第二十九幕 忌まわしき再会
春日山城の三の丸御殿で行われていた、景虎とその臣下たちの会議。そこに随伴していた護衛の一人である彦五郎という名の武士が造反。隠し持っていた『瘴気石』の力で鬼武士と化した彦五郎は凄まじい強さで他の護衛たちを斬殺し、それだけでなくその瘴気石を割って中に封じられていた強大な妖魔を解放。
燃え盛る灰で構成された巨漢の妖魔……煙々羅は、会議に列席していた景虎や綾御前、宇佐美定満、長尾政景ら越後国の重鎮を一網打尽にせんとする彦五郎の命令を受けて、炎の渦で攻撃してきた。
「っ!! 皆、私の後ろへ! 『オン・クロダノウ・ウン・ジャク!!』」
景虎の護衛として同席していた妙玖尼は、弥勒を構えて彼等を後ろに庇うと『真言界壁』の術を発動させた。直後に炎の渦が妙玖尼たちを襲い、法術の障壁と接触することで激しく燃え上がり巨大な火柱を立ち昇らせた。
「ひ、ひぃぃぃっ!!」
間一髪保護が間に合った政景が、視界を塗りつぶす炎と凄まじい爆音に頭を抱えて蹲る。景虎や綾御前たちも反射的に自身を庇うような動作を取ったが、次の瞬間にはこれだけの炎の渦を浴びて自分たちが焼け死んでいない事にも気づいた。
「お、おお……な、何と……」
定満が目を瞠る。彼等の前には妙玖尼が展開した『真言界壁』が煙々羅の炎の渦を完全に遮断している光景があった。まさに御仏の加護としか思えぬ光景にさしもの綾御前も驚きを隠せない様子だった。
「さ、流石は妙玖尼殿だ。また命を救われたな……」
景虎も冷や汗を拭いつつ妙玖尼を称賛する。だが彼女はそれに反応している余裕はなかった。
(この妖魔……強い!)
障壁越しに感じる圧力は相当なものだ。既に三の丸御殿は原型を留めない惨状を呈していた。周囲は文字通り火の海地獄と化して巨大な火柱が立ち昇っている。妙玖尼の障壁が破られれば、あの炎と熱が一気に押し寄せて彼女らはあっという間に焼死体へと早変わりするだろう。
煙々羅という妖魔は妙玖尼の知識にもなかったが(彼女とてまだ退魔師としては若手であり、全ての妖魔を識っている訳では無い)、この妖気の圧からして間違いなく鎌鼬や怨霊鬼に匹敵する上級妖魔だ。
(一体武田は……いえ、あの奈鬼羅とやらは、景虎様を殺すことにどれだけの戦力を割いているのでしょう?)
いかに妖鬼とはいえ上級妖魔を子飼いに出来る数は限られているはずだ。武田なら解るが、なぜ妖鬼がそこまで景虎を殺すことに注力するのか。
(まさか、あの妖鬼は武田の……)
そこまで考えが及んだ彼女だが、幸か不幸か事態は彼女にそれ以上の思索の余裕を与えてはくれなかった。煙々羅の炎の圧が一段と強まったのだ。
「ぐ……!?」
「妙玖尼殿!?」
苦しげに呻く妙玖尼に景虎が驚く。あの妖魔はこのまま圧力を強めて押し切る気かも知れない。事実妙玖尼は障壁を解く事もできず(解いたら一瞬で炎に巻かれて焼死する)有効な反撃手段がない状態だ。彼女単独では如何ともしがたい状況。
(べ、紅牙さん……伽耶さん! 早く、気づいて……!!)
仲間による援護が必要だ。この派手な爆発と火柱には流石に彼女たちも気づいたはずだ。今この場所で妙玖尼や景虎達が集まっていた事は彼女らも知っているはずなので、この火柱を見たらすぐにでも駆けつけてくれるはずであった。
はず、はず、はず……。全部確信が持てない不確定要素ばかりだ。だが今の妙玖尼はそれを信じて縋る以外になかった。そして……ある意味で彼女の願いは叶った。
――ビシュ! ビシュ!!
『……!!』
風を斬り裂くような鋭い飛来音と共に煙々羅の身体に何かが着弾し、奴の巨体が傾いだ。それと同時に今まで妙玖尼を攻め立てていた炎の渦の圧力が弱まった。
『……! 何奴!?』
「良かった、伽耶さん…………えっ!?」
その飛来物が飛んできた方角に警戒して向き直る彦五郎。妙玖尼もまた安堵して同じ方角に視線を向けるが、直後にその目は戸惑いに見開かれた。
遠距離攻撃らしかったのでてっきり伽耶だと思ったのだが、そこに立っていたのは伽耶とは似ても似つかぬ男性であった。破壊された三の丸御殿の外から何かを投げたような姿勢を取っていた。使用人のような格好をしたこの男性が、今の攻撃で煙々羅を牽制したのは間違いないようだ。
「っ! 段蔵……!」
それまで無言だった綾御前が彼の姿を見て、若干の安堵を滲ませる。
「御前様、ご無事ですか……!?」
「私は無事です。この妖魔を何とかしなさい!」
大名であるはずの景虎に目もくれずに綾御前の無事だけを確認する段蔵と呼ばれた男。そして彼女の方もそれを当然のように受けて即座に命令を下す。仔細は不明だが、綾御前の個人的な私兵の類いであろうか。だが……
「だ、駄目です! 強力な妖魔になるほど通常の武器の類では傷つける事さえ難しくなります! 法術の加護が無ければ……」
そこまで言って気づいた。ではなぜ煙々羅は先程の攻撃に怯んだのか。いかに奇襲とはいえ法術も掛かってない武器では、上級妖魔にとっては文字通り蚊に刺されたようなものであるはずだ。その答えはすぐに示された。
『……オン・ニソンバ・バザラ・ウン・ハッタ!』
「な……!?」
妙玖尼は思わず自分の耳を疑った。段蔵と呼ばれた男が唱えたのは、妙玖尼ら密教の退魔僧が扱う法術の真言そのものであったから。だがただ模倣して唱えただけでは当然何の効果もない。法術を扱うにはまず自己の法力を覚醒させる必要があり、更に厳しい修行を積んでその法力を練り上げていく事でようやく――
――段蔵の持つ鎖鎌が『破魔纏光』の光で覆われた。そして彼がそれを目にも留まらぬ速さで縦横に振るうと、煙々羅の巨体に幾筋もの裂傷が穿たれ、妖魔が苦鳴を上げて後退する。それによって妙玖尼たちは完全に炎の圧力から解放された。
だが妙玖尼はそれどころではない。唖然とした顔で、妖魔を斬り裂いた段蔵を見やる。彼が使ったのは紛れもなく『破魔纏光』の術だ。実際に煙々羅に対して有効打を与えているので、間違いなく本物だ。
「ど、どうして……」
「風魔忍者は長い年月をかけて日本中の様々な異能者たちを己が血筋に貪欲に取り込む事で発展してきた、恐るべき異能者集団でもあります。風魔が過去にそうして取り込んだ異能者の中に、あなた方のような密教の退魔師がいても不思議ではないでしょう? 私が段蔵を取り立てているのは忍びとしての能力は勿論、あの退魔の力を持つが故でもあります。昨今の妖魔の脅威は大名や豪族であっても無視できなくなりつつありますから」
「……!」
綾御前の説明に目を瞠る妙玖尼。風魔忍者の噂は修行時代に戎錬から聞いた事があったが、まさか本当に取り込んだ異能の力を使いこなせるとは。段蔵は退魔の力だが、恐らく他にも様々な異能を使いこなす忍者たちが存在しているのだろう。
「……あれは飛び加藤か。姉上があのようなまいす者を子飼いにしていたとはな」
苦虫を噛み潰したような景虎の言葉に、しかし綾御前は悪びれる様子もなくかぶりを振る。
「まいす者でも使い方次第でしょう。段蔵が今までどれだけ武田やその他の大名の密偵を始末してきたか知っていますか? そして今もこうして私達の命を救った」
「ぬ……」
痛い所を突かれた景虎が唸る。綺麗事だけでは国は治められないし、他大名との群雄割拠にも勝ち残ってはいけない。それを良く知るが故に、姉に反論できなかったのだ。
彼等が話している間にも段蔵と煙々羅の戦いは続いており、炎や火花がそこら中に撒き散らされ、妙玖尼は巻き込まれを避けるために『真言界壁』は張り続けておかねばならなかった。
(あの段蔵という男……恐ろしく強いですね)
自身で『破魔纏光』が使える上に、美濃で共闘した雫も越えるような人間離れした体術を駆使し、そこに鎖鎌などの多様な武器を使いこなす事で、単独で上級妖魔とも渡り合える馬鹿げた戦闘能力を発揮していた。これが風魔忍者の力か。
『ええい、何をしている煙々羅! そんな人間、さっさと片付けろ!』
上級妖魔がいながら膠着している戦況に彦五郎が苛立った声を上げる。時間が経てばあの派手な火柱を見た城下の将兵たちが駆けつけてくるだろう。それが解っているが故の苛立ちもあるようだ。だが……ここで更なる状況の変化が発生した。
*****
「よし、やっと着いたよ! 尼さんは無事かい!?」
三の丸御殿に駆け戻っていった段蔵の後を追うようにして、ようやく現場にたどり着いた紅牙と伽耶。この頃には紅牙も段蔵にやられた衝撃から回復して万全の状態で戦えるようになっていた。伽耶も途中で自身の弓矢を回収して、やはり万全の状態であった。
折角駆けつけても満足に戦えないでは却って足手まといになる可能性が高いため、『急がば回れ』と若干の寄り道をさせて貰ったのだ。その甲斐あって何とか二人とも万全の体制を整えることが出来ていた。これなら例え相手が上級妖魔だったとしても妙玖尼の助けになれるはずだ。
「あ、あれは何……!? あいつがあの火柱を?」
「見た目からして間違いないね。でも……あいつ、あんなヤバそうな妖魔と互角に渡り合ってやがる……!」
伽耶の驚愕に、紅牙も頷きつつ歯噛みする。彼女らの視線の先では燃え盛る灰で構成された巨大な人型の妖魔と段蔵が激しい戦闘を繰り広げていた。戦いぶりからしてあの灰の巨人は間違いなく上級妖魔だ。だが段蔵は人間離れした挙動で、それに全く引けを取ること無く互角に戦っていた。自分たちと戦っていた時はまだ全く本気ではなかったのだ。その事実に屈辱を感じる紅牙。
「見て、妙玖尼さん達は無事なようね! 流石だわ」
「……!」
伽耶の声に気持ちを切り替えた紅牙は、彼女の指さす先に視線を向けて安堵の息を吐いた。そこには妙玖尼が弥勒を構えて法術の障壁を張って、景虎や綾御前、その他長尾軍の重鎮と思われる武将を何人か後ろに庇っていた。
綾御前も無事なことに舌打ちする紅牙だが、妙玖尼は彼女が伽耶に刺客を放っていた事など知らないはずなので仕方ない事ではあった。
「……! あそこにも誰か…………って、あれは外道鬼!? あいつも敵のようね」
伽耶に言われて、紅牙もその場にもう一人いる事に気づいた。段蔵と妖魔の戦いに巻き添えを食わない距離まで退避している、武士と思しき格好をした男が一人いたのだ。血濡れた刀を手に持つその武士はよく見ると額から角が生え、口からは牙が覗き、目は赤く発光していた。
それは美濃でも散々戦った外道鬼の特徴を持っていた。それもおそらく格好や佇まいからして鬼武士だ。上級妖魔ほどではないが、一体でもかなりの強敵である。
「あっちの戦いには近づけそうもないし、とりあえずアタシらはあいつを片付けるよ!」
「それが賢明ね」
鬼武士を一体倒すだけでも充分な援護だ。当面の目標を定めた紅牙たちは、戦闘態勢を維持したまま鬼武士に向かっていく。
「おい、クソ鬼野郎! お前の相手はアタシ…………っ!?」
『……! 何だ、この女…………ッ!?』
鬼武士の注意を惹きつけるために大声で挑発する紅牙。そしてそれに惹きつけられ、こちらに向き直る鬼武士。双方が互いの顔を視認した。そして……双方共にその目が、これ以上ないほど限界まで見開かれた。
あれから何年もの月日が経っていた。そして紅牙は当時からは想像もできない露出甲冑姿で、更には荒んだ山賊生活で人相も大分変わっていた。奴に至っては人相どころか、角や牙が生えて目が赤く光っている人外の面貌だ。にも関わらずそれらの事実など一切関係ないかのように、双方共にひと目見ただけで一瞬にして互いを認識していた。
『き、貴様……貴様、沙雪か……!!!』
「ア、アンタ……アンタは…………彦五郎っ!!?」
驚愕に固まったまま呻く紅牙。
「紅牙!? こいつを知っているの?」
その様子に不審を抱いた伽耶が眉をひそめて問いかけてくるが、それすら殆ど耳に入っていないかのように青ざめた顔で紅牙は鬼武士――彦五郎の顔を凝視していた。
忘れもしない。それは彼女が山賊に身をやつす切っ掛けとなった忌まわしい記憶。奴は紛れもなく……まだ生娘だった彼女が『初夜』の場で刺殺したはずの『許嫁』の男、国分彦五郎であった!
紅牙の過去については、序章『飛騨の紅天狗』の第四幕「海乱鬼の企み」に記述があります。




