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風の狼  作者: ginsui


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18/19

18

「竹、竹、竹。凄いばかりの竹林だったの」

 稀於が言った。

「竹が覆いかぶさってくるような斜面の下に小屋があって、羽白はそこにいたわ」

 声をかけても返事はなかった。

 稀於はそっと引き戸を開けた。

 土間だけの狭い小屋だった。戸口近くには古い水瓶と、最小限の炊事道具。

 奥には一人分の寝藁が敷いてあり、小屋の主人は中央に切った炉の前にひっそりと座っていた。

 琵琶は袋に入ったまま、壁に立てかけてあった。風が強く、小屋の外から海鳴りのような竹葉のどよめきが聞こえていた。

 稀於は、もう一度羽白の名を呼んだ。

 羽白は、顔を上げた。明かり取りの窓がひとつあるだけの小屋は薄暗かった。稀於に羽白の表情は見えなかったが、羽白は稀於と認めたようだ。

「稀於さま」

「よかった」

 稀於は、ささやいた。

「ようやく会えたわ」

 身体の力が全部抜けていくようだった。だが、安心するのはまだ早い。なぜ自分がここに来たのかを話さなければ。

 大那のゆくすえは、羽白の琵琶に委ねられていることを伝えなければ。

「なぜ、ここへ?」

 稀於は小屋の入り口に座り込み、何から話すべきか考えた。結局、一番はじめに出た言葉は、羽白への問いだった。

「琵琶弾きをやめたって聞いた。本当なの?」

 答える代わりに、羽白は黙ってうつむいた。

「でも、まだ琵琶を持っている」

 羽白は小さく息をはき出した。

「そのようです。未練がましく」

「なにがあったの?」

「目のせいです」

 短い沈黙の後、羽白はぽつりと言った。

「目?」

 稀於は羽白に近づき、はっとした。伏せたまつげの陰からのぞく羽白の瞳は、はっきりとした紫色に変わっている。

 大那に地霊が溢れていたころ、龍の一門はみな紫色の瞳をしていたという。やがて地霊は衰え、〈龍〉の瞳から紫は消え、彼らは滅びたのだった。

「地霊のせい?」

 〈龍〉の裔である羽白の瞳に紫が戻るほど、地霊が増えているのだ。

 稀於は、ぞくりとした。それだけ、多くのものが命を失っている。

「昨春くらいから、いっきに地霊が衰えました」

 羽白は骨ばった長い両指を組み合わせ、苦しげに目を閉じた。

「自分でも、身体が弱っていくのがわかりました。この年は越せないだろうと、覚悟はしていた」

 だが、地霊は再び増えた。重なる天災と飢饉と悪病と。

 羽白は死をまぬがれた。

「羽白」

「人が死にすぎています。わたしは、数えきれないほどの霊鎮めをしました。そして、そのたびに力が戻るのを感じた。他の人間が命を落とせば、それだけわたしの寿命は延びていくわけです」

 羽白は、首を振った。

「自分が、とんでもない化物のように思えてくる」

「まさか。そんなこと、考えないで」

 稀於は、夢中で言った。

「あなたが苦しむことはない。大那をこんなふうにしているのは〈大主〉なの」

「〈大主〉?」

「手白香の神官たちは、老い衰えた大那を再生させようと〈大主〉を呼び覚ました。再生のためには、多くのものを地霊に還す必要があったのよ。たぶん、異人の襲来がきっかけになったのだと思う。神官たちは、異人を追い払うと同時に、大那のよみがえりに賭けたんだわ」

 稀於は、手白香で大狼が見たことを羽白に話した。大神官の霊が鎌に伝えたことも残らずに。

 羽白は、顔を上げて稀於の話を聞いていた。沈んでいたその表情が、だんだんと張りつめたものになってくるのがわかった。膝の上で、羽白のこぶしが静かに握りしめられていた。

 〈大主〉を鎮めることはみなの願いだが、羽白自身のためでもあるのだと稀於は思った。羽白は彼の抱く罪悪感から開放される。また琵琶を弾きつづけることができるだろう。

「いまの大那を救えるのはあなただけなの」

 稀於は、羽白を見つめた。

「琵琶を弾いて」

 羽白は眉根をよせ、黙り込んだ。

 大狼がいたらどうするだろうと稀於は思った。もっと羽白を励まして、琵琶を弾かせようとするだろうか。それとも、必死に頼み込むだろうか。

 いや、おそらく大狼はじっと待っている。

 羽白の決心を信じて待っているはずだ。

 稀於も待った。

 羽白は目を閉じていた。

 ゆっくりと息を吐き、立ち上がった。

「羽白」

 羽白は琵琶に歩み寄り、ためらいがちに手に取った。

「やれるだけやってみましょう」

 自分に言い聞かすように、羽白はつぶやいた。

「それが償いになるのなら」


 羽白は、琵琶を手にしたまま小屋の外に出た。

 外は、みごとな竹林だ。凛々と伸びた青い竹が、高く曇天を圧している。根元には雪が白く凍りついていた。

 羽白は、暗い空を仰いだ。

 風が彼のやわらかな髪をひるがえした。竹の葉のどよめきが、いっそう強まった。

 小屋近くの、雪のない地面の上に羽白は腰を下ろした。琵琶を抱え直し、息を整えている。

 羽白はゆっくりした動作で転手を動かした。右手は同時に弦をすべり、低い、深みのある音が弾き出された。

 一瞬、風の音さえ静まったかに思われた。

 羽白の指は弦を掻き鳴らす。

 琵琶の音はしだいに高く、ゆるやかなうねりをもって空に響いた。

 稀於は小屋の前に立ちつくし、羽白の琵琶の音を聞いていた。

 風にしなう竹の葉のどよめきは、いつしか琵琶の音とひとつになっていた。聞こえているのは風の音なのか琵琶の音なのか、それすらもわからなくなってしまう。深い海鳴りの中に身を浸しているような気分になってくる。

 と思ったとたん、まわりの光景が一変した。羽白の小屋も竹林も消えていた。あるのは渺々とひろがる大海原だ。

 羽白はその大海を見下ろすようにして琵琶を弾き続けている。

 羽白は、琵琶の曲で幻を見せる幻曲師。これは、羽白の琵琶が紡ぐ幻だ。

 空は暗かった。海も鉛色で、油のようにとろりと凪いでいた。

 その一ヶ所に、ほんの小さな波紋が生まれた。ひとつ、ふたつ。

 波紋はいくつも重なり合い、ひろがった。波が立ち、やがて大きな渦をまきはじめた。

 渦の底から、黒ぐろとしたものが隆起する。

 それは、しだいしだいに全容を現した。黒褐色の巨大な島。

 これは、大那の創世だ。

 稀於は悟った。

 羽白は大那創世の曲を弾いている。

 陸のまわりで、波が激しく泡立っていた。

 海は二つに裂けて見えた。と同時に空の雲も割れ、まぶしい陽の光がほとばしった。

 海が明るく輝いた。

 地肌をむきだしにした生まれたての大陸は、みるみる緑を芽吹きはじめた。芽生えているのは植物ばかりではない。人間を含めたあらゆる動物も、地霊から霊を与えられ、育とうとしている。

 稀於は、羽白の弾く壮大な幻に見入っていた。羽白は太古の地霊を奏でている。大那に生きるすべてのものの命の源である地霊を。

 若い木々のこずえから、小鳥の群れが飛び立った。澄んだ川の流れに魚が背を見せ、青草を踏みしめて来た雌鹿が、しなやかな首を垂れて水を飲んだ。

 地霊も生命も満ち溢れていた美しい大那。

 琵琶の音は、一転して訴えるような激しい調べに変わっていった。

 稀於には、羽白が訴えていることがわかった。稀於もまた、同じ気持ちであったから。

なぜ多くのものが死ななければならなかったのか。再生のためだとはいえ、あまりに傲慢すぎるやり方だ。

 羽白は挑んでいた。

 神官たちが地霊の化身としている〈大主〉を、怒りを込めてこの場に呼び出そうとしていた。

 その時突風が吹いて、吹きちぎれた竹の葉がびしびしと稀於にぶつかった。稀於は思わず顔をおおった。

 視線をもどした時、幻は消えていた。羽白の側に、一人の少年が座っているのを見た。

 美しい面立ち、羽白と同じ紫色の目の。

 少年は羽白と見合っていた。

「そう怒るな」

 少年は言った。

「わたしも、そろそろ頃合いだと思っていたところだ」

「〈大主〉?」

「呼ばれているだけだ。もともとは〈龍〉さ。その昔の荒霊を封じていた。長く手白香で眠っているうちに、地霊と深く結びつきすぎたようだ」

「なぜ、こんなことを」

「大那は老い衰えていた。わたしも、大那とともに終焉をむかえるはずだった。だが、神官たちはそうさせてくれなかった。彼らの血と霊をかけて、わたしを揺さぶり起こした」

 少年は、淡々と語った。

「わたしの中の荒霊は、存分に力をふるった。あとは、この通りだ。神官たちの望み通りに地霊は増えた。もう充分だろう。わたしも地霊に還りたい。神官が、おまえを見つけていたのは幸いだった」

「わたしは、あなたを鎮めるために生きてきたつもりはないのだが」

「めぐりあわせだ、羽白。わたしとて、好きで〈龍〉に生まれたわけではない」

 〈大主〉はちょっと笑った。

「ようやく自由になれる。弾いてくれ、霊鎮めの琵琶を」

 羽白は素直にうなずき、琵琶を抱え直した。

 羽白の指が弦にかかった。琵琶の音が、再び竹林を満たし始める。

 羽白の即興なのだろうと稀於は思った。自在に繰り出されている音は、羽白の思いすべてだ。彼もまた、〈龍〉から解き放たれたいに違いない。

 風が静まったような気がした。まわりの光景がおぼろになった。突如として、龍が現れた。

 稀於は、唖然として目の前の龍を眺めた。羽白の琵琶が見せる幻だとしても、あまりに生き生きとした龍だった。

 頭だけでも、人間の身体の数倍はあった。その頂に生えた二本の角は、びっしりと苔をはりつかせた老木のようだった。

 水草をからみつかせた剛い金色のたてがみ。大きく裂けた口はなかばめくれあがり、鋭い牙と赤い舌を見せていた。鮮やかな紫色の瞳は底に深い知性をたたえ、ゆっくりとまばたきをくりかえす。

 龍は、おそろしく長い胴をくねらせて、地面すれすれのところを飛んでいる。手を伸ばせばとどきそうなほどの間近さだ。

 やがて龍は首をもたげ、天に向かって上昇した。

 龍の去った後から、一群れの獣が現われた。長い銀色の美しい毛並み。馬のような肢体だが、大きさは鹿ほどしかない。額には、真珠色の一本の角。

 これは、麒麟にちがいない。稀於が、伝説にだけ聞いていた生きものだ。

 駆け抜ける麒麟の後に来たものは、美しい女の上半身と鳥の半身を持つ迦陵頻伽だ。大きな翼と鳥の足を踊るように動かしてさざめきあっている。

 それからは、青い目の人魚、純白に輝く毛並みの虎、七色の翼を持った大鳥や、猫ほどの大きさの寄生龍。全身を緋色の毛でおおわれている大男たちもいた。

 みんな、大那から消えたか、消えようとしている霊的な生きものだ。

 羽白は、大那の過去のものたちとともに〈大主〉を鎮めようとしているのだ。

 獣たちがひとしきり現われては消えた後、次に来たのは人間の一団だった。背に翼を生やし、飛んでいる者たちがいる。〈龍〉より早く滅んだという鳳凰の一門か。羽白たちと同じ、鮮やかな紫色の瞳をした龍の一門が歩んでいる。

 〈大主〉はゆっくりと立ち上がり、そちらに向かって歩き出した。いつのまにか〈大主〉の側には、長身の若い女性が寄り添っていた。彼らは、優しげに微笑みかわし、その姿はしだいに薄れていった。

 琵琶の音はやんだ。

 竹のどよめきがよみがえった。

 稀於は、はっと我に返った。

 羽白が琵琶を抱えたまま、力つきて倒れている。


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