第三十一幕 怒りの天雷
(べ、紅牙さん……!? そんな……!!)
春日山城の三の丸跡。燃え盛る灰で出来た巨大な人型の上級妖魔……煙々羅と、綾御前の救援にやってきた風魔忍者……加藤段蔵の超常的な戦いに巻き込まれないよう『真言界壁』を張り続けていた妙玖尼だが、その彼女の視界の先に信じられないような光景が飛び込んできた。
段蔵より遅れてこの場に馳せ参じた二人の仲間……紅牙と伽耶。彼女らの姿を認め、妙玖尼は安堵と共に嬉しさも感じた。やはり彼女らは自分の危機に駆けつけてくれた。
二人は超常の戦いに巻き込まれることを厭うたのか、煙々羅ではなくそこから少し離れた位置で督戦していた鬼武士……彦五郎を相手取ることに決めたらしい。鬼武士も十分厄介な敵ではあるので、それは正しい判断であった。……そう思っていた。
目を疑う様な光景が起きたのはここからだ。何故か彦五郎の顔を見た紅牙が激しく動揺して固まったのだ。いつも豪胆な彼女らしからぬ挙動であった。彼等は短く言葉のやり取りをしていたが、生憎距離があり、尚且つより近くで煙々羅と段蔵が激しく戦っているため、内容までは聞き取れなかった。
伽耶の援護で一旦は持ち直したかに見えた紅牙だが、彦五郎の強さは想像以上で、あの紅牙が全く相手にならない程であった。それでも伽耶が援護に徹することが出来ればまだ戦いようはあったかも知れないが、なんと彦五郎はまだ奥の手を隠し持っており、煙々羅の時よりはやや小さい『瘴気石』を再び砕き割ると、そこから骨に肉片がこびり付いた馬の腐乱死体のような悍ましい妖魔が出現した。
あれは馬骨という中級に属する妖魔だ。馬骨は恐ろしい嘶きを上げて伽耶に襲い掛かる。中級妖魔は彼女一人の手には余る。忽ちのうちに馬骨の相手に掛かりきりになる伽耶。
そして後方支援を失った紅牙は抵抗むなしく、彦五郎によってあっさりと気絶させられてしまう。奴は何故か紅牙を殺さなかった。そして伽耶を一方的に攻め立てていた馬骨を呼び戻すと、戦場から離脱していってしまった。……意識を失った紅牙を抱えたまま。
紅牙が……妙玖尼の相棒が敵に連れ去られてしまったのだ。そしてその間妙玖尼自身は何もできず、彼女が連れ去られるのを黙って見ているしかなかった。
「…………」
その時妙玖尼の心に湧き上がったのは悔悟や焦燥ではなく……猛烈な怒りだった。相棒の危機に何もできなかった自分への怒り。そして勿論彼女を連れ去った彦五郎への怒り。そして……目の前で、彼女が紅牙を助けに行くことが出来なかった要因を作っている邪魔な存在への怒りだ。
「景虎様……申し訳ありませんが、今よりこの結界を解除します。宜しいですね?」
「……っ。う、うむ、こちらはもう大丈夫だ。段蔵の奴が妖魔を引きつけているしな」
妙玖尼の静かな怒りを感じ取ったらしい景虎が、若干顔を引き攣らせて頷く。景虎も紅牙が連れ去られる光景は目にしていたらしく、妙玖尼の怒り自体は理解している様子であった。
「な、何だと!? せめて援軍が来るまで……もご!?」
「政景殿、ここは何も言わぬが吉ですぞ」
臆病な政景が目を剥いて何か言い募ろうとするが、幸いというか横にいた定満が空気を読んで、彼の口を塞いで押し留めた。良い判断だ。この期に及んで彼女の邪魔をしていたら、口を塞ぐ代わりにその脳天に錫杖が叩きつけられていただろう。
それを解っているらしい綾御前は余計な口を挟まずに黙っていたが、その目は冷徹な光を湛えて妙玖尼に向けられていた。
それらの反応に構わず妙玖尼は、宣言通り『真言界壁』を解除した。これを張り続けていたが故に、今まで何もできなかったのだ。
障壁を解除した事によって忽ち戦闘の余波による衝撃や、煙々羅が常時発している炎による熱波が一気に押し寄せてきた。
「うひぃぃぃぃっ!! あ、熱い! 熱いぃぃぃっ!!!」
「ち、近くにいるだけで焼死しかねん。これが上級妖魔か……!」
次の瞬間には情けない悲鳴を上げてのた打ち回る政景を引きずりつつ、自身も苦しそうな様子で顔を顰めながら必死で煙々羅から距離を取る定満。
障壁を解いた妙玖尼の元にも当然熱波が襲い来るが、彼女は丹田に力を籠め全身に法力を漲らせて、妖魔の邪気による熱波を暑い空気が吹き付けた程度の侵害に抑える。しかし上級妖魔の力は伊達ではない。妙玖尼も一対一では到底勝ち目はないが、幸いというか今は段蔵が奴の注意を引きつけてくれているので、彼女は攻撃用の法術に専念できる状況だ。
『……!』
だが『真言界壁』が解かれた事に、煙々羅も気づいた様子であった。奴が元々命じられていたのは景虎や綾御前たちの抹殺だ。邪魔な障壁が無くなり、今なら景虎たちを殺すことが出来る。加えてその障壁を張っていた退魔師の尼僧が、妖魔にとっては極めて不快で忌まわしい力を練り上げて、何かをしようとしている事も感じ取っていた。
あれは自分にとっても危険だ。本能でそれを確信した煙々羅は、まずその脅威を排除しようと、今まで戦っていた段蔵を無視して妙玖尼に一直線に迫っていく。
上級妖魔に直接襲われたら妙玖尼だけでは太刀打ちできない。ましてや今は大技を発動しようと法力を集中させている無防備な状態である。
「妙玖尼殿!? くっ……!」
それを見て取った景虎は歯噛みしつつ、妙玖尼を守ろうと薙刀を構えて妖魔の前に躍り出ようとする。だが如何に景虎でも単身で上級妖魔の相手をするには荷が重すぎる。しかも事が始まって以降、妙玖尼は『真言界壁』に掛かりきりだったため、景虎の武器に『破魔纏光』を掛けている余裕が無かった。
その状態で上級妖魔を相手取るなど、はっきり言えば自殺行為であった。そして当然彼女のそんな自殺行為を黙って見過ごすはずがない人物がいた。
「段蔵! 私は大丈夫なので、あの尼僧を守りなさい!」
「……!! 姉上!?」
やはり煙々羅の放つ熱波に当てられて、苦しげに膝を着いて喘ぎながらもそう指示を飛ばすのは、景虎の姉である綾御前であった。その命令を聞いた段蔵は咄嗟に綾御前の守護に回ろうとしていたのを中断して、煙々羅と妙玖尼の間に素早く割り込んで彼女を妖魔の攻撃から守護する。
出遅れた景虎はそれを呆然と見守るしかない。そんな彼女に後ろから綾御前の声が掛かる。
「景虎……あなたはただの武士ではないのですよ? 軽々しく自身の命を捨てるような行為は慎みなさい。あなたの悪い癖です。あの尼僧を守る為にあなたが命を懸けるなど本末転倒もいい所です」
「……っ」
姉の冷徹な指摘に何も言い返せず唇を噛みしめる景虎。基本的に自身が現地や前線に出たがる景虎は大名として越後国、曳いては多くの武家や民の命運を預かる立場の者として自覚が足りないと言われても仕方がなかった。信濃でもそれで鎌鼬に襲われ窮地に陥ったのだ。
一方で自分の後ろでそんな姉妹の会話が為されている事にも殆ど気づかず、妙玖尼は今や一心不乱に法術を練り上げていた。綾御前の命令で段蔵が割って入ってくれた事は理解していたので、そこからは完全に法術にのみ意識を集中させていたのだ。
(紅牙さん……待っていて下さい。必ずあなたを助け出してみせます)
わざわざ生かしたまま連れ去られたという事は、少なくともすぐに殺されてしまうという事もないはずだった。紅牙は今や妙玖尼にとって、単に仕事上の相棒という以上の存在であった。絶対に彼女を救い出すという強い想いは、妙玖尼にかつてない法術の冴えをもたらした。
練り上げた法術の力が頂点まで達したと確信した時、彼女の目がカッと見開かれた。
『オン・マユラギランデイ・ソワカッ!!』
彼女が錫杖を掲げて真言を唱えた瞬間、空が白く塗りつぶされた。妙玖尼が現在使える法術で最強の威力を誇る『孔雀天雷』の術。それも充分に法力を練り上げ、紅牙を救い出すという使命感から過去最高ともいえる精度まで集中を高めたもの。
自然の天候を無視して出現した小規模の雷雲から凄まじいまでの落雷が幾条も発生し、それらが一斉に煙々羅の灰の巨体に降り注いだ!
『オオオオォォォォォォォォォォォォッ!!!!』
耳をつんざくような雷鳴と、聞くに堪えないような断末魔の咆哮が重なり、景虎や綾御前を含めたその場にいる殆どの人間が思わず耳を塞いで蹲った。段蔵だけは術の発動を見越して咄嗟に安全な距離まで退避していたが。
そして雷光と雷鳴が収まったあと、目を閉じ耳を塞いでいた人々はそれを解いて……同じように一様に驚きで目を瞠った。
そこには凄まじい落雷によって大きく抉れて焼き焦げた地面が、未だに煙を上げている光景のみが広がっていた。恐ろしい威容を誇っていた燃え盛る灰の巨人は、跡形もなく消滅していたのだった。
勿論煙々羅が事前に段蔵との戦いで傷ついていたのもあるが、それを差し引いてもなお恐ろしいまでの威力は、今の妙玖尼の怒りと決意を誰よりも雄弁に物語っているかのようであった……




