幼い記憶
「母の記憶、ね……」
雨明には父と母との記憶はほとんどない。
ふたりは幼い頃に流行り病で亡くなったからだ。
それでも繋がっていると感じられるものがあったら雨明も、時折ふたりを思い出すことがあったのだろうか。
(いないものはいないと、幼い頃に割り切ってしまったからこんな冷めた性格になってしまった)
彼女のように母を思い涙する。
そんな様子を見て雨明がなにも感じなかったわけではない。
それから小燕と共に部屋の片付けを終えて彼女を労った。
雨明は、本日の給金を受け取り、蒼玲と一緒に自分の部屋へと戻る。
すっかり日も落ちて窓の外には夜の帳が下りていた。
「これはお礼だ」
蒼玲が胡麻団子の包みを差し出してきた。
「毎回いいですよ、給金も十分いただいていますし……」
「いらないのか?今日は二つ用意した。少しここで休もうと思ってだ」
蒼玲が窓辺に腰をおろした。
(……勝手に決めるな)
この男は物事を勝手に決める節がある。
「ならいただきます」
雨明は隣に座り香ばしい団子を口へ運ぶ。
優しい甘さが疲労した身体にじんわりと染み渡った。
「宮正様の件は、小燕の意向を出来る限り聞く形になった」
「そうですか……」
夕闇に染まる景色を眺めながら雨明は静かに吐露する。
「母の愛ってすごいですね……私ならきっと出会った時に自分が母だと伝えてしまうのに」
「そうだな……」
蒼玲は短く相槌を打ってから夕闇の空へと視線を外した。
「お前の母親はどうだったんだ」
不意に問いかけられて雨明は手元の団子を静かに見つめる。
「私ですか……私は母の愛とかはよく分かりません。母は私が物心つく前に亡くなったので」
だから母親からの愛情というものがどんなものか実感したことがないし、それを感じてどう思うかもよくわからない。
蒼玲は窓枠に背を預けたまま静かに夜空を見上げた。
「……そうか」
(なんて、こんな話をするもんじゃないか)
こんな暗い話をされても気が悪いだけだ。
蒼玲はただ静かに空を見つめた。
気の利いた慰めの言葉など彼には持ち合わせていない。
「だがお前はこうして図太く生きているじゃないか」
少しだけ意地悪に響くその声は、彼なりの不器用な励ましだった。
「図太くとは失礼ですね……しっかり生きていると言ってください」
雨明がむくれて言い返すと蒼玲は微かに口角を上げる。
「知らないものは知らなくていい。生きる場所でこれから知ることを見つければ俺はそれでいいと考えてる」
「奇遇ですね。私と同じ考えだ」
過去を嘆いてもなにも取り返せない。
雨明はきっと人から見たら不遇な人間なんだろう。
でもこうして生きている。
自分の好きなことをして、自由気ままに。
今は不自由もない。
だったらそれでいいと思う。
(人はそれを冷たいと言うのかもしれないが……)
雨明はふと蒼玲を見上げた。
(この男も気のきいたことが言えるんだな……)
少しだけ見直した雨明は手元の団子を静かに見つめた。
甘い餡の味が心を優しくほどいていく。
夜風は冷たいが二人の間にはとても穏やかな時間が流れていた──。




