第三十幕 悪鬼蹂躙
春日山城の三の丸御殿。景虎やその重鎮たちを狙った妖魔による襲撃によって、今や三の丸御殿は破壊され尽くしていた。上級妖魔たる煙々羅の襲撃自体は、救援に駆けつけた加藤段蔵……『風魔の飛び加藤』によって食い止めることが出来ていたが、そこに遅れて駆けつけたのが紅牙と伽耶の二人であった。
紅牙は伽耶と共に、煙々羅をけしかけたと思しき鬼武士に斬りかかろうとして……その男が、かつて自分が刺殺したはずの『許嫁』、国分彦五郎であることに気付いて驚愕のあまり固まってしまった。
「そ、そんな……何で……。あ、あんたは、死んだはずじゃ……?」
呆然と問いかける紅牙に、彦五郎はその鬼の面貌を歪ませる。
『死んだことを確認したか? 咄嗟に避けることで僅かに急所を逸らせたのだ。しかし動ける状態ではなかった故、そのまま死んだふりを続けた方がいいと判断してな。案の定お前は禄に俺の死を改める事もなく慌てふためいて逃げ去った。尤も逃げた事自体は正解だったぞ? そのままなら家人たちに捕らえられて打ち首獄門は免れなかったであろうからな!』
「……ッ!」
告げられた事実に動揺する紅牙。彼女はあの時殺人を犯した訳ではなかったのだ。だがいみじくも彦五郎自身が言っているように、あの凶行に及んだ時点でどのみち打ち首は免れなかっただろうから、逃亡自体を悔やむことはせずに済んだ。
『しかし……よもやこんな所で貴様と再会しようとはなぁ、沙雪。ここで会ったが百年目という物。俺に重傷を負わせただけでなく、『初夜の場で女に刺された男』という不名誉まで負わせてくれた貴様の顔を忘れたことは一日たりとて無かったぞ。その恨みを直接晴らす機会が巡ってこようとは、晴景様に付いた甲斐があったというものだ』
「……! この……ふさけんじゃ、ないよ!」
復讐の夢想に浸る彦五郎の、鬼の面貌が喜悦に歪む。その外見からして明らかだが奴は晴景、そしてその裏にいる奈鬼羅の陣営に付いたらしい。つまりこいつは現在の紅牙の立場からしても明確に『敵』ということだ。
予想外の再会による衝撃で気勢を弱められていた紅牙だが、今現在の状況を思い出して何とか己を取り戻すことが出来た。彦五郎に向かって刀を構える。後ろに控えていた伽耶も弓を引き絞る。
「越後の出身というのは聞いてたけど、まさか本当に知り合いに出くわすとわね。……問題ないかしら?」
「ああ、悪いね。心配かけた。もう大丈夫だよ!」
伽耶の確認に力強く応える紅牙。そして先手必勝とばかりに斬りかかる。同時に伽耶が神祇の矢を放つ。
『ヒノカグツチの滅炎!』
連続で放たれた異能の火矢は、しかし彦五郎が刀を振るうとあっさり斬り払われた。文字通り目にも留まらぬ剣捌きだ。伽耶の表情が変わる。
「紅牙、気をつけて! 相当の手練れよ!」
「……!!」
伽耶の警告を受けた紅牙が気を引き締める。『輿入れ』の際には武家の跡取りという情報しか知らなかった。実際に会ってみて傲慢な性格の男だと知った。だが武芸の腕が優れていたかどうかは知らなかった。そういった事を知る前にあの夜を迎えたから。
(でもアタシだって昔のアタシじゃない……!)
あれから幾多の実戦経験を経て並の武士など問題にしない程には強くなった。奴が鬼武士になっていようが関係ない。そもそも鬼武士は美濃でも何人も倒している。一対一なら厳しい相手だが、今は伽耶がいる。
『ヒノカグツチの燐火!』
その伽耶が新たな神祇を発動する。紅牙の刀に淡い火の粉のようなものが纏わる。妙玖尼の『破魔纏光』ほどではないが、妖魔にある程度の攻撃力を付与してくれる術だ。これなら彦五郎に攻撃が通る。
「ありがとよ、伽耶!」
目は彦五郎を見据えたまま声だけで礼を言った紅牙は、燐火の纏わった刀で正面から彦五郎に斬りかかる!
『ふん!』
だが彦五郎は紅牙の連続斬りを尽くその刀で受け切る。妖魔に対する攻撃力が付与されてもその身体に届かなければ無意味だ。
『なるほど、元々じゃじゃ馬だけあって女だてらに中々の腕だ。だが今の俺には勝てん』
「ちっ……黙りな!」
嘲弄を含んだ彦五郎の態度に歯噛みした紅牙は更にその斬撃を速める。掛け値なしの全力攻撃。だが彦五郎はそれにすら反応して捌き切ってくる。恐るべき剣術の冴えだ。彦五郎は美濃で戦った鬼武士たちより強いかも知れない。
「そ、そんな……!」
紅牙が目を剥く。つい直近で加藤段蔵にも惨敗を喫したばかりだ。立て続けに自分の力が通じない相手との連戦に、彼女の自信と自負に僅かな揺らぎが生じる。
「紅牙! 『ヒノカグツチの滅炎!』」
だがそこに紅牙の苦戦を見た伽耶が、後方から援護攻撃を仕掛ける。神速の火矢が紅牙を避けて彦五郎に迫る。
『ち……鬱陶しい!』
やはり彦五郎によって全て斬り払われるが、紅牙が距離を取って仕切り直す時間は稼げた。彦五郎が忌々しげに舌打ちする。そして素早く懐から何かを取り出す。光を吸収するかのような真っ黒い球体。それは……小さな『瘴気石』であった。
奴はそれを地面に叩きつけて砕き割る。すると割れた瘴気石から噴煙が立ち昇り、新たな妖魔が出現した。
それは一頭の大きな『馬』であった。ただし……皮膚や内蔵などがなく、血と肉片がこびり着いた禍々しい骸骨の馬であったが。その両の眼窩には眼球の代わりに青白い不気味な光が灯っていた。
『馬骨! 暫しその女を足止めしろ! 殺せるなら殺して構わん!』
「……!!」
彦五郎の指示に従って骸骨の馬……馬骨が耳障りな嘶きを上げて、一直線に伽耶に向かって突進してきた。
「く……!」
伽耶は表情を歪めて横っ飛びに馬骨の突進を躱すと、横転しながら立ち上がった。そして即座に弓を構え直す。
『ヒノカグツチの滅炎!』
馬骨に向かって神祇の火矢を放つ。だが奴は両眼の青い炎を一際燃え立たせると、その骨の口を大きく開いた。そしてその口から両眼に燃えているのと同じような青白い炎を、まるで火の玉のようにして吐きつけてきた!
「な……!?」
伽耶が目を剥く。馬骨の吐いた青白い火球は伽耶の放った火矢と相殺して互いに消滅した。当たれば下級妖魔なら致命傷を与えられる『ヒノカグツチの滅炎』と相殺するとは、この馬骨という妖魔は一つ目鬼や山姥などのような中級に属していると見て間違いない。
つまり……伽耶一人ですぐに倒せるような相手ではないという事だ。そしてそうなると当然……
『くく……これで邪魔者は居なくなった。さあ、続きと行こうじゃないか沙雪?』
「……っ!」
彦五郎と一対一の状況にさせられた紅牙が冷や汗を垂らして一歩後ずさる。妙玖尼もあの灰と炎の巨人から景虎たちを守るのが精一杯で、とてもこちらに駆けつけられる状況ではない。そんな彼女を嬲るようにゆっくり近づいてくる彦五郎。その鬼の面貌が好色な感情に歪む。
『ヌフフ……しかしあの時はまだ乳臭かった小娘が随分成長したものだ。今すぐに殺すのは勿体ないな。あの【初夜】の続きをしてやるのも悪くはない』
「な、なんだって……!?」
紅牙が目を剥く。同時に彦五郎の目線が、自分の露出甲冑から剥き出された脚やお腹などの素肌に注がれるのを感じた。全身に怖気が走る。今まで様々な男の好色な視線を集め、時にはそれを快感にすら感じてきた彼女だが、この時ばかりはまるで……あの【初夜】の時の生娘に戻ったかのような激しい嫌悪感に身震いした。
「ざけんじゃ……ないよ! あの時の続きだって? じゃあ今度こそきっちりと殺してやらないとね!」
紅牙は屈辱を怒りに替えて、再び彦五郎に斬り掛かっていく。だが怒りで斬撃の速度が上がる訳では無い。先程と同じく無情にも全ての連撃が余裕を持って捌かれてしまう。
「く……チクショウ!」
紅牙は歯噛みして毒づく。今すぐこのクズを斬り倒してやりたいのに、それが出来ない。自分も剣の腕を上げたはずなのに、一対一ではどう足掻いてもこの男に勝てない。その事実は彼女に悔しさと屈辱と……恐怖を喚起させた。奴はまだ一度も自分に対して攻撃を仕掛けてきていないという事を意識してしまう。
『くく、気は済んだか? では……そろそろこちらの番だな?』
「……ッ!!」
そしてその恐怖はすぐに現実のものとなる。紅牙は目を瞠って慌てて距離を取ろうとするが、奴の動きの方が遥かに速かった。
奴の姿が一瞬にして紅牙の前に出現した。踏み込みの速さだけなら段蔵よりも更に速いかも知れない。紅牙に出来たのは半ば本能的な防御反応で刀を立てる事だけであった。
直後に凄まじい金属音と衝撃。到底刀を把持している事が敵わず、刀は彼女の手からあっさりと弾き飛ばされてしまう。一瞬にして武器を失って青ざめる紅牙。そこに間髪を容れず彦五郎の刀の柄が彼女の剥き出しの腹部にめり込んだ。
「げふっ……!!」
一撃で肺から全ての空気を絞り出されて呻く紅牙。同時に急速に意識が遠のいていく感覚。ここで気絶したら確実に不味い事になる。それが解っていながら抗う術はなかった。
(ゴ、ゴメンよ、尼さん……。ア、アタシは……)
心の中で相棒たる妙玖尼に詫びながら、紅牙の意識は暗黒の沼に沈んでいった……
「べ、紅牙!? そ、そんな……!」
一方単身で馬骨の攻撃に晒されて何とか持ち堪えていた伽耶は、あの紅牙が全く歯が立たずに容易く気絶させられるのを見て驚愕に目を瞠る。外道鬼としての身体能力だけではない。あの鬼武士の腕前自体が相当なものだと思われた。
『ふふふ、これは思わぬ収穫であったわ。栃尾城に連れ帰ったら、たっぷりと楽しませてもらわねばな。そして反抗する気力を根こそぎ奪ってから、今度こそ【祝言】を上げるのだ』
彦五郎は独り善がりな妄想に嗤うと、意識を失った紅牙の身体を左肩に軽々と担ぎ上げた。意識がない紅牙はされるがままだ。
『そろそろ長尾軍の者共が駆けつけてくる頃合いか。……馬骨よ、戻れ!』
彦五郎が合図すると、今まで伽耶を一方的に攻め立てていた妖魔が奇怪な嘶きを上げて主人の元へ駆け戻る。攻撃の圧から解放された伽耶だが、すでに体力や気力を消耗し尽くしていて、その場に片膝を着いて喘ぐことしか出来ない。旅巫女の衣装もあちこち炭化してボロボロの有様だ。後衛型の彼女が単身で中級妖魔の暴威から生き延びられただけでも僥倖であった。
彦五郎は無様に喘ぐ伽耶になど見向きもせずに、紅牙を肩に担いだまま馬骨の背中に飛び乗るようにして跨った。
『煙々羅よ、早く景虎を片付けろ! そして長尾軍が来たら予定通り自爆して、一人でも多くの将兵を巻き添えにしてやれ!』
「……!!」
馬首を巡らせながら彦五郎が出す指示に伽耶が驚愕する。最初からいざという時は自爆させる事を前提にあの炎の妖魔を景虎達にけしかけていたのだ。妖魔の力を最大限に活用した二重三重の罠に伽耶は歯噛みする。
『ふははは! 精々足掻いてみせろ、景虎よ。無駄な努力だとは思うがな!』
哄笑した彦五郎が馬骨の手綱を握ってその腹を蹴ると、妖魔馬は再びあの嘶きを上げて一気に走り出した。城門や城下町とは反対方向。その方向には城郭と険しい山野が広がるはずだが、あの妖魔馬なら容易く踏破できるだろう。
彦五郎にまんまと離脱されてしまった。……その肩に担がれたまま意識を失っている紅牙ごと。
「紅牙っ!! な、何て事……!」
まだ神祇を使えるほど体力が回復せずに這いつくばって喘いでいる伽耶は、青ざめた顔でただそれを見送ることしか出来なかった……




