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帝国人が大那から引き上げるまで、さらに三月が必要だった。
船の修理もしなければならなかったし、大王の親書やら、それを帝国語に直す作業やら、外交のための細かな雑事が山ほどあったのだ。
他国を知らなかった大那にとっては、みながみなはじめての経験なのである。
そういっためんどうなことは、ありがたいことに朝廷のお偉方の仕事だった。大狼は風嵐島の復興に専念した。
島から逃れていた者たちも帰ってきて、風嵐はささやかながら活気を取り戻しつつあった。
人口は極端に減ってしまったが、それは大那のどこでもいえることである。こればかりは、次の世代に希望をつなぐしかないだろう。
初夏らしい、さわかな天候がつづいていた。生き残った者たちは、荒れた土地を耕して遅い田植えの支度にとりかかっている。漁に出掛ける舟も、よく見かけるようになった。
風嵐は、大那の縮図のように思えた。大那のいたるところで、人々は懸命に生活を取り戻そうとしていた。冬の季節は終わりを告げたのだ。
その日、大狼は朝早くから津木に渡った。
帝国人は、拠点を本土の津木に移していた。彼らの出帆の日だった。
津木の沖で、碇を上げようとしている船は二十隻ばかり。来た時の数とくらべたら、哀れなほどの少なさだ。帝国人たちの損害も、はかりしれないものがあった。
津木には、稀於も姿を見せていた。
彼女が長い旅から帰ったのは、一月前のことだ。
稀於が舞波に戻ったことを聞き知って、大狼はすぐに会いに行ったのだ。
生身の彼女と会うのは、帝国人の襲撃以来だった。
痛々しいほど痩せて、黒い瞳ばかりが大きく輝いて見えた。大狼は、再会できた喜びと、彼女のこれまでの苦難を思ってしばらく何も言えなかった。
「羽白はずいぶん弱っていた。目の紫も消えていたわ」
稀於は言った。
「側にいたかったけど、羽白はいいって。一日も早くあなたの所に行ってくれって」
「そうか」
「あなたに、よろしくって言っていた。まだ少し、琵琶を弾いていられそうだって」
「うん」
大狼は小さくうなずいて、遠い奈瀬の友に想いをはせた。
羽白は〈大主〉を鎮め、大那を救ってくれたのだ。
「よかった」
一月ぶりの稀於は、すっかり元気になっていた。結い上げた髪は艶をまし、こけた頬もふっくらと元に戻って愛らしい。
大狼は、稀於と並んで、ゆっくり浜を眺めまわした。
数隻の艀が浜辺につき、最後の帝国人を運びだそうと待ち構えている。
その側で、内臣鎌が通訳を挟んで中年の帝国人としきりに話しこんでいた。
通訳は佐巣で、帝国人は大狼がハイラのところで見た男である。
あの日ハイラは首尾良くガルガの暗殺を果たし、自分はその刃で自害したのだった。ハイラ亡き後は、彼が帝国人の最高責任者となっている。
船を送り出そうとしている官人たちの他に、浜にはかなりの見物人が集まっていた。旅芸人や商人らしい者の姿まであって、津木の浜はちょっとした祭りのような賑やかさだった。
大狼は、人間の逞しさに舌を巻いた。自分もその一人であることにまちがいはなかったが。
通訳を終えた佐巣が、大狼の姿を見つけて駆け寄って来た。
「いよいよ、お別れですね」
明るい陽ざしに、金髪がいっそう映えていた。あいかわらず、愛想のいい顔だ。
「ああ」
大狼はうなずき、彼がいなくなって、いくらか淋しくなるかもしれないなと考えた。
「帝国に帰ったら、せいぜい出世することだな」
「そうですね。大那語をわかる者は希少価値ですから、うまくやれると思いますよ」
佐巣はくすりと笑い、その澄んだ青い目で大狼を見つめた。
後で佐巣の名を呼ぶ声がした。帝国人たちの艀は次々に船へと向かっていた。
「じゃあ、大狼さま」
佐巣は、ふと真顔になって頭を下げた。ついで、すばやく伸び上がり、大狼の頬にその唇を触れた。
大狼は、一瞬なにが起きたのかもわからずに、ぽかんと立ちつくした。佐巣は一歩退いて、軽い笑い声をたてた。
「〈帝国〉流のお別れです。さようなら」
身をひるがえして、艀の方に駆けて行く。
離れる艀の上で手を振った。大狼はどうしようもなく手を振り返し、そのまま困って頭を掻いた。
「どなたからも好かれるのね、風嵐の大狼さま」
稀於がちくりと言った。
大狼は、ますます髪の毛をかきまわし、
「佐巣らしい冗談さ。ああいう男なんだ」
「それだけじゃないわよ。鈍感な人」
稀於はふいと横を向いた。
「でもまあ、おれとしては嬉しいと言っておこう」
大狼は、稀於の顔をのぞきこみ、にっと歯をむきだした。
「稀於どのが、そんなふうに思ってくれるのは」
稀於は何か言いかけたが、ついには笑い声を上げた。
「まあいいわ」
二人は、船のよく見える高台に歩き出した。
佐巣たちの艀は、もう船に横づけになっていた。帝国船が、次々と帆を広げていく。
真上の太陽は、痛いほどの眩しさだ。
ふいに琵琶の音が聞こえてきたので、大狼はびくりとした。
稀於と顔を見合わせる。
港の広場にいたのは、まだ少年っぽい面影が残る若い琵琶弾きだった。津木に来ている旅芸人のひとり。側には、二三の人間が聞き耳をたてていた。
覚えたての曲なのかもしれない。気まじめな顔で必死に弾いている。音は硬かったが、好感はもてた。
大狼はその曲を知っていた。立ち止まったままつぶやいた。
「羽白の曲だ」
「羽白の?」
「降樹の鶴の曲さ。羽白が創った。おれたちがはじめて会ったのは、そこだった」
昨日のことのように情景が甦った。
凍てつく冬の湿原に身をひそめて、羽白は丹頂を見つめ続けていたっけ。ただひとつの曲を創るためにだけ。何日も何日も。
「会いたいでしょう、大狼さま」
「いつか会えるさ」
大狼は微笑んだ。
羽白は根っからの旅芸人なのだ。放浪こそ、彼の愛してやまぬもの。身体さえ癒えれば、また諸国を経めぐり、いずれ風嵐にも姿を見せてくれるにちがいない。
そして羽白の曲は、何十年、何百たっても、別の琵琶弾きたちに弾き継がれることだろう。たとえ誰が作ったかわからないにしても。
大狼と稀於は斜面を登りきり、浜を見下ろす崖に立った。
水平線が高く迫ってくる。帆に風をはらんだ帝国の船は、きらめく海の上でしだいしだいに小さくなっていた。
風が大狼の髪をあおりたてた。大狼は、ぐいと前髪を掻きあげて言った。
「〈帝国〉に行ってみたいが、おれの代では無理だろうな」
「呑気な人ね。〈帝国〉の主が、大那との和睦を承知するとは限らないのよ」
「今度はおれたちも無防備のままじゃない。それに、一国の主ともなれば愚かじゃないよ。交易か戦争か、どちらが得かはわかるだろうさ」
「そう願いたいものだけど」
「おれたちの子供の時代には、大那と〈帝国〉がきっと自由に行き来していると思う」
「おれたちの?」
稀於は、感にさわったように眉を上げた。
「ああ、おれたちの子だよ」
大狼は、悪怯れもせずに答えた。
「言っておきますけど、わたしは今の舞波を放っておいて、〈狼〉になることなんてできないわ」
「〈蛇〉のままでいいさ。子供は二人以上がいいな。〈狼〉と〈蛇〉に分ければ問題はない。〈蛇〉の子が一人前になったら、その時はあなたに風嵐に来てもらう」
「簡単に言うわね」
稀於はため息をついた。
「生まれなかったらどうするのよ」
「べつに、自分の子でなくともいい。後を託せる子供たちなら」
大狼は、大きく深呼吸して両手を広げた。
「世界は広がる。地霊はもう衰えることはない。〈帝国〉で足りなかったら、もっと先へ進めばいいんだ。子供たちの、そのまたずっと先の子供たちは、星までも行っているかもしれないぜ」
「みんな、あなたのような人だったらね」
稀於はあきれたように言い、肩をすくめた。
「〈蛇〉の方は、もっと落ちつきある子に育てることにするわ」
大狼は、はっと動きを止めた。
「じゃあ?」
稀於はくすりと笑った。
「子狼は、そうもいかないかも」
稀於は、目を細めて海を見やった。
帝国の船は、もう風嵐島の彼方にある。陽にきらめく海の光の中に、見えなくなってしまいそうだ。
船が遠ざかるだけ、未来は広がっていく。
「ほんとうに、行ければいいのにね」
「行けるよ」
大狼は、稀於に手を差し出した。
「どこまでもさ」




