死闘
いよいよハイイロオニグマとの決戦です。主人公は生き残ることができるのか。
そして、迫力ある戦いが描けているのか。
空が白んできた。
まだ星の残る空の下、周囲の音を全て掻き消す激しい風が、冷気の刃となって、私たちの耳や鼻の頭を切り裂いていく。村を覆い尽くすススキの若草は大きくうねり、大小様々な大きさの雲が、天災を予期して逃げ出す獣たちのように、足早に飛び去っていく。
世界の終焉。この世に存在する全ての物体が、迫り来る終焉から逃げ出そうと必死になって抗っているように感じられた。
むわっとする風が獣臭い。
奴等が……、ハイイロオニグマの群れが、すぐ側まで来たのだ。
女子供は、既に村の中心にある広場に集められ、一夜を明かしているはずだった。単独行動はとにかく村長から禁止されたからだ。その場所は、我々が準備した戦場から最も遠く、みなが固まっていられる場所だった。当然ラティやレスティもそこにいるはずだ。
相手は獣。知能は著しく高いが、殺戮に快楽を覚える悪魔。それゆえ、こちらの全く予期せぬ山の中から現れるのではないか、という懸念は確かにあった。だが、歴戦の猟師たちは、それを否定する。
動物には動物の道が存在する。奴等はそこからしかやってこない。
けもの道。
クマに限らず、山に住む動物は、ある決まった場所しか通らない。面白いことに、一本のけもの道は、一種類の動物しか通らないのだ。種族によっては一個体のみ、という場合もあるといわれる。
その理由には幾つか仮説がある。
山に住む動物にとっても、山は恐ろしい所である。クマなどの屈強な動物ですら、通行に際して安全の確保された個所、つまり決まった所しか通らない。素人目にはわかりにくいが、あまりに頻繁に彼らが同じ所を通るので、その場所には動物の道のようなものが確かに出来上がる。それがけもの道と呼ばれるようになったという説。
野生の動物の中には縄張りを持つものもいるが、縄張りを確保するためには巡回しなければならない。その巡回するコースがけもの道と呼ばれるようになった説。
中には、獣同士が使用時間を決めて使っている道もあるという。
これらの説には、信憑性の高いものから低いものまで、枚挙に暇がない。
そして、猟師ならば誰でも、さまざまな動物の通るけもの道を熟知しているものだ。でなければ、いくら腕利きの猟師とはいえ、そう簡単に獲物を取ることなどできない。
今回、猟師は、発見したクマのけもの道の中で、比較的新しいものを探し、さらにその中でも出現の可能性が高いけもの道に罠を張り、待ち伏せる事で、何とかクマを退けようというのが第一の作戦だった。
しかし、それは見事に失敗していた。ハイイロオニグマがここまできていることがその証だ。若干数は減らせたかもしれないが、完全に撃退できなければ意味がない。
大元の群の総数は二十頭近かった。
こちらの戦力は、私を含めて四十人。そして、女子供を除くと、戦力となる男は十人を少し超えるくらいだ。その人数で、すべてのクマを退けることは不可能だ。となれば、狙いを一頭に定めるしかない。
群れを作る動物、とりわけ狩りを目的として群れを作る動物は、通常必ず群れのボスが存在するものだが、ハイイロオニグマも例外なく、群の中には一頭のボスが存在する。そして、群の行動はそのボスによって決定されるのだ。
となれば、方法は一つ。ボスの戦意を削ぎ、群が胡散霧消することをねらう。我々が生き残るにはそれしか方法がない。
これが今回の戦闘での目標なのだが、私には、人には言えぬ心配が在った。
もし、奴がその群のボスならば……。
私の危惧がもし杞憂でないならば、この村は滅ぶしかない。
奴は、私に恨みを抱いている。奴がボスだとした場合、私が殺されるしか奴の戦意が削がれることはないに違いない。
奴ほどの巨大な体を持つハイイロオニグマはそうはいない。そして、奴より強い個体はそうはいないだろう。だからこそ、奴がボスでない可能性の方が遥かに低いと私は考えていた。というより思わざるを得なかった。
これからここを襲おうとする群の中に奴がいるのは間違いない。この目で確かめてきたから。
私は、今迄自分がしてきただろうと思われる善行を列挙することで、奴がその群のボスでないことを、神に祈ったのだった。
特徴的な唸り声と共に、大小様々なクマが、以前私が倒れていた門より少し東側の森の狭間から、ゆっくりその巨体をあらわした時、村人たちは、思わずため息を漏らした。
巨大なものの美。強いものへの憧れ。絶対的なものへの畏敬の念。
ともすれば自分たちが殺されかねないその状況で、村人は、もっとも甘美で危険な誘惑に酔ったのだ。
今となっては、酸味の中に物が焦げたような独特の臭みのあるハイイロオニグマの体臭すら彼らを酔わせていた。彼らは戦闘を仕掛けるでもなく、かといって脅えて逃げ出す訳でもなく、ただそこに呆然といた。
驚くべきことに、それはクマも同じだった。
しきりに鼻をひくひくさせている。そして、不思議そうに辺りを見回しては、いらいらを示す唸り声をあげたり、腹立たしく周囲の草に噛み付いたりしては、そのやり場のない怒りを示していた。
その反応は私にとって意外だった。ハイイロオニグマ出現後は、即座に血みどろの戦闘に突入すると思っていたからだ。
だが、一向にクマが動く気配はなかった。
第一列の攻撃陣は、槍や鎌、鍬を構えてクマたちと対峙していた。だが、少しでも動くものが在れば、とりあえず攻撃を仕掛けるはずの、獰猛なあのハイイロオニグマが、その第一陣にも攻撃を仕掛けようとはしなかった。あたかも、第一陣の人々が全く見えていないかのように。
私は第二列の攻撃陣にいた。私の特技は、かつて記したように、軍隊の特有拳法だが、それがクマに通じるはずもない。私の数少ない武芸のたしなみの中で、唯一クマに対抗しうるのは、弓術くらいだ。私は今回、その弓術を用いて戦闘に参加した。この戦闘で用いる矢は、もちろんただの矢ではない。村人は愚か、クマさえ恐れるモリオオドクガエルの毒を矢尻にたっぷりと塗ってある。
モリオオドクガエルは、ヒキガエルくらいの大きさの蛙だ。この近辺にも生息するこのカエルは、蛍光ピンク等の派手な警戒色を身に纏うことで相手を威嚇する通常のドクガエルとは異なり、皮膚の色が薄く黒がかった緑色をしていて、あまりドクガエルといった風情はない。だが、その姿にだまされてはいけない。そのカエルの首筋辺りにある分泌腺から分泌されるその毒が、一ミリグラム体内に入ろうものなら、人間は即死、クマですら苦しみのたうち、一時間かからずに死んでしまう。
モリオオドクガエルの毒は、皮膚に付着しても何の影響もない。しかし、傷口から中に入った場合、血流に乗って全身を駆け巡り、あっという間に、神経を犯してしまう。また、仮に、胃などの臓器からその毒を体内に取り込んでも、直接血管に毒が入るよりは症状が軽いものの、同じような障害を引き起こす。
人間ならば即死させることも可能な強力な毒だが、服用量を減らしさえすれば、麻酔としても使える類のものらしかった。だが、たとえ服用量が少なくとも、この物質を希釈せずに麻酔として使うことは、あまりに危険だといわれている。それは、この物質が幻覚作用を伴うからだ。
文献には、試しに使った者の記述がある。それによると、服用した瞬間は、見事に痛みが引くらしいが、その直後に見たものが、とてつもなく恐ろしいものに見えるという。
記録では、服用者の目に最初に映ったのは、彼の主治医の顔だったというのだが、その医者が自分を殺して食ってしまうのではないか、という妄想にとりつかれて仕方なかったのだという。背を向けたら一瞬で殺されるに違いない。目を離したら、医者が隠し持っている鉈が振り下ろされるに違いない……。後で考えるとばかげた妄想だが、その時は本当にそう思えて仕方がなかったという。
この時は服用量が少量であった為、それ以上の重度の障害は出なかったとされているが、どうやら、モリオオドクガエルの毒は、相手に対して連想的に恐怖を与える効果が在るらしい。
ある学者は、モリオオドクガエルは、自分の姿を恐怖と関連付けるために、体内にその毒を持ったという風に記しているが、私としては、あまり賛成できない。私は、動物の特殊な能力は、結果論的なものだと思っている。その毒の存在を経験的にクマも知っているから、決してモリオオドクガエルを食べようとは思わないのだ。
原因と結果のどちらが要因であれ、自分の毒を上手く使うことで、モリオオドクガエルの連想作戦は旨くいっているのだろう。
かつて、実験でモリオオドクガエルをクマに与える実験の記録を見たことが在る。
クマの食事を一週間以上抜き、人の姿を見ただけで襲い掛かろうとするくらいまで絶食させた。だが、そのクマでさえ、モリオオドクガエルを与えたら、すごすごと後退した。それ程に、彼らカエルを捕食する者にとって、モリオオドクガエルの存在は恐ろしいのだ。
後に猟師の話を聞いた所によると、やはり、モリオオドクガエルの矢尻をもって猟に出かけたときは、必ずクマは取れなかったそうだ。
草食動物はカエルを襲うことがないので、オオモリドクガエルの死の反撃を食らう危険性がない。そのため、モリオオドクガエルを恐れることはない。だが、クマにとっては、カエルも充分に捕食対象だ。そして、カエルを食し、毒にあたった可能性は十分にある。また、足などに負傷しているときに、誤ってカエルを踏んでしまい、毒に犯された経験があるかもしれない。どのクマも同じような経験はしているはずだ。
その経験が、猟師の持つモリオオドクガエルの矢尻からクマを遠ざけるらしかった。
話を戻す。
今、クマは全く動こうとせず、周囲の匂いをかいでいるようだった。
もし、奴らがにおいに反応しているのであれば、それはおそらく、モリオオドクガエルの匂いを感じているからに違いない。矢尻の毒は、モリオオドクガエルの毒を抽出し精製したもので、通常の毒より濃い。むろん、その分、生臭い独特の匂いは強力だ。
苛立ったクマが、隣のクマに攻撃を仕掛け、それに怒ったもう一頭のクマが牙をむき、抗議の唸り声をあげる。
現れたクマは総数九頭。私が実際に群を見にいった時には、幼いクマも多かった。今回、ここに成人しているクマだけが来たとしたら、数的には、このくらいかもしれない。
まず我慢の限界を迎え、怒り出すのは、見た感じ若いクマだった。そして、攻撃を仕掛けられたクマも若かった場合、間違いなく取っ組み合いの喧嘩が始まる。だが、それが壮年のクマだと、壮年のクマがなだめて終る。若いクマは反省して、小さくなっている。
そんな光景が九頭の群れの中で随所に見られた。
「攻めるぞ……!」
一列目の猟師が声をかけた。
その声に反応し、第一列目の五人が前に出た。
「よせ! 無謀だ!」
私は思わず叫んでいた。
九頭のハイイロオニグマに、五人で立ち向かう。これが、どれほどばかげたことか。ハイイロオニグマ一頭を倒すのに最低十人の男の力が必要だ。それも、きちっと武器を装備した上で。その計算でいくと、ハイイロオニグマ九頭は、単純に考えても九十人以上の男が必要だ。それを、たった五人で戦おうとするとは。
一列目の援護の為に、私が立ち上がって弓を構えるのと同時に、二列目の男たちも立ちあがり、弓を構えた。その様は、私につられて立ち上がったというよりは、私が動くのを待っていたとさえ思えた。
一列目が前進するのと同時に、私は矢を射掛けた。一列目の突撃に驚き、威嚇の為に大きく立ち上がったクマの目をねらったのだ。
十年前のあの時とは違い、矢は見事に目に命中した。
左目に深々と刺さった矢を、左手で振り払おうとして、自分で眼窩をかき回してしまい、悲鳴を上げるハイイロオニグマ。しばらくのたうち回っていたが、やがて、全く動かなくなった。毒の効果だ。精製した毒が粘膜に直接触れればこのとおりだ。
ドクガエルの毒の効果を確信した私は、他の弓を持つ村人に、どんどん射掛けるように叫ぶ。
その声を皮切りに、残り八頭のクマに向かって、沢山の矢が浴びせ掛けられた。
だが、最初に目に当たり、のたうって死んでいったクマ以外に倒れるものがいない所を見ると、ほとんど体を傷つけていないのかもしれない。そこまでハイイロオニグマの皮膚は固いのか。矢だけでは到底血管まで到達しないのか。
それでも、矢を射掛けられたクマたちは、出鼻をくじかれた格好となった。猟師たちはそのタイミングを逸することはなかった。第一列の人間が、鴇の声をあげ、一気に間合いを詰めた。
すると、驚くべき事が起きた。何と、ハイイロオニグマが一目散に逃げ出したのだ。それも一頭二頭ではない。すべてのクマが。まるで、人ではないとてつもなく恐ろしい何かに相対したかのように。
私は呆然としていた。これほど簡単にハイイロオニグマを退けられるとは。
しかし、ハイイロオニグマは狡猾だ。狩りにおいて、待ち伏せなどを行うこともあるという。三頭くらいがシカの群を追いかけ、谷へ追い込む。そこで待ち伏せしていた数頭のクマとで、挟み撃ちにするのだ。群で狩りをするのも、ハイイロオニグマの特徴だ。
そのクマの性質を、猟師はよく理解していた。そのため、一列目の男達は、追撃には転じなかった。
屈強な猟師たちが追撃に転じない所で戦闘は終了した。合計、ほんの数分間の戦闘だった。
私は、はたから見れば拍子抜けとさえ言えるほどの、短時間のハイイロオニグマとの戦闘の終了を実感していた。だが、それまでの時間が本当に長かった。少なくとも、私とハイイロオニグマとの戦いは。
思えば、辺境警備隊に籍を置き、奴に敗れたその日から、ハイイロオニグマとの戦いは始まっていたのかもしれない。
最初の敵は、私の中に巣食うハイイロオニグマの幻影だった。そのハイイロオニグマの幻影を取り除くのに、レスティやラティツィータの力を借りてなお、十数年の時間がかかった。
ハイイロオニグマの一度目の襲撃の際に受けた心の傷が癒える間もなく、二度目の奴の襲撃を受けた。その時心に負った傷の深さは、計り知れないものがある。三番目の敵は、先ほど逃げていったクマたちだが、彼らと戦う際にも、下準備期間は長かった。
村へ接近しつつあるハイイロオニグマの群れに、警戒されない程度に接近し、クマの数を調べ、クマの位置を逐一把握した。弓を作り、モリオオドクガエルをバケツに三十杯ほど捕まえてきては、分泌腺から神経毒を採取した。クマのけもの道に、大きな串状のトラップを数台仕掛けもした。
だが、作業そのものより、村の人間がハイイロオニグマと戦う際に感じていた恐怖を払拭する作業の方が困難だった。
この世界に生きとし生ける者で、ハイイロオニグマの恐怖を知らぬものはいない。その体験が直接的なものであれ、間接的なものであれ。だからこそ、私は、ハイイロオニグマの恐怖を払拭するのではなく、ハイイロオニグマの恐怖を知ってもらった上で、それでも戦わねばならないことを理解してもらった。
その際に彼らに与えた糞度胸が、効を奏したのかもしれない。
とにかく、我々は、ハイイロオニグマを退けたのだ。
第一列目の人間が我々のいる所に戻ってきた。誰一人として、今の結果が拍子抜けだとは思わなかった。それ程に、緊張した瞬間だった。逃げ出したクマを見たとき、だれしも、助かったと思った。
立ち上がると平屋の家の屋根くらいの背丈となるハイイロオニグマは、向かい合っているだけでもすさまじいプレッシャーを受ける。第一列目の人々は、その重圧に押しつぶされずによくもまあ前進できたものだと、私は心から思ったものだった。
私は、全員と握手して回り、他の者も、互いの健闘を称えあった。皆武器を投げ捨て、興奮したように喋りあった。
ある者は、先ほどの瞬間を武勇伝として語り、またある者は、逃げるクマをみて自らの命がここにあることを再確認した。
だが、今の私から考えれば、どこをどう見ても、村人達が冷静だったとは思えない。みんな浮き足立っていた。村を守る男たちの九割方の人間が、死を覚悟していたのだから無理もないのかもしれないが。それが、どういうわけか、ハイイロオニグマを退け、うまく生き残ることができた。今思うと、自らの努力で勝ち得た奇跡に酔いしれ、一種神懸かり的になっていたのかもしれない。
突然、レスティと私が住む家が、耳をつんさく大音響と共に崩壊した。崩壊した、というよりはむしろ、家の中で何か巨大なエネルギーが膨張し、家が破裂したといった方が正しいかもしれない。
そして、先ほどまで、いやというほどみせられていた巨大な体が、大地を振るわせる咆哮とともに現れたのである。その大きさは、先ほどの奴等とは比較にならない。立ち上がったその身の丈は、二階の屋根にまで達しようという大きさだ。
奴が出現したその瞬間、我々は何が起きたのかわからずに、ただただ立ちすくんでいた。
いや、何も考えていなかったに違いない。呆然と土煙の中にたたずむ巨大な物陰を見ていたのだ。
クマ独特の長い鼻息が聞こえた。その鼻息に混じって、たまに喉を震わせた威嚇音がきこえた。その威嚇音は通常のものより低く、我々の体を腹のそこから振動させる。鼻をつまみたいほどのけもの臭が辺りを包んだ。威圧感だけなら、先ほどの九頭より、奴一頭の方が遥かに上だ。
私は、熊の群れが出現した時点で、気づくべきだった。『奴』がいないことに。まさかとは思うが、九頭の熊の群れは、我々を油断させるためのおとりだったというのか?
フシューッ……フシューッ……ブオーン……。
怒りの感情を隠さぬその目は、間違いなく私を捉えていた。おそらく、奴の目には私しか映っていなかったに違いない。
ブオーン……ブオーン……フシューッ……ブオーン……。
鼻息に比べ、威嚇音の割合が増えてきた。
今考えてみると、私は先ほどより今の方が冷静だったように思える。後どれくらいで奴が私に対する攻撃を開始するかを、殆ど完全に予測することができた。
奴が突進のため四つん這いになった瞬間、私は絶叫していた。
「逃げるんだ!」
だが、その巨体に拘わらず、奴の突進は早かった。私は横飛びに飛んだため、奴の驀進のコースから逃れることができた。しかし、奴に背を向け逃げ出した人々の一部は、奴の急襲から逃れることができずに蹴散らされた。
鮮血が舞う。だが、先ほどのクマとの死闘で、周囲に血の匂いが立ち込めていたため、それほど血の匂いは感じなかった。
奴の驀進の跡には、重傷を負った数名の村人が倒れたり蹲ったりしていた。跳ね飛ばされた村人は皆うめき声をあげ、痛みを訴えた。内臓が破裂をしたか、どこかの骨が折れたか。奴の体に接触した者が無傷で済むわけがない。
ついに怖れていたことが始まった。奴の拷問まがいの殺戮ショー。
奴は、私を殺し、この地を去る前に、死にかけた鼠をいたぶる猫のように、村人全員を血祭りに上げるはずだ。食う為ではなく、娯楽の為に。
だが、不思議なことに、奴はハイイロオニグマ特有の散漫的な攻撃習性を微塵も見せずに、即座に私に振り返った。いつもなら、瀕死の重傷を負って痙攣を起こしている動物に対し執拗に攻撃を仕掛ける、あのハイイロオニグマが、だ。
奴は、今やハイイロオニグマの習性では動いていなかった。奴を突き動かすのは、只一つの感情。私への憎しみだけだったのか。
奴は、まるで無力な私をあざ笑うかのようにゆっくりと近づき、まだ立ち上がっていない私の側までくると、二本足で立ち上がった。
―大きい……。
奴とかつて対峙したより、さらに大きくなっている。今私が横たわっているせいもあるが、それ以上に、奴は大きく見えた。
奴がゆっくりと口を開く。薄いピンクと黒とのまだら模様の口の襞の向こう側に、黄色く濁った巨大な牙が浮かんだ。まるで、大地に倒れたまま立ち上がれない私に対し、歯を剥いて侮蔑の笑みを浮かべているようにさえ見える。
「やっとこの時が来たな、ティルよ」
その巨体に比べて、異様に小さい奴の赤い眼は間違いなくそう言っていた。
殺される……。
私はそう直感した。
「オオオーーッ!」
突然、周囲から鴇の声があがる。
奴の急襲に精彩を欠いていた村人たちが、正気を取り戻し、再度戦闘体制に入ったのだ。
奴に立ち向かう村人の中には、先ほど奴の突進をまともに受けた者もいた。彼らは、自分たちが先ほど地面に置いた武器を拾い、盛んに奴に攻撃を仕掛けた。
だが、奴には微塵も効果がない。ただの鎌や鍬では、奴の強靭な肉体は、傷つけることはできても、それが致命傷には到底ならないようだった。
奴は鬱陶しそうに体を振るい、村人たちを跳ね飛ばした。奴の体の周りにいる村人は、奴が腕を一振りするたびに、大きく跳ね飛ばされた。しかしながら、なぜかその一撃が村人たちの致命傷にはならなかったようだ。
人間もかつては野生の動物だった。その野生の血が、村人たちに致命傷を負わせることを回避させているのか。村人たちは、奴の一撃に脅えることなく、武器を手にして、奴に攻撃を仕掛けていった。何度倒されても、彼らは立ち上がった。そして、執拗に奴の足元を攻めた。
クマと人間との死闘において、これだけ烈しい戦闘を繰り広げて、双方、未だ決定的な一撃を与えられないことは稀だ。
永遠に続くかと思われるその戦闘を繰り広げる村人の姿に、私は勇気づけられた。私も立ち上がり、武器を手にした。
とはいっても、このまま挑んでも只倒されるだけだ。かといって、奴に攻撃を仕掛けるタイミングを図り、これ以上戦闘を長引かせようものなら、体力の限界の近い我々のほうが、いずれはやられてしまうだろう。
打開策はあるのか?
ある!
モリオオドクガエルの毒だ。これを武器に塗れば、仮に奴の体の表面を傷つけただけでも、傷口から毒が染み込み、十分に効果を発揮するはずだ。
毒の取れる量は、バケツ十杯ほどのカエルから、せいぜい毒矢三十本程度と非常に少ない。だから、武器に塗っている余裕はなかった。そして、もうその毒の余りはない。
だが、矢ならまだある。矢を束ね、強度を増して、手槍のように使えば……。
私は即座に、残った矢を集め始め、槍程度の太さの束を作った。そして、腰の紐をそれに巻きつけ、それぞれの矢を固定すると、それを手にして立ち上がった。そして、小山のような奴に向かって向き直った。
恐ろしい!
あの巨体と相対しているだけでも、血が凍るようだった。鳥肌が立った。全身の毛が逆立つようだった。
十年前に奴と二度目に向かい合ったときの恐怖がよぎった。
一年前、テントを設営していて、テントを固定する杭を打ち込む為に木槌を振り上げた瞬間に、ハイイロオニグマの群れと目が合ったその瞬間の恐怖は今でも忘れない。
ハイイロオニグマ、とりわけ奴への恐怖心がピークに達しようとするその瞬間、私はその恐怖を払拭する為に、大声で叫んだ。
「おまえの目的は、この私だろう! 来いよ! 決着を付けてやる!」
奴は私のほうにゆっくりと振り向いた。その瞬間、私にはコマ送りのように見えた。
奴は、立ち上がったまま天に向かって咆哮する。そして、その巨大な前足を地面に押し付けた。短く鋭い雄叫びを上げ、奴は私に向けて突進を開始した。奴と私を結ぶ直線上にいた村人が、なすすべもなく跳ね飛ばされる。
だが今度は、私は落ち着いていた。先ほどまで戦っていた村人たちが戦いのヒントを示してくれていたからだ。
それは、クマの間合いではなく、自分の間合いで戦うこと。
クマの間合いは、人間よりはるかに長い。しかし、人間の間合いで戦うと、クマの一撃はとたんに威力を失う。
なぜか。
クマの攻撃方法は、太く重い腕を凄まじい筋力で振り回し、それを敵にぶつける。実は、長く鋭い爪は付加的な効果しか持たない。つまり、その爆発的な攻撃力は遠心力から生まれるわけだ。言い換えれば、その攻撃は、ある程度離れた相手に対して、圧倒的な破壊力を発揮する。従って、クマの懐に入ってしまえば、仮にクマの一撃を受けても、致命傷にはならない。
奴の懐に入る為には、奴の突進をまず止めなければならない。その後、奴を立たせなければならない。あまりにクマとの距離が遠い場合、クマは立ち上がらず、四足で移動し、強烈な顎で攻撃を仕掛けてくる。クマが立ち上がるためには、四足で移動する必要がないくらいにまで、私が奴の側によらねばならない。
地響きと共に、奴が突進してくる。私は再度横飛びにかわす。
奴は突進をやめ、私のすぐ傍まできて、再度立ち上がった。
先ほどと同じ状況となった。
私は大地に横たわり、奴は二本足で立ち上がっていた。唯一違うのは、この状況を、私が意図的に起こるように仕向けたことだった。
奴が私の側に立ち、まるで大木のような右腕を大きく振りかぶった瞬間に、私は奴のぎりぎりまで接近した。ちょうど頭の上には、奴の頭があった。
奴は驚き、立ったまま間合いを取ろうとするが、私はそのつど間合いを詰めた。クマの二足直立での後退速度はたがかしれている。常に間合いを詰めつづけることはそれほど難しくなかった。
奴は、いまいましげな唸り声をあげると、真下にいる私に食らい付こうとしてきた。
奴の口蓋がカッと開かれ、溶けた鉄のように赤黒い口内と、口を縁取るように生えた鋭利なナイフのような牙が確認できた。
ブオオオオオン!
奴は私に向かって、激しく威嚇する。私の顔に、生臭く暖かい風が当たった。
周囲の人間たちは、今まさに食われようとしている私の姿を目の当たりにして、はっと息を呑んでいるに違いなかった。
だが、私はそれを待っていた。
奴には、遠距離から放つ矢は通じない。そして、鎌や鍬を使った攻撃にもびくともしなかった。だが、至近距離から渾身の力を込めて、粘膜にモリオオドクガエルの毒をぶち込んだらどうなるか?
私は、大きく開かれた口に向かって、矢で作られた槍を真上に思い切り突きあげた。
文字どおり全身の力をフルに使った。ひざを使い、押え込まれたスプリングが伸びるかのように跳躍し、さらに、渾身の力を込めて右腕を突き上げ、奴の口を突いたのだ。
奴は痛みに大きくのけぞった。
やった!
私は勝利を確信した。
奴との最初の戦闘でも、私は奴の懐に入ることに成功している。だが、決定打がなかった。ハイイロオニグマを一撃でしとめられるだけの決定的な攻撃力が。そのため、十年前は敗退している。
だが、今、私には、ハイイロオニグマさえ仕留めることのできる攻撃力を手に入れている。モリオオドクガエルの槍。生物に対し、これほど強力な武器はあるまい。
私の手には、奴の体に深々と刺さる槍の感触が伝わってきた。
だが、奴は倒れなかった。
奴はもがき苦しみこそした。だが、奴は再び私を噛もうと、大きく口を開けた。だが、その口の開け方は不自然だった。
(なぜだ! なぜ倒れない?)
最終手段が通用しなかった私は、混乱気味に奴の顔を見上げた。
私の手元には、既に矢尻はない。一撃で槍は破損し、矢尻はどこかに行ってしまったのだ。よく見ると、矢尻がついていた部分が、奴の口の横に深々と刺さっている。口内に毒の矢尻は届いていないのだ。
奴の体にモリオオドクガエルの毒は入った。恐らく傷口から毒が体内に流れ込むだろう。だが、毒が全身に回り、奴が倒れるまでにはまだ時間がかかる。奴が私を殺す時間は十分にあった。そして、私はもはやそれに抗う力を持たない。
私は、槍術の習得に努めなかった自分を後悔した。一撃のタイミングは問題なかったのだ。そして、その繰り出す威力も。問題は狙いだ。照準が定まっていなかったのだ。
今度こそやられる。私はついに死を覚悟した。
と、その時、悲鳴をあげ、奴は大きくのけぞった。
二、三度、奴の巨大な腕が振り回されたが、それは完全に私を狙ったものではなかった。奴は、ついに背後に倒れ込んだ。奴はしばらくのたうっていたが、やがて絶命した。
私は、奴から目が放せず呆然としていた。ややあって余裕を取り戻した私は、息絶えたばかりの奴のそばに寄ってみた。
奴の、私がかつて潰したのとは逆の目に、一本の毒矢が刺さっていた。
慌てて背後を振り返る。
そこには、矢を放った後の弓を持ち、呆然と立ち尽くしているラティツィータがいた。




