尋ねてきた破天荒な下女
あれから1週間が経ち、一通の手紙が雨明のもとへ届いた。
差出人は先日この後宮を去った小燕からだった。
小燕は母の残した銀を胸に抱いて後宮を去ったらしい。
解雇という名目だが、彼女の足取りはどこか力強かったと聞いている。
外の世界で仕事を探して新しい生活を始めるらしい。
宮正様が命を懸けて隠した事実を伝えてよかったのか。
雨明はずっと気がかりだったが、彼女の手紙には力強い文字であることが綴られていた。
『母を母だと知ることが出来て本当によかったです』
その真っ直ぐな言葉に雨明はほっと胸を撫で下ろす。
あの明るい性格であれば貰い手が出てくるのも時間のうちだろう。
(なにより、よかった)
あれから依頼はしばらく来ていない。
(つまり暇だ……)
「……また雑草が増えたな」
雨明は小さく溜息をついた。
彼女が暮らす離れの裏手には、かつて美しかったであろう果樹園の成れの果てがある。
今や剪定する者もなく、枝は伸び放題、根元は人の背丈ほどもある雑草が鬱蒼と生い茂っている。
だが、雨明にとってここは宝の山でもある。
誰の目も気にせず昼寝ができるし、なにより――。
(今年の杏は豊作だ)
たわわに実った果実を見上げ、にやりと笑う。
シロップ漬けにして、顔を隠し甘味に飢えた下女たちに売りつけるのも悪くない。
雨明は収穫用の籠を背負い、草藪をかき分けて進んだ。
その時だった。
──ガサッ。
頭上で不穏な音がした。
鳥ではない。
もっと重たい、なにかが枝を揺らす音だ。
(猿か?)
このあたりに野生の猿が出没するという話は聞かないが、後宮は何が起きても不思議ではない場所だ。
雨明は警戒しながら視線を上げた。
すると、そこにいたのは……。
「……え?」
猿ではなく一人の少女だった。
器用に木にしがみついている。
着ているのは下女の服だ。
だが、サイズが合っていない。
袖は余り、裾はたくし上げられ、腰紐で無理やり縛られている。
彼女は震える足で細い枝の上に立ち、さらに上にある実を取ろうとしているようだった。
あるいは、その向こうの景色を見ようとしているのか。
(……サボりか?それとも腹を空かせた新人か?)
雨明が呆れたように見上げた、その時だった。
──バキッ!!
乾いた音が静寂を切り裂く。
「きゃあっ!」
少女の足場が崩れた。
彼女の体が一瞬、宙に浮く。
高さは二階の屋根ほど。
落ちればただでは済まない。
雨明は舌打ちをした。
彼女は近くにあった洗濯物を入れた大きな竹籠を蹴り飛ばし、落下地点に滑り込ませる。
中には洗い立てのシーツがたっぷりと入っている。
(頼む、間に合ってくれ)
「うわっ!」
ドスン、という鈍い音とともに、少女は竹籠の中へと吸い込まれた。
白い布の海に沈み、手足がバタバタと動く。
「……いったぁ……」
少女がシーツから顔を出した。
頭には枯葉が乗っている。
だが、どこも折れてはいないようだ。
雨明はほうっと息をはき、籠の縁に手をかけ、冷ややかに見下ろした。
「……死ぬなら他所でやってください。ここは死体処理はやっていませんよ?」
「死体処理……?」
彼女はよくわかっていないようだった。
大方猫でも探していて紛れ込んだのだろう。
「あ、ありがとう!助かったぁ~!」
少女は雨明の皮肉など聞こえていないかのように、満面の笑みを浮かべた。
「それでケガは?」
彼女はぶんぶんと首をふる。
「全然痛くなかった!今のなに!?カッコよかった~」
キラキラとした瞳で詰め寄ってくる。
雨明は呆れて手を貸し、彼女をカゴから引きずり出した。
その少女の手はタコひとつなく、爪はキレイに手入れされていた。
(こいつ、雑巾がけ一つまともにできそうにないな)
それにこのサイズの合っていない服。
(自分に合う服も支給されないほどの見習いなのか?)
よほど不器用で、いじめられているのかもしれない。
そう思うと雨明は少し同情した。
「私は鈴鈴っていうの。よろしくね!」
少女は服の埃を払いもしないで、明るく名乗った。
屈託のない笑顔だ。
「あなたの名前は?」
迷い込んできて、ここのことをなにも知らないんだとしたらかわいそうだ。
雨明は一つ溜息をつき、距離を取るためにあえてハッキリと告げた。
「雨明です。……でも、もうここには来ない方がいいですよ」
「えっ、どうして?」
「私は後宮の遺品整理人です。死人の部屋を片付ける仕事をしていますから」
そう告げれば悲鳴を上げて逃げ出していくだろう。
そう思ったが、鈴鈴の反応は予想外だった。
「えっ、後宮の遺品整理?すごい……!」
彼女は目を輝かせ、さらに一歩踏み込んできた。
「どういう仕事をするの?詳しく聞かせて!」
「……は?」
雨明は拍子抜けして瞬きをした。
「……怖くないんですか?普通はみんな呪いだ、穢れだって逃げてくけど」
「呪いなんてないわ」
鈴鈴はキョトンとして、あっけらかんと言い放った。
「そんなものがあったら、この世は死人だらけになっちゃうもの。亡くなった人間に出来ることなんて……なにもないの」
雨明は思わず口元を緩める。
同感だ。
それよりも生きた人間の悪意の方がよっぽど怖い。
(珍しい人間に会ったな……)
「ねぇお願い。どんなお仕事をするのか教えて」
鈴鈴は興味深々に尋ねると、勝手に側にあった切り株に座り込んだ。
「そういうのはペラペラ人に話すものじゃない」
「そっかぁ……それなら」
すると鈴鈴は懐からゴソゴソと包みを取り出した。
「お菓子持ってきたから一緒に食べよう!」
出てきたのは、緑豆糕だ。
緑豆の粉と砂糖、油を混ぜて木の型で抜いたお菓子で花の模様が彫られている。
下女の配給にしては、随分と上等な品に見えた。
「……盗んだな?あいにく盗んだものを食べる趣味はないのでね」
雨明が釘を刺すと、鈴鈴は頬を膨らませた。
「盗んだんじゃないもん!ご褒美にもらったの!」
「ご褒美……」
まあ、この珍妙な性格なら、どこかの物好きなお偉方に気に入られて菓子の一つも貰うことはあるかもしれない。
「……まあ、いただきますけど」
なんせ好物だからな。
雨明は差し出された緑豆糕を受け取った。
一口かじると、上品な甘さが口いっぱいに広がる。
「うーん、美味しい!」
隣では鈴鈴が「美味しいね!」と無邪気に笑っている。
雨明は杏の木を見上げながら、こんな日があってもいいかと思った。
実際暇だし、変な下女(しかも無害そうな)相手をするのも、たまには悪くない。
「それで、なんでここに来たんだ?」
雨明は食べかけの饅頭を指で挟んだまま尋ねた。
仕事サボりにしては場所が辺鄙すぎるし、迷子にしては堂々としすぎている。
鈴鈴は口元の餡をそっと布で拭いながら、高い塀の方を指差した。
「外が見たかったの」
「外?」
「そう!この後宮の壁の向こう」
彼女は眩しそうに目を細める。
「ウワサで聞いたの。壁の向こうには市場があって、見たこともない大道芸人がいたり、美味しい焼餅の屋台が並んでたりするんでしょう?」
まるで夢物語でも語るような口ぶりだ。
雨明は呆れて塀を見上げた。
十尺はある灰色の石壁だ。
たとえあの木に登ったとしても、見えるのはせいぜい外堀の汚い水面くらいだろう。
「……残念ですが、ここから見えるのはドブ川と、退屈そうな衛兵の頭だけですよ」
雨明が淡々と事実を告げると、鈴鈴は「えーっ!」と頬を膨らませた。
この国では、飢饉になれば親が娘を売るなど日常茶飯事だ。
借金のカタに売られた商家の娘か。
あるいは父親が政争に敗れ、罪人の家族として後宮に送り込まれたのか。
どちらにせよ幼くしてここに来るしかなかったのだろう。
そう思うと同情できた。
雨明は最後の一口を放り込み、立ち上がって服の土を払った。
「夢を見るのは勝手ですが、命は大事にした方がいいですよ。落っこちて死んだら、それこそ外の世界なんて一生見られませんから」
「……ふふっ」
すると鈴鈴は嬉しそうに笑った。
「そうね、逆に言えば生きていれば外に出れるかもしれない……」
鈴鈴はすぐにニカっと笑った。
「でも、ありがとう。雨明のおかげで助かったし、面白い話も聞けた!」
彼女は立ち上がり、下女服の砂をパンパンと叩く。
「ねぇまた来てもいい?今度はもっと美味しいお菓子持ってくるから!」
「……まぁ」
雨明は頷いた。
美味しいお菓子がもらえるならいいかと思っただけだ。
決して誰かと話すのがいいかもと思ったわけじゃない。
鈴鈴は手を振り、軽やかな足取りで草藪の向こうへと消えていった。
後に残されたのは、風に揺れる杏の木と、微かに漂う白檀の香りだけ。
雨明は空になった籠を背負い直した──。




