18
「竹、竹、竹。凄いばかりの竹林だったの」
稀於が言った。
「竹が覆いかぶさってくるような斜面の下に小屋があって、羽白はそこにいたわ」
声をかけても返事はなかった。
稀於はそっと引き戸を開けた。
土間だけの狭い小屋だった。戸口近くには古い水瓶と、最小限の炊事道具。
奥には一人分の寝藁が敷いてあり、小屋の主人は中央に切った炉の前にひっそりと座っていた。
琵琶は袋に入ったまま、壁に立てかけてあった。風が強く、小屋の外から海鳴りのような竹葉のどよめきが聞こえていた。
稀於は、もう一度羽白の名を呼んだ。
羽白は、顔を上げた。明かり取りの窓がひとつあるだけの小屋は薄暗かった。稀於に羽白の表情は見えなかったが、羽白は稀於と認めたようだ。
「稀於さま」
「よかった」
稀於は、ささやいた。
「ようやく会えたわ」
身体の力が全部抜けていくようだった。だが、安心するのはまだ早い。なぜ自分がここに来たのかを話さなければ。
大那のゆくすえは、羽白の琵琶に委ねられていることを伝えなければ。
「なぜ、ここへ?」
稀於は小屋の入り口に座り込み、何から話すべきか考えた。結局、一番はじめに出た言葉は、羽白への問いだった。
「琵琶弾きをやめたって聞いた。本当なの?」
答える代わりに、羽白は黙ってうつむいた。
「でも、まだ琵琶を持っている」
羽白は小さく息をはき出した。
「そのようです。未練がましく」
「なにがあったの?」
「目のせいです」
短い沈黙の後、羽白はぽつりと言った。
「目?」
稀於は羽白に近づき、はっとした。伏せたまつげの陰からのぞく羽白の瞳は、はっきりとした紫色に変わっている。
大那に地霊が溢れていたころ、龍の一門はみな紫色の瞳をしていたという。やがて地霊は衰え、〈龍〉の瞳から紫は消え、彼らは滅びたのだった。
「地霊のせい?」
〈龍〉の裔である羽白の瞳に紫が戻るほど、地霊が増えているのだ。
稀於は、ぞくりとした。それだけ、多くのものが命を失っている。
「昨春くらいから、いっきに地霊が衰えました」
羽白は骨ばった長い両指を組み合わせ、苦しげに目を閉じた。
「自分でも、身体が弱っていくのがわかりました。この年は越せないだろうと、覚悟はしていた」
だが、地霊は再び増えた。重なる天災と飢饉と悪病と。
羽白は死をまぬがれた。
「羽白」
「人が死にすぎています。わたしは、数えきれないほどの霊鎮めをしました。そして、そのたびに力が戻るのを感じた。他の人間が命を落とせば、それだけわたしの寿命は延びていくわけです」
羽白は、首を振った。
「自分が、とんでもない化物のように思えてくる」
「まさか。そんなこと、考えないで」
稀於は、夢中で言った。
「あなたが苦しむことはない。大那をこんなふうにしているのは〈大主〉なの」
「〈大主〉?」
「手白香の神官たちは、老い衰えた大那を再生させようと〈大主〉を呼び覚ました。再生のためには、多くのものを地霊に還す必要があったのよ。たぶん、異人の襲来がきっかけになったのだと思う。神官たちは、異人を追い払うと同時に、大那のよみがえりに賭けたんだわ」
稀於は、手白香で大狼が見たことを羽白に話した。大神官の霊が鎌に伝えたことも残らずに。
羽白は、顔を上げて稀於の話を聞いていた。沈んでいたその表情が、だんだんと張りつめたものになってくるのがわかった。膝の上で、羽白のこぶしが静かに握りしめられていた。
〈大主〉を鎮めることはみなの願いだが、羽白自身のためでもあるのだと稀於は思った。羽白は彼の抱く罪悪感から開放される。また琵琶を弾きつづけることができるだろう。
「いまの大那を救えるのはあなただけなの」
稀於は、羽白を見つめた。
「琵琶を弾いて」
羽白は眉根をよせ、黙り込んだ。
大狼がいたらどうするだろうと稀於は思った。もっと羽白を励まして、琵琶を弾かせようとするだろうか。それとも、必死に頼み込むだろうか。
いや、おそらく大狼はじっと待っている。
羽白の決心を信じて待っているはずだ。
稀於も待った。
羽白は目を閉じていた。
ゆっくりと息を吐き、立ち上がった。
「羽白」
羽白は琵琶に歩み寄り、ためらいがちに手に取った。
「やれるだけやってみましょう」
自分に言い聞かすように、羽白はつぶやいた。
「それが償いになるのなら」
羽白は、琵琶を手にしたまま小屋の外に出た。
外は、みごとな竹林だ。凛々と伸びた青い竹が、高く曇天を圧している。根元には雪が白く凍りついていた。
羽白は、暗い空を仰いだ。
風が彼のやわらかな髪をひるがえした。竹の葉のどよめきが、いっそう強まった。
小屋近くの、雪のない地面の上に羽白は腰を下ろした。琵琶を抱え直し、息を整えている。
羽白はゆっくりした動作で転手を動かした。右手は同時に弦をすべり、低い、深みのある音が弾き出された。
一瞬、風の音さえ静まったかに思われた。
羽白の指は弦を掻き鳴らす。
琵琶の音はしだいに高く、ゆるやかなうねりをもって空に響いた。
稀於は小屋の前に立ちつくし、羽白の琵琶の音を聞いていた。
風にしなう竹の葉のどよめきは、いつしか琵琶の音とひとつになっていた。聞こえているのは風の音なのか琵琶の音なのか、それすらもわからなくなってしまう。深い海鳴りの中に身を浸しているような気分になってくる。
と思ったとたん、まわりの光景が一変した。羽白の小屋も竹林も消えていた。あるのは渺々とひろがる大海原だ。
羽白はその大海を見下ろすようにして琵琶を弾き続けている。
羽白は、琵琶の曲で幻を見せる幻曲師。これは、羽白の琵琶が紡ぐ幻だ。
空は暗かった。海も鉛色で、油のようにとろりと凪いでいた。
その一ヶ所に、ほんの小さな波紋が生まれた。ひとつ、ふたつ。
波紋はいくつも重なり合い、ひろがった。波が立ち、やがて大きな渦をまきはじめた。
渦の底から、黒ぐろとしたものが隆起する。
それは、しだいしだいに全容を現した。黒褐色の巨大な島。
これは、大那の創世だ。
稀於は悟った。
羽白は大那創世の曲を弾いている。
陸のまわりで、波が激しく泡立っていた。
海は二つに裂けて見えた。と同時に空の雲も割れ、まぶしい陽の光がほとばしった。
海が明るく輝いた。
地肌をむきだしにした生まれたての大陸は、みるみる緑を芽吹きはじめた。芽生えているのは植物ばかりではない。人間を含めたあらゆる動物も、地霊から霊を与えられ、育とうとしている。
稀於は、羽白の弾く壮大な幻に見入っていた。羽白は太古の地霊を奏でている。大那に生きるすべてのものの命の源である地霊を。
若い木々のこずえから、小鳥の群れが飛び立った。澄んだ川の流れに魚が背を見せ、青草を踏みしめて来た雌鹿が、しなやかな首を垂れて水を飲んだ。
地霊も生命も満ち溢れていた美しい大那。
琵琶の音は、一転して訴えるような激しい調べに変わっていった。
稀於には、羽白が訴えていることがわかった。稀於もまた、同じ気持ちであったから。
なぜ多くのものが死ななければならなかったのか。再生のためだとはいえ、あまりに傲慢すぎるやり方だ。
羽白は挑んでいた。
神官たちが地霊の化身としている〈大主〉を、怒りを込めてこの場に呼び出そうとしていた。
その時突風が吹いて、吹きちぎれた竹の葉がびしびしと稀於にぶつかった。稀於は思わず顔をおおった。
視線をもどした時、幻は消えていた。羽白の側に、一人の少年が座っているのを見た。
美しい面立ち、羽白と同じ紫色の目の。
少年は羽白と見合っていた。
「そう怒るな」
少年は言った。
「わたしも、そろそろ頃合いだと思っていたところだ」
「〈大主〉?」
「呼ばれているだけだ。もともとは〈龍〉さ。その昔の荒霊を封じていた。長く手白香で眠っているうちに、地霊と深く結びつきすぎたようだ」
「なぜ、こんなことを」
「大那は老い衰えていた。わたしも、大那とともに終焉をむかえるはずだった。だが、神官たちはそうさせてくれなかった。彼らの血と霊をかけて、わたしを揺さぶり起こした」
少年は、淡々と語った。
「わたしの中の荒霊は、存分に力をふるった。あとは、この通りだ。神官たちの望み通りに地霊は増えた。もう充分だろう。わたしも地霊に還りたい。神官が、おまえを見つけていたのは幸いだった」
「わたしは、あなたを鎮めるために生きてきたつもりはないのだが」
「めぐりあわせだ、羽白。わたしとて、好きで〈龍〉に生まれたわけではない」
〈大主〉はちょっと笑った。
「ようやく自由になれる。弾いてくれ、霊鎮めの琵琶を」
羽白は素直にうなずき、琵琶を抱え直した。
羽白の指が弦にかかった。琵琶の音が、再び竹林を満たし始める。
羽白の即興なのだろうと稀於は思った。自在に繰り出されている音は、羽白の思いすべてだ。彼もまた、〈龍〉から解き放たれたいに違いない。
風が静まったような気がした。まわりの光景がおぼろになった。突如として、龍が現れた。
稀於は、唖然として目の前の龍を眺めた。羽白の琵琶が見せる幻だとしても、あまりに生き生きとした龍だった。
頭だけでも、人間の身体の数倍はあった。その頂に生えた二本の角は、びっしりと苔をはりつかせた老木のようだった。
水草をからみつかせた剛い金色のたてがみ。大きく裂けた口はなかばめくれあがり、鋭い牙と赤い舌を見せていた。鮮やかな紫色の瞳は底に深い知性をたたえ、ゆっくりとまばたきをくりかえす。
龍は、おそろしく長い胴をくねらせて、地面すれすれのところを飛んでいる。手を伸ばせばとどきそうなほどの間近さだ。
やがて龍は首をもたげ、天に向かって上昇した。
龍の去った後から、一群れの獣が現われた。長い銀色の美しい毛並み。馬のような肢体だが、大きさは鹿ほどしかない。額には、真珠色の一本の角。
これは、麒麟にちがいない。稀於が、伝説にだけ聞いていた生きものだ。
駆け抜ける麒麟の後に来たものは、美しい女の上半身と鳥の半身を持つ迦陵頻伽だ。大きな翼と鳥の足を踊るように動かしてさざめきあっている。
それからは、青い目の人魚、純白に輝く毛並みの虎、七色の翼を持った大鳥や、猫ほどの大きさの寄生龍。全身を緋色の毛でおおわれている大男たちもいた。
みんな、大那から消えたか、消えようとしている霊的な生きものだ。
羽白は、大那の過去のものたちとともに〈大主〉を鎮めようとしているのだ。
獣たちがひとしきり現われては消えた後、次に来たのは人間の一団だった。背に翼を生やし、飛んでいる者たちがいる。〈龍〉より早く滅んだという鳳凰の一門か。羽白たちと同じ、鮮やかな紫色の瞳をした龍の一門が歩んでいる。
〈大主〉はゆっくりと立ち上がり、そちらに向かって歩き出した。いつのまにか〈大主〉の側には、長身の若い女性が寄り添っていた。彼らは、優しげに微笑みかわし、その姿はしだいに薄れていった。
琵琶の音はやんだ。
竹のどよめきがよみがえった。
稀於は、はっと我に返った。
羽白が琵琶を抱えたまま、力つきて倒れている。




