何ごともなく帰ってこられるはず」
「み、美和……」
「大丈夫よ。領主様は頭のよいお方だと聞いているもの。万一ばれたとしても、許して下さるわ。それに、私の母をこの村に送ったのは、彼のお父さんですもの。それで話が盛り上がるかもしれないし」
涙目の那津に、美和は余裕の笑みを浮かべて見せた。
「出立は、いつ?」
「き、今日の夕方……」
「早いのね。じゃあ、その頃にこっそり来るわ。そして、入れ替われそうだったら、入れ替わる。市女笠みたいなものがあればいいのだけれど」
美和が考えながら呟いた時、
「こら、お前! ここで何をやっている!」
後ろから石が飛んできた。
美和は慌てて那津から離れる。振り返ると、数人の村人が鍬や鋤を手に、怖い顔をして立っていた。
美和は短く「じゃあ、後で」と囁くと、那津の傍を離れた。引き留めようとした那津の手は、走り寄ってきた老婆につかまれた。
村に来たときのいつもの光景だ。傷つくまいと、美和は唇を強く噛む。
その日の夕方、密かに美和と那津は入れ替わった。
二人とも、似たような背格好だ。おまけに、那津は美和の言うとおり、顔が隠れる市女笠を用意していた。美和は上等の着物を着て、新品の草履をはき、那津の家を出た。
領主の屋敷まで送り届けられる道々、俯く少女を美和と疑う者はいなかった。
竜神は一人、ため息をついた。
少年たちはおもてで、翔宇と地面に絵を描いて遊んでいる。子供たちに混ざるのは面倒だ。すぐにおもちゃにされてしまうから。
美和は今夜、何やら用があるとかで帰ってこないらしい。
不満だ。
美和が竜神の傍にいないことが、不満だ。
美和は優しい。流されているのかと思えばそうでもなく、自分がこうと決めたらどんなに苦労しても、意志を貫く芯の強さがある。そういうところが好ましいと思う。
だが。
どうも美和には、竜神の恋心が伝わっていない気がする。
美和の笑顔をもっと見たい。もっと話をしたい。そう思っても、美和はさっさと自分の仕事の方を向いてしまう。
恋とは難しいものだ。
現状は竜神がただ恋しいと思うだけ。その先はどうすればいいのかわからない。
米を煮炊きする土間から、夕日が沈むのをぼんやり眺めていた竜神は、再びため息をついた。
『浮かぬ顔をしているではないか』
不意に、土間の水がめから声がした。竜神はじろりとその方を睨む。
「貴様の言うように、下界は楽しいことばかりではないぞ。畑仕事やら水汲みやら」
水がめの水が、風もないのに波紋を描く。低くもなく、高くもない声の主はくぐもった笑い声を上げた。
『それはお前が、鄙びた田舎に行ったからだ。私が行ったのは京の都で、この国の帝が暮らしていたところだぞ。比べるまでもない』
「む。行く場所を間違えたということか」
『そういうことだな』
あっさりと言われ、竜神は憤慨した。しかしすぐに、優越感に満ちた笑みを浮かべる。
「だがな、我は恋をしたぞ。この小屋に住む娘だ。気が利くし、優しいし、文句なしのいい娘だ。どうだ、うらやましかろう」
『ほう』
胸を張る竜神に、水がめの相手が意外だと言うように呟いた。竜神はやれやれとため息をつく。
「まさか、人間がああやって恋に落ちるとは、予想外であった。手間がかかるし、大変だ。人間とは、まったくもって変わった生き物よ」
『大変……?』
水がめの相手は、不思議そうに竜神の言葉を繰り返す。竜神は深く頷いた。そして、自慢げに言葉を足す。
「美和、という娘なのだが、目の色が他と違うと言う理由で、村の者から疎外されているようだ。我の鱗と同じ色の目でな。下界で見た綺麗なものの一つだ」
水がめに大きな漣が立つ。同時に、低く、笑い声がした。
『まあ、人間と仲よくするのもほどほどにすることだ。人の命は短い。私たちと同じ時を生きぬ以上、辛い思いをすることになるのは、こちらの方だ』
竜神はむっと眉をひそめた。
「恋とはいいものだ、と言ったのは貴様ではないか。無責任だぞ」
『そうだったか』
鼻で笑われ、竜神の眉間の皺がますます深くなる。
だが、ここで理性の手綱を離してはならない。
美和は頼りにならないし、一人で思い悩むのにも飽きてきたところだ。子供たちは論外として、同族に意見を聞いてみたい。
「ところで、恋をしたらどうすればいいのだ」
『どうすれば? そうだな、相手に気持ちを伝えるのが一番ではないか』
「伝えた」
『反応は?』
「それは恋ではない、と言われた」
『……お前、何をしたんだ』
呆れたような声音に、竜神はため息をつく。戸口から見える夕日を見つめて、呟いた。
「涙を真珠に変えれば、本気の恋だと証明することになるだろうか。だが、本人は」
『なんだ、そんなに簡単なこともまだ、手つかずなのか』
声の主が竜神の言葉を遮り、水面が淡く光る。それに気づかず、竜神は嘆かわしげに首を振る。
「気持ちをいくら伝えても、美和は聞き流してしまう。いつも美和のことを考えてばかりで、いい加減、自分に嫌気がさしてきた。我は地上の生活を謳歌しに来たのに、なぜか悩んでばかりだ」
水がめの相手の答えは、一言だった。
『悩め』
むっとした竜神だったが、それより前に言葉が紡がれた。
『神を奉らぬ人間の愚かしさはしゃくにさわるが、お前の悩む姿が見られたので、よしとしよう』
「相変わらず、性格が悪いな」
『ありがとう。何はともあれ、幸せな結末が待っているよう、願っているよ』
「……貴様の結末は、どうだったのだ」
穏やかだが含みのある声に、竜神は水がめの中を覗き込んだ。
『さあ、どうだったかな……』
声は少しずつ遠くなり、揺れていた水面はやがてぴたりと止まった。
竜神は舌打ちをする。
「ろくな助言もせぬとは、それでも同胞か!」
水がめに向かって怒鳴ってみたものの、返事はない。逆に、子供たちに竜神の存在がばれ、さんざん遊び相手をさせられる羽目になった。
美和は領主の屋敷にいた。
屋敷につくと、案内係に伴われ、高床式の廊下を延々と歩いた。庭のあちこちに灯された篝火が、不気味にゆらゆらと燃えている。
板張りの広間に集められた娘は総勢二十名。漏れ聞こえる会話によると、同じ村から、数名出てきているところもあるらしい。美和は最後尾に座り、ひたすら俯いていた。
那津には心配をかけないように、大丈夫だと言い置いてきたが、いざ目的地に着くと、まったく大丈夫ではない気がしてきた。
普段、人のいる場所にはめったに足を踏み入れないので、現状、それだけで緊張する。夕方で室内が暗くなりつつあるおかげで、下女たちにはばれていなさそうだが、何がいつ、どう転ぶかはわからない。
目立ちませんように、とひたすら念仏のように唱えているさなか、ようやく領主の到着を告げる声があった。
女たちの声が、ぴたりと止む。
みな、いっせいに両手を床につき、頭を下げた。
足音を立てて室内に入ってきた男は、上座に座った。
「おもてを上げよ」
第一声は、厳しさを感じる強い声だった。
みなが顔を上げるのに、美和も慌ててそれに倣う。最後尾にいるので、目の色に気づく者はないだろう。
領主は、四十代と思われる、口ひげを生やした男だった。肩幅が広く、がっしりとした体つきをしている。ただ、渋みを感じさせるその顔は、酒が入っているのかたいそう赤い。
「これはまた、美しい花が集まったものだ」
あぐらをかき、扇子で自分の片手を打つ。淀んだ目で、品定めするように女たちを眺めまわす様子は、お世辞にも品があるとはいえない。
領主様は賢君であると聞かされてきた娘たちに、動揺が走った。
「花は枯れる。わしの亡き妻は、一等綺麗な花だった。わしはな、死んだ妻が女では一番だと思うておる。お前たちはそれ以下じゃ」
「惟久様」
傍に控えた従者が、咎めるように声を上げた。しかし、領主は振り向きもしない。
酒が運ばれてきた。従者は止めようとするけれど、領主はそれを強い力で払い、酒の入ったひょうたんを手にする。それを一口飲んで、ぐい、と手の甲で口をぬぐった。
「おい、誰ぞ、舞を舞える者はおらんのか。領主様が、目の前にいるのだぞ」
娘たちは顔を見合わせた。突然の要望に戸惑っているのだ。次の瞬間、
「わしを待たせる気か!」
ひょうたんが床に叩きつけられた。
娘たちの中から、慌てて五人が立ち上がる。他の娘たちは邪魔にならぬよう、急いで壁際に寄った。
ここにいる娘の誰もが、話と違う現実に困惑していた。美和も例外ではない。怖がらせるのは領主なりの人選の方法なのか、と思いたいが、酒に酔って、肘掛けにもたれる姿はただの酔っ払いにしか見えない。
娘のうちの一人が、歌い出した。琴の音も、笛の音もない。踊り役の娘たちは、ほっとしたように手を伸ばし、舞い始める。
しかし、それはすぐに中断された。まだ始まって間もないというのに、領主が大きく手を振り、「やめろやめろ!」と怒鳴ったからだ。
「わしの目は節穴ではないぞ。貴様ら、本気で舞っておらんな」
「そんな……っ」
舞い手の一人が声を上げた。
領主は顔をゆがめると、立ち上がって、声を上げた娘を突き飛ばした。衝撃で、娘は床に倒れ伏す。
「わしに逆らうやつは、相応の覚悟を持て。わしは受けて立つぞ。ほれ、何ぞ言うてみよ」
ろれつがまわっていない。冗談のような口ぶりだが、領主は本気だ。
みな、床に顔を伏せ、嵐が過ぎるのを待つことしかできない。
室内が、不自然なほど静まり返った。
「なんだ、誰もおらんのか。つまらん」
領主は舌打ちをして、酒が入ったひょうたんを拾い上げ、中の酒をあおった。
「惟久様、一度お休みになられて」
「うるさい!」
従者の言葉は、領主の一喝によって封じられた。
領主はもったいぶったように、恐怖に震える娘たちの間をゆっくりと歩く。誰もが声をかけられぬように、と必死で俯いた。今の領主には、何をされるかわからない。
娘の前に立ち止まっては、「違う」「これも違う」と首を振っていた領主が、とうとう美和の前に立った。
美和の心臓が、激しい音を立てて脈打つ。
「顔を見せよ」
酒で焼けた声に、額ずいていた美和は床に視線を向けたまま、顔を上げた。
「恐れ多くて、わしと目を合わせられんか」
領主が鼻で笑う。美和はそれでも、領主と目を合わせることはしなかった。ただただ、怖かったのだ。
「立て」
声は、怒気を含んでいる。
美和は俯きながら、その場に立ちあがった。
「わしを見ろ」
もう、誤魔化すことはできない。
美和はぎゅっと目を閉じた後、決意して目を開けた。
領主は大きく目を見開いた。




