【夫視点④】会いたくない人
「達也……」
離婚して二ヵ月、既に生活や金銭面で追い詰められていた達也の前には今、最も会いたくない人物が立っていた。
(なんで、家に来てるんだ……)
焦りが喉元までせり上げてきて、なんとか誤魔化せないかと頭を回転させるもどうすることもできずに、おとなしく玄関の鍵を開ける。
達也に続いて、玄関に入った背後の二人がはっと息を呑む気配がした。達也は屈辱を感じながらも、諦めた。開き直ったとも言う。
「想像していた以上に酷い状況のようだな。とりあえず、話を聞こう、母さん」
連絡もなく突然現れた母にも驚いたが、その付き添いで多忙な兄まで来ているのはなぜだろうか?
空き部屋になった美羽の部屋だけでは飽き足らず、今や廊下にも荷物ともゴミともつかないものが山積されている。
片付け、掃除をする人がいないとこれほどのスピードで家は崩壊するのかと達也自身も驚いている。
リビングは廊下よりはマシだけど、ソファにはスーツや服などの衣類が積まれ、テーブルには飲みかけのペットボトルや缶やつまみの残骸が無造作に置かれている。床にはダイレクトメールも重要な書類も一緒くたになって散らばっていた。
一応、ゴミと思しきものはゴミ箱に入れているが、ゴミ箱から溢れその周りにもゴミが散在している。
「連絡くらい入れろよ。なんで突然来たんだよ、母さん。兄貴まで。仕事はどうしたんだ?」
「どうして、連絡もなく来たのか、その理由に心当たりはないか?」
昔からこうだ。兄は、いつも持って回ったような言い方をする。
達也は、ソファに積みあがった衣類を掴んで、床へ移動させると、母と兄に座るように促した。
「お前が母さんに金の無心をするからだろう? しかも、口止めまでして」
「それは……。本当に困っていて。少額だし、ボーナスが出たら返せるし、本当に今回だけの話だったから……」
達也はローテーブルを回りソファの対面にある床に転がる雑多な物を寄せて、空いたスペースに正座して座る。
しばらく沈黙が続いた後に母が口を開いた。
「離婚したそうね」
達也ははっとして顔を上げた。結婚式以来、顔を見ていない母は記憶より随分と老け込んだ気がする。
「それは落ち着いてからと思っていて……」
「電話の一本くらい入れられるだろう? 借金のお願いはできるのに、離婚の報告はできないのか?」
いつでも兄は真っすぐで正しい。正論が達也に刺さる。
「でも、なんで……」
訝し気にする達也に、兄はA4サイズの茶封筒を掲げた。
実家の母宛の郵便物には見覚えのあるお手本のように綺麗な文字が並んでいた。
「美羽の奴、チクったのか!」
離婚の話し合いの時も用意周到に準備していた。まさか達也の実家にまで手を出しているとは思いもしなかったが。
「はぁ。お前がそんな態度だから二年で離婚することになったんだろうな……」
兄は短く揃えられた髪をくしゃりと崩しながら、呟いた。
「あいつが母さんに何を吹き込んだか知らないけど、価値観の不一致だよ! あいつとなにもかもが合わなかっただけだ! どっちかが悪いとかじゃないんだよ! 結婚したら、金のこととかうるさくなったし……」
「お前は何一つ反省していないんだな……」
「美羽さんは離婚が成立してすぐに、電話をくれたわ。ええ、あなたと同じようなことを言っていたわ。言い方はあなたと違うけどね。お互い求めるものが違う。描く未来も違う。修復は不可能。でも、どちらが悪いわけでもなく、相性の問題です。結婚するのを決めたのは自分達二人なので、二人の責任ですと言っていたわ。あの子は達也を責めるようなことは一つも言わなかったけどね……」
残念そうに言う母に、兄につられて早とちりして怒鳴ったことを後悔した。
「でも、美羽さん離婚後のあなたのこと随分心配していてね。こんな書類も送ってくれていたの。おそらくお金と生活に困るだろうからと。結婚している間もお金の話をしたり、家事を手伝ってくれるようにお願いしたけど、聞いてもらえなかったからと言ってね。達也は仕事も忙しかったし、自分の説明の仕方も悪かったんだろうとフォローしてくれたけどね」
兄から差し出された茶封筒には、美羽が離婚の話し合いで達也に渡したお金の流れに関する書類にさらに補足を入れたものだった。ご丁寧に達也の通帳のコピーまで同封されている。
達也が負担していたのは、家賃のみ。それ以外の光熱費と食費や現金の出費は全て美羽の負担。さらに、達也のカードの支払いの足りない分の補填も美羽がしていた。その資料を見るとそれが一目瞭然だった。
更には、結婚して二年間の達也個人の出費についてまとめられていて、離婚したことによる家賃補助がなくなり、美羽が負担していた分がなくなると達也のお金が回らなくなるだろうという予測まで書かれている。家事をほとんどしていなかったので、家事を外注することによる負担の増加まで見込まれていた。
離婚して三ヵ月経ち実際に金が回らなくなっているので、美羽が正しいのは痛いほど身に染みている。
まったくもってその通りなのだが、美羽がここまで言い当てていることに屈辱を感じて、唇を噛む。
「達也、なんで美羽さんがこの書類を母さん宛に送ってきたかわかるか?」
「は? 俺のことを思ってだろう?」
「相変わらずおめでたい頭をしているな。美羽さんが心配していたのは、お前が金や生活に困って自分に縋ってくることだよ。せっかく縁を切った元夫が困った困ったと言って追いかけてくることを恐れて、実家に釘を刺したんだ」
「は? どういうことだよ?」
「現にカードの引き落としができなくて美羽さんに電話をかけただろう? 何回も」
「そんなことまでアイツは言ったのか!」
「そんなこと? 一体、あなたは美羽さんのことをなんだと思っているの? あなたがそういう態度だから離婚になったんじゃないかと今なら思えるわ。いつまで美羽さんに面倒を見てもらうつもりなの?」
「だって、どうしたらいいかわからないんだ……」
母と兄の二人に責められて、自分の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、俯く。
「他人になるから連絡しない、その約束を破ったからもう一つ郵便物が届いたの」
母の言葉に、背中に汗が流れる。
「美羽さんはあなたの浮気を知ったけど、そのことは伏せて、慰謝料は請求しないという情をかけてくれた。なのに、あなたは困ったからと言って、簡単に約束を破った。だから、あなたが浮気をした調査書と証拠の動画が届いたわ。ご子息がお金と生活にお困りのようなので助けてあげてくださいという書簡と共にね。そして、再度、自分に関わらないようにと伝えて下さいと書いてあったわ。次に自分に接触しようとしたら勤め先に浮気の証拠の品を送るとも書いてあった」
「その動画って……」
「あなたと浮気相手との情事。浮気相手とのおしゃべり。美羽さんと離婚について話し合っている時の音声。同期の方とあなたの浮気について話している時の音声。全て見て聞きました。情けない。多少浮ついた所があるとは思っていたけど、こんなことをするために都会に出てきたのですか?」
「あああ……」
本気で怒ると敬語になる母の言葉に、声にならない唸り声をあげて床に這いつくばる。
どうやら美羽は達也と離婚した時の会話の録音データと悠真が持っている浮気調査の書類と送別会の日の録音データも共に送り付けたようだ。
約束を破って何度も電話したことをそれほど怒っているとは思わなかった。それがつまり、二人の関係性を現しているのだろう。達也が無神経なことをしても、美羽に怒る権利などないと無意識に思っていたのだ。
軽んじている美羽との約束が守られることはないと知って、達也に最も効果的な方法で釘を刺すことにしたに違いない。確かに、こうでもしないと達也はいつまでも執拗に美羽に追いすがっただろう。あれこれと自分に都合のいい理由をつけて。
「美羽さんはあなたの家政婦でも母親でもないのよ。いいこと。今後一切、美羽さんに接触しないと誓いなさい。探し出そうとするのもだめ。仮に見かけたとしても、声をかけない」
「……わかりました」
「美羽さんに申し訳ないことをしたわね。こんな屑な息子のせいで、二年間を無駄にして」
「……全部が無駄だったわけじゃ!」
カッとなって言い返して、母と兄の冷たい目を見て、再び項垂れる。
「チャラチャラした中身が空っぽの女とばかりとつきあっていたお前が結婚相手に美羽さんを選んだ時は、よかったと思ったよ。これでお前も安心だと……」
それは心から弟の幸せを願う兄の言葉だった。美羽とつきあったのも結婚したのも、軽い気持ちだったので、兄の言葉は達也は重くのしかかってきた。
「筋違いの怒りを美羽さんに向けるなよ。お前が怒るべきは愚かな自分自身だ。これ以上、母さんに心労かけるな。美羽さんに迷惑をかけないと誓うなら、今回は手助けしてやる」
いつの間にか達也の側に来ていた兄が、達也の肩を分厚い手で叩く。部屋には母のすすり泣きが響いている。さすがにこの年で母に泣かれると堪える。達也の目からも涙がこぼれた。
「こんなに情けないお前でも弟だと思ってる。都会が無理なら、いつでも帰ってこい。こっちに残るならちゃんとしろ」
母と兄は一週間、達也のマンションに滞在した。達也も有休を取って、一緒にゴミを片付け、ゴミの分別から覚えた。母が料理をしてくれて、久々のまともな飯にまた涙が出る。
お金に関しても美羽がまとめてくれていたせいもあり、現状を全て赤裸々に話した。やはり、今の達也には家賃補助なしに今のマンションに住み続けるのは難しいと兄と不動産屋をまわり、少し通勤の距離は遠くなるが便のいい場所にあるワンルームマンションを契約した。引越しの時にはまた兄が手伝いに来てくれるという。引越しには必要なものだけを持ち出し、不用品はお金はかかるが業者を雇って全て処分してもらうことになった。
パーソナルジムを解約し、ゴルフ用品やゴルフウェアも処分する。取引先とゴルフをすることもあるが、達也が希望して行っていただけで、必須ではない。
スーツやワイシャツも、部屋に放置されていたせいで皺や臭い、黒ずみなどの汚れがひどい。全て処分して、量販店で家庭でも洗濯できる安価なスーツセットを数点購入した。もちろんワイシャツはアイロンのいらない形状記憶のもの。安っぽいしデザインがダサいけど、文句は言えない。母から洗濯の仕方を教わる。
「無理に自炊しようとしなくてもいいけど、外食はするな。コンビニでもいいからなるべくバランスのよさそうな弁当を食え。金に余裕ができたら体に良さそうなものを外食するようにしろ」
兄は達也の無理のなさそうな範囲で、できることを提案してくれた。
カードのリボ払いにしていた残金とかスーツ代や新たなマンションにかかる費用や引っ越し代は母が肩代わりしてくれた。もちろん、後々返済する予定だ。
母と兄が滞在している時に、律花を呼び出した。二人には別室に引っ込んでいてもらう。
「なんの用? あら、ずいぶん綺麗になったのね。引越しでもするの? 休みとってるみたいだけど、病気ってわけでもなさそうね」
「あの、これ借りてた金。ありがとう」
「返ってくると思ってなかったわ。話はそれだけ?」
「あの、これまでのこと、ごめん。なかったことにしてほしい」
「は?」
「ちょっと金額に色つけてある。忘れてほしい。もう関係はもたない」
律花は達也から受け取った封筒を受け取ると、札束を取り出し、枚数を数え出す。達也が余分に入れた数枚の万券をテーブルに叩きつけて、借りた分の金額だけ封筒に戻して自分の鞄にしまった。
「こっち来て。ちょっと立って」
達也は言われるがままに、リビングの椅子から立ち上がった律花の正面に立つ。
律花は突然、達也の股間に蹴りを入れた。
強烈な痛みがせり上がり、うなり声をあげて股を押さえた体制で崩れ落ちる。
「死ねよ、お前。いつまでもお前に惚れてるなんて勘違いすんなよ? 私のことも綺麗さっぱり忘れてちょうだい」
そう捨て台詞を吐くと帰って行った。達也にはなぜ、律花が激高したかわからない。
なにがあったか聞こえていただろうに、兄も母もそれ以上は達也にふれなかった。そうして、母と兄は九州へ帰って行った。
その後、結局、引越しの時には兄と共に母もやってきた。
「結婚しなくていいからまともに暮らして」母の言葉が胸にしみた。
女関係や金銭に関することも整理し、生活も立て直せた達也はしばらく息をひそめるように、大人しく暮らすことにした。




