四
「なあ、美和」
美和が竜神と翔宇と共に山に行った晩。
夕餉も終わり、後は堅い床に寝るだけ、と五人が横になってしばらく経ったとき、竜神が口を開いた。
「今日は、村の様子を見て来たぞ」
「だ、誰にも見つかりませんでしたか!」
美和はがばりと起き上がる。竜神は横になったまま、不思議そうに、
「何をそれほど驚くことがある。村の入口で眺めただけだ。村人はみな、近寄っては来なかったぞ」
その答えを受け、美和は自分の過剰な反応に苦笑する。
「いえ、何もなかったのなら、問題ないのです。ただその、竜神様が嫌な思いをされたのではないかと思って」
「我の心配をしてくれたのか。美和はやはり、優しいな」
「はいはい、ありがとうございます」
適当に流して、美和は再び横になった。
暗闇の中、月の光が壁の隙間から幾筋もの白い帯をなして入り込んでいる。隣に横たわる翔宇は、健やかな寝息を立てている。
竜神は続けた。
「村でな、『ただいま』『おかえり』と言い合うている夫婦がおった。我はあれがうらやましいと思うたのだ」
「うらやましい、ですか……?」
そうだ、と悩ましげに呟いた竜神に、美和は小さく笑った。
「家に帰った時は、雄大も砂仁も、翔宇でさえ、『ただいま』と言いますよ。私がいれば、『おかえり』と返します。竜神様も言えばいいんです。『ただいま』って」
とても簡単なことを、なぜそこまで悩まなければならないのだろうか。
「本当か。それなら、我はこの家に帰ってきたら、『ただいま』と言うが、よいのか」
「はいはい、どうぞ」
「さっきから、はいの数が多いぞ、美和」
あくびをかみ殺した美和に、竜神からの文句が飛ぶ。しばらくの沈黙。もう会話はないかな、と美和が目を閉じた時。
竜神が咳払いをした。
「我は、そなたに何ぞ贈り物をしたいと思う。何がいい?」
「……贈り物? いきなり、何です?」
「我がそなたを好きだという証だ。村の若い男が、女に何かを贈って喜ばれていた」
「……」
美和は眠気にぼんやりとする頭を抱えて、ため息をついた。思い込んだら一直線なところのある男だ。単純ではあるから、会話を上手く誘導できれば問題はないのだが、如何せん、今は眠い。正直、話しなら昼間にしてほしかった。
「じゃあ、火にくべる薪を。もうじき冬がきますからね、準備しておかなくちゃ」
「我の恋心を火にくべると言うのか。なんと残酷な所業よ」
「……それなら、新しい鍬を。石にぶつけて欠けさせてしまって」
「運ぶ途中で我が手を怪我したら、どうするつもりなのだ」
横になったまま、美和は奥歯を噛んだ。雄大と砂仁の肩が小刻みに震えているのが、月の光の帯のせいで見えてしまう。笑いをこらえているのだ。
「ああもう、じゃあ、何ならいいんですか。私なら、何でもいいですよ」
この間の「恋とは何か?」の問題といい、この手の質問に真面目に答えるとろくなことにならない。
美和は少々乱暴に話を終わらせようとした。
雄大たちの前でこういう話をするのが悪い。だいたい、何がいいかと聞いておいて、いざ答えたら断るなんて、聞く意味がないではないか。
すると、しばらくの沈黙ののち、
「……怒ったのか」
ぽつりと、沈んだ声がした。
「我はただ、美和を喜ばせたいだけなのだ」
その声があまりにも深刻で。
美和の不満はあっという間に吹き飛んだ。
彼に悪気があったことなど、今まで一度もなかったではないか。贈りたいと言うのなら、それが本心で、美和を困らせるつもりなど微塵もなかったのだろう。
眠気は一瞬で吹き飛んだ。美和はそっと身を起こす。
「……ありがとうございます。その言葉だけで、嬉しいです」
他に、どう言えばいいのか思いつかない。
反対側の端に横になっていた竜神も、起き上がり、美和を見る。
薄闇の中、視線が絡まる。
美和は不思議と、竜神との距離を近く感じた。
竜神は、寝ている子供たちに気を使ってか、小さな声で美和に訴えた。
「美和は優しい。村の者の様子を見て、本来我はこの地では受け入れられないのだと悟った。だが、美和は我を小屋に招いてくれ、何ごとにも付き合うてくれた」
「竜神様……」
村を見に行ったのは、確認の意味もあったのだろう。自分が周りからどう思われているのか、ここに来たときは気にもしなかった男の変化。少し、切ない。
「食う物も、寝るところも、与えてくれた。我はそれに感謝せねばならぬし、そこが美和の好ましいところだと思う」
夜でよかった、と美和は思う。今、絶対に自分の顔が赤い。男の人に、いや、誰にも、こんなにまっすぐに褒められたことはない。
「そ、それを言うなら、私だって。竜神様に水汲みをさせたり、草むしりをさせたり。本当の神様なら、天罰が下るくらいの無礼ですよ」
「美和に天罰は下らぬ。我がそんなことはさせぬから」
鼻息も荒く、竜神はそう断定した。
「人の皮をかぶった今の身では難しいが、本来の姿に戻れば神通力も使えるというもの。贈り物の話に戻るが、その両の手の爪を鉱石にかえてやろうか。それとも涙を真珠にかえてやろうか」
竜神の言うことが本当になるとは思えないが、想像することくらいはできる。想像すれば、楽しいことばかり浮かんで来て、思わず美和は笑ってしまった。
「爪が石になったら、農作業は楽そうですけど、見た目がよろしくないと思います。それに、真珠は私が持っていても飾るところがありませんし」
「細工をし、髪飾りにすればよい。そのつややかな黒髪によく映えると思うぞ」
言いながら竜神も楽しくなってきたのだろう。「うむ、いい考えだ」と悦に入っている。
満足げな竜神を見るのは嬉しい。人を喜ばせようと張り切っている姿だから、尚のこと。
微笑みを浮かべた美和はしかし、一つの可能性に気づき、慌てた。
竜神が高価な真珠など、手に入れられるわけがないではないか。もし竜神が人の家で盗みを働いてきた、などという結果になったらとんでもない。本人は盗むつもりはなかったなどとのたまうだろうが、常識知らずというものは、ある意味、無敵なのだ。
笑っている場合ではなかった、と美和は口を開く。
「私が髪を飾っても、見る人がいません」
「我が見る」
「竜神様は、贈り主でしょう。贈り主なら、似合ってなくても褒めるでしょう」
「我は、嘘はつかぬ。第一、美和に似合わぬ装飾品など、装飾品ではないわ」
「じゃあじゃあ……、な、泣かないから、真珠は出ません」
「泣かぬのか……」
美和の必死の抵抗に、困ったように竜神が唸った。そしてふと、呟く。
「確かに、美和は泣くより笑っていた方がいいな」
思いがけず、優しい声音だった。笑みを含んだ柔らかな口調は、本心からそう思っているのが伝わってくる。
美和の頬が再び熱くなった。しかし、次の言葉を聞いて、美和は息をのんだ。
「その目の色を、変えてやることもできるぞ。どうしても、嫌だというのならば」
とっさに、返す言葉を失った。しばしの沈黙の後、
「か、考えさせてください」
それだけを言うのが精いっぱいだった。竜神は「そうだな」と言うと、あっさりと横になってしまった。
美和もそれにならって、体を横たえる。竜神の隣に寝る砂仁が「竜神、頑張れ」と発破をかけるのにも反応できない。
やがてみんなの寝息が聞こえ始めても、美和は一人、なかなか寝付けなかった。
「姉ちゃん! 美和姉ちゃーん!」
川に下りて洗濯をしていた美和は、自分の名を呼ぶ声に立ち上がった。遠くから雄大と砂仁、そのさらに後方から翔宇が、こちらに駆けてくるのが見える。
美和は河原から土手へと上がり、少年たちを迎えた。野菜を売りに出かけたはずの子供たちは、空の天秤棒を振り回し、転がるような速さで美和のもとにたどり着く。
「松左衛門のじいちゃんが、お腹が痛いって。道で座り込んじゃったんだ。お坊さん呼んで祈祷してもらった方がいい? それとも、お腹に効く草がある?」
荒い息の下から、雄大が一気に言う。
美和は、すぐに小屋に引きかえした。先日、砂仁がお腹を壊した時に使った薬草がある。
小屋に駆け込み、籠の中から乾燥した葉を取り出す。量は少ないが、大丈夫だろう。それから竹筒に水を入れ、美和は雄大たちの後について走った。まだ足の速くない翔宇は途中でへばっていたけれど、病人が先だ。
美和の家と村の真ん中ほどに位置する道端に、老人がぼんやりと立っていた。
老人は美和たちの姿を認めると、その顔をほころばせる。
「じいちゃん、大丈夫かっ?」
勢い込んで尋ねる砂仁に、老人は禿げあがった頭をかいて何度も頷いた。
「悪かったな。腹の空きすぎじゃ。冗談のつもりで大げさに言ってみたんじゃが、そんなに慌てられるとは思わなんだ」
雄大と砂仁は顔を見合わせると、「な~んだ~」「ふざけんなよ~」と地面に座り込んだ。張りつめていた糸が、一気に緩んだのだろう。肩で息をしている美和も、力の抜けた笑みを浮かべるしかない。
老人は目を細めてそんな三人を見回すと、
「わしのために懸命になってくれるいい男の子たちじゃな。美和ちゃんが面倒見てるおかげかね」
少年たちの頭を枯れ枝のような手で撫でた。やんちゃな二人は、舌を出して大人しくしている。逃げる気力もないようだ。美和は「大丈夫でよかった」と深く息を吐いた。
「暮らしはどうかね。ちゃんとやれとるか」
笑みを浮かべて、老人が美和に問う。村で鍛冶屋をしている彼は、美和を気にかけてくれる、数少ない村人の一人だ。
「村長もな、ありゃ奥方が強えから。きっと本心は違うと思うんだわ。子がかわいくない親があろうか」
穏やかな老人の声を、強い口調で砂仁が遮った。
「俺は、そうは思わない。子供を必要と思わない親だっている。大人なんて信じられるか」
少年は険しい顔で、唇をかみしめている。
雄大がその肩を軽く叩いた。美和も地面に膝をつくと、そのぼさぼさ頭を優しくなでる。事情は知らなくても、寄り添うことはできる。一人ぼっちにしないことは、できるのだ。
「にいちゃ、ほんとう? しょううも、いらなかった?」
ふと、か細い声がした。
振り返ると、着物の裾を握りしめた翔宇が立っている。走ってきたせいで、呼吸が整っていない。紅い唇は半開きで、その大きな瞳は涙で潤んでいる。今にも泣き出しそうだ。
砂仁が慌てて立ち上がった。自分と五歳ほどしか違わない妹分を抱きしめる。
「翔宇は違うよ。きっと、何か理由があったんだ」
「りゆうって?」
「り、理由は理由だよ。お、俺が翔宇の父ちゃんだったら、絶対に翔宇をよそへはやらないから」
「いいじゃん、翔宇は美和姉ちゃんの子だよ。俺と、砂仁も。お揃いで、いいだろ」
雄大が立ち上がり、二人を抱きしめる。そして、視線で美和を呼ぶ。しっかり者の雄大らしい。笑顔の美和もその輪に加わった。一番外から三人の背に腕を回し、
「十七で三人の子持ちかあ。ま、楽しいからいいか」
「ほら、姉ちゃんがいいって言った! な、だから翔宇、泣くなよ」
ぎゅうぎゅう抱きしめられた翔宇が、泣くのをこらえる表情で頷いた。そして顔を上げ、小さな笑窪を見せてくれる。三人は顔を見合わせて、ほっと息を吐いた。
「ほっほっほ、仲良きことは美しきことかな」
老人が笑う。美和たちも笑った。照れくさくて、ほっとして。
日差しは暖かく、風は爽やかだ。遠くに見える村には、黄色く色づいた稲穂が揺れている。穏やかで、でも昨日とは少し違う風景。秋は終わり、すぐに冬がやってくるだろう。
子供たちはそのまま虫取りへと突入した。歓声を上げながら、蝶を捕まえようと遠ざかっていく。
「それはそうと、美和ちゃん、那津ちゃんにはもう挨拶はしたかね」
帰りかけていた老人が、思い出したように振り返った。美和は首を傾げる。
「何のことですか?」
「ありゃ、こりゃ言ってなかったのかね。各村々に領主様から書状が届いてね。宴会を開くから、若い娘を献上するように、とのことだったわ」
「献上? 領主様が?」
今まで、そんな話が出たことはない。
「領主様の北の方様は五年前に亡くなっている。お手付きになれば女主人になれるってんで、みんな張り切っているそうだ。うちの村からは、那津ちゃんが出されるそうだよ」
当然のように言う老人に、動揺を押し隠して美和は問う。
「なぜ、那津が選ばれたのですか」
「ウチの村で若くて見目のいい娘なんて、数えるほどしかいないだろう? 決める席で太郎が、那津ちゃんは自分の恋人だと宣言したらしいが……村長もな、自分の息子より領主様を優先させるべきじゃないかって声に、強く言えなかったようだよ」
ため息交じりの声には、気の毒がるような響きがある。
美和はその場にじっとしていられなかった。
「領主様は最近あまりいい噂を聞かないね……どこ行くんだ?」
「ありがとう!」
話し途中の老人にそれだけ叫んで、美和は村へと向かう道を駆け出した。
那津が太郎との仲を、頬を染めて話していたのはつい三日前のこと。稲刈りさえ済めば、二人は皆が祝福する夫婦となれたはずなのだ。こんな予想外のことで、二人が引き裂かれていいはずがない。
決定は、村の重鎮たちが下したのだろう。いち村人である老人が知っているということは、村中が知っているということ。その中で、那津と太郎は、何を思っているだろう。
自分に力がないことは、よくわかっている。
それでも、親友として、那津の様子を知りたかった。